カイヴァーン「これ、食べれると思う……?」フレデリク「さすがにこれは……でも、試しに一口」アイリ「ええっ……私料理するの嫌よ?」
彼は命からがら、深淵に戻って来た。
体中が痛い。涙が出る。また足を一本根元から失った。もう一本も先端が無くなっている。
彼ははっきりと見ていた。この一本の足の先を切った小さな陸の生き物を。そいつは銀色のぴかぴかの何かを振り回して、この足のここから先を切り離してしまった。
顔も頭もボロボロだ。頭のてっぺんには棘のような物が深々と刺さっていて抜けない……
もう嫌だ。最近は鱈の群れも来なくなってしまったし、ここに居てもいい事は無い。怪我が少しでも癒えたら、あの恐ろしい小さな陸の生き物が来ない所に引越そう。
二隻は手近な小さな砂利の浜のある入り江に並んで錨を降ろす。
レイヴン海軍の連中はボートで浜に上がると、とにもかくにもと、火を起こし始めた。この寒い中乗員のほとんどがずぶ濡れなのだ。
私は厨房で竈の火に当たるアイリさんと腹痛を訴え船員室に籠っている不精ひげを残し、他の皆と商品と共にボートで浜辺に向かう。
浜辺ではやはりずぶ濡れのマカーティが、仁王立ちで待ち構えていた。
「来やがったなクソ野郎! てめえまず俺に言う事は無ェのか!」
私もさすがにこの男を平均的なレイヴン男だとは思わない。ただこういう極端な人間に遭ってしまうと、今後はレイヴンの男と聞く度にこの男をイメージしてしまうだろうとは思う
「君も毛織のセーターを買わないか? 暖かいし着心地がいいぞ」
「ああ!? とぼけんじゃねえぞクソチビ」
「艦長やめて下さい! 彼等は今や頼みの綱ですよ!」
どうやら艦長だったらしいこの男。アイビス語も出来るのね。今まで出来ないふりをしていたのか。私はともかくその男を無視して浜辺に木箱を並べ、中身をその上に積み上げる。
「出来のいい既製品がたくさんあるからね、じゃんじゃん買ってくれ、セーターにズボン、オイルスキンのコート、毛糸のパンツだってあるよ。値段はまあ、ブレイビスの市場と同じとは行かないけどな」
マカーティもレイヴン人士官達も、水夫や兵士が私達の商品に群がるのを止めようとはしなかった。私は正直半分くらい強奪される覚悟でいたが、彼等はちゃんと金を払ってくれた。
「こんな所で防寒着を買えるとは思ってもみなかったな……ああ、暖かそうだ」
「こんないい物を売ってたんなら、前に遭った時に言ってくれよ」
海軍の水夫達の装備は元からバラバラだった。十分な防寒着を着ている者は半数も居ない感じだ。本当によくそんな格好で仕事が出来るわね……レイヴンが強いわけである。
「ああ……こりゃ暖けえや、生き返るぜ」
「手も足もしもやけだらけだよ、助かったな」
皆さん喜んでくれるのはいいんだけど、目のやり場に困るのでさっそく裸になって着替えるのはやめて欲しい。アイマスクをしていて良かったなあ。
くそ痩せ我慢をなさっていたマカーティは、他の全員が買い物を終えてからやって来た。
「おいお俺にも売りりやがれれ畜生……はは肌着とシャツツとパパンツと」
「大丈夫か? 唇が紫色だぞ。君の体格ならこれとこれはどうだ……何故君は向こうで焚き火に当たらないんだ」
マカーティは歯の根をカチカチと鳴らしながら答える。
「おお俺にはククソ野郎が何かしないかみみ見張るという仕事がある、俺は! てめえの事を信用した訳じゃないからな! てて手袋もくれ、く靴下はいらねえ」
コルドンでは船倉もかなり空いていたので、フォルコン号はかなり多目に炭薪を積んでいた。これもアレクが向こうの副長と交渉して高値で買っていただいた。
「私は副長のハロルドだ。薪を売ってくれてありがとう。こちらは仮艤装にも時間がかかりそうだし本当に有難い」
マカーティはさておき、きちんと名乗ってくれたハロルドさんという向こうの副長は常識のある紳士だった。
「これからどうするんだ?」
「率直に言えば、まず君達を監視する為に陸上に置いて来た連中を迎えに行かなくてはならん……グレイウルフ号が戻って来ると信じて海岸で待っているからな」
ここでやっと私は向こうの船の名前を知った。グレイウルフ号ですか。
レイヴン人達は働いていた。時間的にももう深夜0時を過ぎたと思うのだが。メンマストは静索で引っ張って真っ直ぐに立て直している。
「マストは直りそうか?」
「立てておく事は出来るけど、ちゃんと修理するまで本来の帆は張れないだろう。ターミガンの古い船のような大きな三角帆を何枚か取り付けて、何とか動かすさ」
私がハロルド副長と人間らしい会話をしていると、着替えを終えたマカーティが戻って来る。
「お前ら! あんまり仲良くするんじゃねえ!」
「鹿の模様のセーターが似合うね」
「おいチビ! てめぇの名前はフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストで間違い無ェんだろうな!?」
私の心の中で緊急警報の鐘が鳴り響いた。
私は辺りを見回す……ロイ爺とアレクは商品の片付けをしていて、ウラドとカイヴァーンはグレイウルフ号の応急手当の力仕事を手伝ってやっている。だから今近くに居るのはぶち君だけだったが。
「そうだけどいちいち大声で言わないでくれ」
「平然と名乗りやがってどういうつもりだ、お前だろう、海賊ファスウトと組んでうちの……レイヴンのナントカ外務官を誘拐して身代金をせしめたって奴は?」
マカーティが本当に声を落としてくれたのは意外だった。私はこの話を絶対にフォルコン号の乗組員に、特にアイリさんには聞かれたくない。
いや、そんな事言ってる場合じゃなかったな……そうか。レイヴンがフレデリク君を探しているのは知ってたけど、その話はここスヴァーヌ海を哨戒するコルベット艦の艦長でも知ってるくらい、広く周知されているのか。嫌だなあ。
とりあえず、困った時は質問返しだ。
「ファウストって大変な賞金の掛かった大海賊の? そんな奴がわざわざ僕と組むと思うか?」
「俺も正直そう思った。情報によればフレデリクって奴は身長170cmで金髪だと言うしな」
私は帽子を取ってみせる。
「わざわざ取らなくたって解んだよ、いちいちイライラさせんな!」
「いやまあ、僕の身長は170cmぐらいじゃないか? この髪だって光の当たり具合によっては金髪に見えない事も」
「20cmもサバ読むんじゃねえクソチビ! とにかくお前の見た目は情報と違う」
ちょっと待ってよ。20cmは言い過ぎですよ155cmはありますよ、私はそう思ったけど面倒なので黙っていた。
「だが……」
ずっと表情豊かに怒ったり笑ったりしながら喋りまくっていたマカーティが、急に真顔になる。
「あんな豆鉄砲一つしか無ェ乗組員もギリギリしか居ない船で、ついさっき自分を攻撃して来た軍艦を救援に来る。それは相当にイカレてないと出来ない芸当だ。だから俺は間違っているのは情報の方で、ファウストと組んでナントカを誘拐したのはお前だと考える」
あれ。これってもしかしてピンチなんですかね……?
ぶち君が尻尾を逆立てて私とマカーティの間に立ち塞がる。
マカーティは油断なく私を睨みながらも、がっくりと肩を落とす。
「しかしお前が本物のフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストでなければグレイウルフ号の乗員は一人も母国に帰れなかっただろう。母親達は息子を失い妻達は夫を失っていた。女達はお前に感謝するに違いない」
「うん? それはつまり……君は回りくどい奴だという事か?」
「うるせえ! 人間には誰にでも得意不得意があって、俺はこれで精一杯って事だ! 釣りはとっておきな!」
マカーティは彼個人が購入した毛織の服の代金と思われる金貨を木箱の蓋の上にドンと置く。
私はそれを数えて言った。
「ごめん、銀貨2枚分足りないんだけど……」
レイヴン人達は船の応急手当と休息の為、暫くここに留まるという事である。私が売りつけてやった毛織の服は、彼等の濡れた綿の服に代わり彼等に快適な暖かさを提供するだろう。私の財布も膨らんだし言う事無しだ。
タコが襲って来たのは報復の為かもしれないという話もハロルド副長から聞く事が出来た。彼等は以前にもあのタコを砲撃したのだそうだ。
あれがこの近辺に棲みつき鱈の群れを暴食したせいで漁場に鱈が回遊して来なくなっていたらしい。
つまる所あの戦いは人間とタコの鱈の奪い合いだったのか。私の食生活も安い干し鱈に助けられる事が多かったので他人事ではない。
「じゃあな。君達の幸運を祈るよ」
「お前に幸運を祈られる筋合いは無ェよこのストークの馬の糞が! 下らねえ事言ってねェで俺の気が変わる前にとっとと失せやがれ!」
困った事に私はこういう奴が決して嫌いではない。レイヴンの水夫達は皆この艦長を尊敬し信頼しているようだし、この艦長もどうしようも無い口の悪さとは裏腹に、船と部下を何より大切にしているように見える。
そのマカーティが、私が乗り込んで浜を離れようとしたボートを、わざわざ海に足を突っ込んでまで、押し出しに来る。
「お前の船、元レイヴン海軍士官が乗ってるだろ? それも艦長クラスの奴だ。違うか?」
うーん……どう答えよう……って悩む事無いよね、適当に誤魔化そう、部下の情報をレイヴン海軍に教えてやるとか有り得ないじゃん。
「うちにレイヴン出身は居ないと思うけどなあ。何でそう思うんだい?」
「とぼけるな。あの悪魔との戦いの最中にレイヴン海軍の水夫を鼓舞する声が聞こえたぞ……俺もハロルドも言ってない。お前の声でもなかった」
悪いマリーがジャック・リグレーの事を聞いてみろと騒ぎ立てるのを、フレデリクはどうにか抑え込む。
「すまないが、本当に解らないよ」
ボートの底が砂利浜から離れた。
「ありがとうマカーティ、縁があればまた会おう」
「あああ!? ふざけんなクソが、虫酸が走るぞこの野郎、ストークの馬の糞が、言うに事欠いてありがとうだと!? おい待て! 戻って来いこの野郎!」
いきり立つマカーティの後ろで、レイヴン海軍の連中が無言で手を振ってくれていたのだが、マカーティが後ろを振り向こうとすると全員ピタリとそれをやめた。
なるほど。レイヴン海軍の強さの秘訣はこの団結力なのだろう。