アイリ「貴方もタコ苦手だったの? 何で言わないのよ」ウラド「いや私は……アイリの料理に不満は無いので……」
トドでもハゲワシでもサメでもないじゃん!
フォルコン号が追い詰められ、マリーが一人で投降する覚悟を決めた途端。
空気も読まず、オーロラ照らす極夜の海の底から現れたのは、超巨大なタコだった。
三人称で参ります。
二週間ほど前のある日。彼はお気に入りの岩の上に居た。
彼はもうじき、この海に朝が来なくなる事を知っている。
南向きのその岩の上には、低く頼りないが明るく眩しい太陽の赤い光が柔らかく照りつけている。彼はその大きな身体を岩一面に広げ、しばらく見納めとなる日の光を浴びていた。
陸に上がり日の光を浴びる事。これは小さな同族が真似をすれば干からびてしまう恐れもある危険な行為なのだが、彼程の巨体を持つ者にとってはどうという事もない。むしろこうして時々日干しになる事は彼の健康の秘訣でもあった。
冷たい海水には慣れっこだが、たまにはこうして太陽に身体を温めてもらうのも気持ちがいい。
彼が心地よい微睡に身を任せようとした……その時である。
「撃ち方始め! あんなでかい的を外す奴は飯抜きだぞ!」
―― ド ド ド ド ド ド ドン!
レイヴン海軍のコルベット艦グレイウルフ号の24ポンド砲7門の左舷砲列が順番に火を噴いた。
目標は無人島の岸辺の大岩に貼り付いていた、超巨大なタコである。距離はおよそ300m。カノン砲で狙って撃つにはぎりぎりの距離だ。
グレイウルフ号には他に艦首に2門の9ポンドカルバリン砲があり、そちらの方が射程距離も精度も上なのだが、これは威力が無い。
―― ガシャーン! ガガガラガラ……
粉砕された岩や地面に当たった砲弾が巻き起こす粉塵が、爆煙のように着弾地点に広がる。
「くそッ。これじゃ何発着弾したのかわかんねぇぜ。誰と誰が外したのかもな」
この攻撃を指示したグレイウルフ号艦長、マイルズ・マカーティが呟く。
「次弾装填急げ! 観測班! 奴はどうなった!?」
副長のハロルドも砲列と見張り台に指示を飛ばす。見張り台の男は叫び返す。
「甲板! 奴の姿は見えません! ぱっくり割れた岩と……ああっ! 足が一本残ってます、岩肌に貼り付いて……うえっ……気持ち悪りぃ」
◇◇◇
いかに超巨大とは言えタコはタコに過ぎず、カノン砲の直撃弾を喰らったのではひとたまりもなかったのではないかと。
グレイウルフ号の艦長以下乗組員達はそう考えていたし、今は大変な大物であったというフォルコン号の捕り物に夢中になっていたので、あの時のタコが複数の直撃弾を浴び命からがら海に逃げ延び、砲弾や岩の破片によってつけられた無数の傷に苦しみながら、岩陰に身を潜め復讐の機会を伺っていようとは思ってもいなかったのである。
左舷側から伸びたタコの手は二本、片方は手摺りにかかっただけだが、もう片方はフォアマストにしっかりと絡みつき、追い風を受けて前進していた船を激しく傾ける。
「うわあああ!?」「暗礁か!?」「落ちるッ……」
急減速した船内では多くの水夫や海兵が転倒し床や柱に叩き付けられる。艦尾楼に居たマカーティも手摺りを越えて甲板に叩き付けられそうになる。
―― ドボーン!
実際に冷たい海に落下した者も居た。
「一体何だってんだ!」
「ば、ばっ……化け物だぁぁあ!!」
巨大タコは先に組み付いた手で引き寄せるようにして、暗がりの海を割り浮上し、グレイウルフ号に乗りかかって来ていた。緑と黒のまだら模様のぶよぶよとした肌、一つ一つが意志を持っているかのように蠢く吸盤、そして水平に割れたような襞を持つ黄土色の瞳。
二本の腕で絡め取られたグレイウルフ号は30度ばかり左舷に傾いていたが、風を受けたままのマストは船体から捻じり切られるように歪み、激しく軋む。
「動索を切って帆を離せ! 早く!」
マカーティはさすがにフォルコン号の追跡を断念し、帆と怪物に船体を綱引きにされる事を防ぐ選択肢を選ぶ。
既に海に落ちた水夫も居る。状況を把握出来る者など居ない。しかしレイヴン海軍の水夫達は艦長を信じどんな環境下でも言われた仕事にすぐに取り掛かる。
しかし何とか立ち上がり甲板を走り始めた水夫達の背中へ、タコの三本目の脚が、長大な鞭のようにしなりながら、横薙ぎに浴びせられた。
「ぐわあッ!?」「ギャッ……!」「あ……悪魔め!」
そして大量の水飛沫が水夫達に、海兵に、士官や艦長にも降り注ぎ、たちまち彼等を水浸しにする。スヴァーヌ海の海水は緯度の割には温かく凍結する事は殆ど無いと言うが、それは程度の問題であって、結局の所人間にとっては身を切るような冷水に違い無かった。
「撃て、撃て!!」
海兵隊の隊長が叫ぶ。彼自身は落水した仲間達を助ける為、既に海に飛び込んでいた。
「しかし、隊長ッ」「構わん! 早く!」
グレイウルフ号のランプは全て消されていた。オーロラが明るいしフォルコン号を追うだけだった先程は不要だったのだ。しかし今この混乱の中この明るさで銃を撃ったら、落水した仲間や他ならぬ隊長に当たる可能性がある……それでも残りの海兵隊員達は、巨大タコの胴体の方に向け一斉に装填されていたマスケット銃を発砲した。
―― ドン! ドドン! ターン! ドドン!
次の瞬間。フォアマストの根元に絡みついていたタコの腕が離れる。突然手を離されたグレイウルフ号は復元力で大きく反対側に揺れ返した。
「うわああっ!?」
その反動で、今まさに射撃を行った海兵隊員のうち数人が、右舷側の手摺りから放り出され、向こう側に落ち、水音を上げた。
「ええい、奴は!? 化け物は!!」
艦尾楼と上甲板を分ける手摺りに捕まっていて何とか落水を免れたマカーティ艦長は辺りを見回す。艦はまだ大きく揺れている。索の外された帆が、ただのカーテンのように、風とヤードの揺れに合せてヒラヒラと舞う。
「とにかく今のうち、落ちた奴を拾いあげろ!」
副長のハロルドもメンマストの静索にしがみついていて無事だった。
「ハロルド! それより両舷の大砲の準備をさせろ、奴はまだ来る!」
「艦長! その為の水夫を救い上げてからでないと準備が出来ません!」
「大砲が優先だ黙って言う事を聞け! ワービック、誰が海に飛び込めと言った! 早く海兵隊にマスケットを再装填させろ!」
マカーティは反論する副長と、勝手に人命救助を優先した海兵隊長を怒鳴りつけ、自らも砲列甲板に飛び降りて大砲の一つを装填しにかかる。
「乾いた布を持って来い! いくらあっても足りねえぞ!」
「艦長、人命救助を……」
「艦が沈んで誰が助かるってんだ、あの目を見なかったのか!? あの化け物間違いなくまたすぐ来るぞ!」
しかし結局の所、時間は無かった。
右舷側の先程の騒ぎと落水した海兵隊員達に揺らされる暗い海面から再び、丸太のように太く鞭のようにしなやかなタコの腕が、暗い海面を引き裂いて飛び出す。
「タコだあぁぁあ!!」
誰かが叫ぶ。艦首側の右舷水面からもやはり飛び出したタコの脚が、再びグレイウルフ号のフォアマストを捕える。
そして右舷側に浮上したタコの胴体、人間で言えば顔に当たる部分が光源の加減で先程よりはっきりと、グレイウルフ号の水夫達と艦長の目にも見えた。
緑と黒の斑模様の巨大なタコは、レイヴン人の彼等にとってはそれだけで恐ろしく、嫌悪感を催させるのには十分な物だったが。
タコの顔面、いや頭部、とにかく胴体のあちこちには……引き裂かれ、腐食したような深い傷や、巨大な瘤のような砲弾の直撃跡がいくつもあった。
しかしそんな物をまじまじと見つめている暇などは全く無かった。
―― バキィ!! バリバリバリ!!
「うわあああ!?」「落ちる!!」
タコが絡みついたフォアマストの根本の木材が、ひび割れ、弾け飛び、へし折られて行く。その上に繋がった帆も、ヤードも、そこで作業していた水夫達もまとめて、マストと共に傾いて行く。他の帆やマストと結ばれていたロープと共に。
―― ザバァアアア!!
マストの上に居た水夫達も何人もマストごと海に投げ出される。グレイウルフ号は二本あるマストの一本を完全に失った。
タコはさらにメンマストの方にも別の腕を伸ばしながら……グレイウルフ号にのしかかって来た。
「畜生!! 撃てる奴は居ねえのか! 鉄砲でも大砲でも、空砲でもいい! 奴を怯ませろッ!」
マカーティがそう叫んだ瞬間。メンマストの上の見張り台に居た水夫が、恐怖に裏返ったような声を上げる。
「甲板! 敵が……フォルコン号が艦首砲を出してこちらに向かって来ます!」