エッベ「船長より強いアイリさんが暴れてる……」
暗闇の中、浮標を使ってレイヴンの軍艦の監視の目を眩まそうとしたマリー。しかしレイヴン海軍はそれを注視していた。
その美しさに感動したのはつい昨日の事だったのに。
「これじゃ丸見えだよ……頼むから他所へ行ってくれないかな」
今夜も午後九時を過ぎた辺りからオーロラが空を舞いだした。光のカーテンが天球に広がり、地表を、海を、青白く照らす……その明るさは満月のそれに近い。
このオーロラがなければ、その辺の入り江に潜り込んでやり過ごす手もあったかもしれない。
「船長が祈ったら……風向きが変わったりしないかな……」
操帆の為に艦首から艦尾へと駆けて行くアレクが、通りすがりに呟く。
例のコルベット艦は闇と島々の間から現れ真っ直ぐにこちらに舳先を向けていた。今の所はまだかなり離れている。
風は西風、フォルコン号も向こうも8時方向から風を受けている。帆の総面積は向こうの方がやや広く、この風が続けば距離は詰まって行く事が予想される。
ただ向こうは四角帆も多いので、向かい風になればこちらの方が少し速いかもしれない。
だけど一番の問題はこの状態がいつまで続くかなんだよなあ。
我々は今北東に続く島々に挟まれた水路の途中に居る。水路を抜け出したら西へ舵を切って風上に切れ上がり、力技で距離を取るという方法もある……ただし目的地のフルベンゲンはどんどん遠くなる。
レイヴン人達はいつまで追って来るのか? 彼等は猟犬のようにしつこく敵を追い回し、辛抱強く喰らいつく事にかけては世界一だという。
向こうは十分な人員を積んだ軍艦である。風の変化に合わせて機敏に帆を調整する事も出来るし、交代でしっかりと休みを取る事も出来る。
一方フォルコン号は最小限の人数で動かしている商船だ。人数を掛けて操帆を頑張ればすぐに疲労という皺寄せが来る。風上に切れ上がればこっちの方が速いと言っても、いつまでそれを続けられるか……
短時間で勝負をつけないと……ただでさえのこの寒さ、皆も消耗が早くなるだろうし。勝負をつける……どうやって?
私は一度帽子を取り、アイマスクも外す……父の教えが勝手に身に染みる。船長は自分勝手であれ。思いつきで行動しろ。普段は怠けてていい。そして、いざという時には役に立て。
……だめだ。何も思いつかない。
とにかく今はこの水路を抜けるしかない。今どこかに船を泊めて隠れようとしても間違いなく見つかるし、進路も変えようがない。
あとは……神頼みか。今すぐ向かい風が吹く事を祈ってみるか……
船乗りが縁起を担ぐというのは物語の中ではよくある事だ。実際不精ひげなどはよく験を担ぐ。例のばつびょおーとかいう掛け声もそうだ。
私も船乗りになってしまったんだから、船乗りらしく? 神頼みくらいしてみたらいいんだけれど。減るもんじゃあるまいし。
だけど私、神様になんてもう一生分御願いしたと思う。
パパとママが仲良くなりますようにとか、お母さんが帰って来ますようにとか、ばあちゃんの病気が治りますようにとか。私は今までどれだけ神様に祈ったか解らない。
だからという訳ではないが、私は父の訃報を聞いた時にはどんなに悲しくても心細くても決して神様には祈らなかった。
私はごく気の弱い人間なので、神様やそれに仕える皆さんに嫌われたり逆らったりするような生き方はしたくないし、出来れば程々に仲良くさせていただきたいとは考えている。
けれども私には自分が風紀兵団に捕まって養育院に送られ修道女になって、それで上手く行く未来は見えない。一言で言えば私はあの世界がちょっと苦手だ。
故郷ヴィタリスのジスカール神父には色々とお世話になったんだけど……お金が無いのにばあちゃんの墓を建ててもらったし、本当に食べる物が無い時には食べ物も貰った……感謝はしてるんですよ。感謝は。
私はつまらない妄想から帰還する。アイマスクをつけなおし、帽子を被ろう……私はフレデリク・ヨアキム・グランクヴィスト、過去のしがらみに縛られたりせず、使える可能性のある手は何でも使うのだ。
私は両手を天にかざす。
「天よ……」
そう言い掛けた私は、視界の片隅にぶち君の姿を見つける。
ぶち君は工具の入った木箱の上にちょこんと座り、私をじっと見ていた。
「べ……別に神に祈ろうとしたんじゃないからな、そんな馬鹿な、神に祈って風向きが変わる訳がないじゃないか、神はそこまで暇じゃないし、僕だけを贔屓したりするもんか」
私はぶち君に向かってそう言い、慌ててその場を離れた。
◇◇◇
数kmに渡り続いていた水路が終わり、海路が開ける。ここもまだ島々に囲まれた湾内ではあるが、ここからなら色々なルートが取れる。
だけどレイヴンの軍艦は先程より近づいていた。
そしてちょうど私が艦尾楼から後ろを見ていた時だった。恐らく3kmくらい後方を追走して来るコルベット艦の艦首に、小さな炎の煌めきが見えた……
―― ドカーーン(笑)
―― ザバーーン(笑)
そして少し遅れて音が届き、砲弾がフォルコン号から100mくらい離れた水面に落ち、水柱を上げた。
レイヴンのコルベット艦が艦首の追撃砲を撃って来たのだ。期待していた訳ではないけれど、これであの船がたまたま同じ方向に行こうとしているだけという可能性は無くなった。
これはまあ……停船しろって意思表示ですよね。マリー・パスファインダーも年貢の納め時かなあ。
実際降伏したらどうなるんだろう? 船はまあ没収ですよね。水夫は……別に殺害されるような理由は無く、レイブン海軍の水夫として採用されるのでは。
私はどうなるんだろう。私の正体は海賊フォルコン・パスファインダーの娘である。そしてこの辺りのレイヴン軍人さんは知らないだろうけど、ハマーム沖でレイヴンの外交官ランベロウ氏を誘拐したフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストの正体でもあるのだ……それもバレたら、どうなるんだろう。
縛り首は仕方ないけど、晒し者になるのは嫌だなあ……ひと思いに殺してもらえず、街角の柱か何かに吊るされて市民の皆さんに石を投げられたり……ああ。怖い想像をしてしまった。
私は駆け寄って来た不精ひげに尋ねる。
「ずいぶん遠くまで届く大砲だね」
「半カルバリン砲だな。この距離なら余程運が悪くなければ当たらないだろう」
「うちの大砲もあのくらい飛ぶのかい?」
「うちのは……頑張って400m、本気で当てようと思ったら100mだ」
「向こうは?」
「最大4kmくらいかな。狙いをつけられるのは1km先までだと思う」
「まだ慌てるような時間じゃないって事だな」
「それは……そうだ。肝が座ってるな船長は。初めて撃たれた時は誰でももう少し慌てるもんだが」
「前にナルゲス沖でも撃たれたじゃないか。まあ慣れてる訳じゃないけど」
いつの間にかカイヴァーンやアイリ、ウラドまで近くに来ている。少し話しにくくなるなあ。
「どうだろう。ボートを貸してくれないか。僕が一人で行ってみるよ、パスファインダーの娘に何か用があるのか、それともフレデリクという名前の男を探しているのか、聞いて来ようと思うんだけど。その間に船を予定通りフルベンゲンに」
「そんな事だろうと思ったわよ!」
私がそこまで言うと、アイリさんが飛びついて来る。ぎゃぎゃっ!? 羽交い絞めは苦しいですよ! 助けてカイヴァーン……そのカイヴァーンはアイリさんではなく私の袖を掴む。
「どうしてもって言うなら今度こそ俺も一緒に行くからな! いい加減にしてくれよ、俺何の為に船に乗ってるんだよ!」
不精ひげも腕組みをして言う。
「船長、イリアンソスの時とは違う。あの時も今にして思えば止めるべきだったような気がするんだが……とにかく船長一人差し出して、俺達にどこへ行けと言うんだ。そんな事は出来ないぞ」
不精ひげはセレンギルと話しているし、少なくとも私があの期間イリアンソスで大人しくしてはいなかった事を知っている……それを皆にバラしたりはしてないと思うけど……だって私口止め料として高いワイン買ってあげたじゃん。
いや、今はそんな事を考えてる場合じゃなかった。
「どちらにせよ向こうにはたっぷり時間があるし、この船が捕まれば同じ事なんだ。だけど今なら僕が時間を稼げる可能性がある。そして船だけでも逃げ切れたら、その後で何か出来る事もあるかもしれないじゃないか。アイリさんもカイヴァーンも自由でいられればこそ出来る事もあるだろう」
私はアイリさんに組み付かれながらそう話す。ああ。見張り台のエッベがハラハラした顔でこちらを見ている。
「言ってる事は解るけど! 解るけど……私は納得行かないわ! ウラド! ウラドも何か言いなさいよ!」
そのウラドは……大きく目を見開き、口を半開きにして艦尾の彼方のコルベット艦を凝視していた。小刻みに震えてすらいる。一角の豪傑であるウラドには珍しい表情だ。
スヴァーヌ海の島々の間を通る峡谷のような狭く長い海峡。
オーロラが照らす大地には所々雪が残っていて、空の色を映し青白く輝いている。
アイリさんの手が、私から離れる。
海も光る……オーロラの光源は満月と違い広範囲から照らして来るので影が出来にくい。
だから今は深夜であるのにも関わらず、フォルコン号を追って来るレイヴン海軍のコルベット艦も、海面を掻き分け突如現れコルベット艦に左舷側から組み付いたコルベット艦の船体より大きい、超巨大なタコの姿も、フォルコン号の艦尾楼からくっきりと見えた。