くま「こんばんは。きみ、はじめてみるかおだね。どこからきたの?」ホルンが上手なレイブン人のおじさん「え……ぎゃあああうあああ!?」
島々と入り江と海峡が入り乱れる迷路のような海を進むフォルコン号。
ここに置いていた地図は資料室の「【資料】マリーの世界のぼんやりとした地図 北洋編」に移しました。
こちらがあえてゆっくり航海再開の準備をしていると、レイヴンの軍艦は先に北東に向かい出航して行く。
あの男は本当にフォルコン号襲撃を諦めたのだろうか? 勿論こちらには襲撃されるような心当たりは無い……いや、あるかも……あるか。
私の家の話で言うなら先にレイヴンの船をかっぱらったのは父の方だもんなあ。娘の私がレイヴンに仕返しされたからと言って文句を言える物かどうか。
私はもう一度辺りを見回す。左手には島々の織りなす陸地が北東の彼方まで連なり、右手には海が開けている。
このまま北東に進み続ければ右手にも陸地が現れ、島々と半島に挟まれたフィヨルドの海岸線と海峡が連続する迷路のような海に出るだろう。
もしそこにさっきのコルベットが待っていたらどうなるのだろう。極夜の闇の中灯火を消して潜んでいたら? 間違いなく簡単に接舷され拿捕される。
だがレイヴン海軍にこちらを襲撃する気があるなら、何故すぐにやらなかったのか? いや……さっきの出会いは偶発的だったし向こうも目につく物皆に噛みつく狂犬ではない、相手がどんな奴か、どんな戦力があるか、きちんと確認しようと思ったのかもしれない。
マカーティは自分が艦長である事を正式に名乗らないばかりか、私に船長かどうか正式に聞く事もなかった。
さて。私の方にはどうしてもフィヨルド側を通ってフルベンゲンに行かなくてはならない理由は無い。今から外洋側に切り替えたって一向に構わないのだ。
「不精ひげ、悪いんだけど帆を全開にした上で風を逃がして航行させてくれないか? あのコルベット艦について行くように見せて距離を取るんだ」
「そう言うと思ったぞ、任せてくれ」
「……あのさ。いつも言ってるんだけど、こういう他の船との丁々発止の遣り取りの時にはちゃんとアドバイスしてくれよ?」
私はまだ頬被りをしたままの不精ひげに詰め寄り、マリーの小声で続ける。
「元レイヴン海軍士官なんでしょ? ちゃんとその知識と経験で助けて下さいよ……こっちは素人なんだから」
私はあまり期待もせずにそう言った。どうせこの男は視線を逸らして言い訳をするだけだと思いながら。
だけど不精ひげは細い目をきちんと開いて、真顔で見つめ返して来た。
「マリー船長。俺があまり自分の知識や経験を表に出さないのは、それで船長の判断を妨げたくないからだ。俺も本当に必要と思った時には口に出してるから」
私は……少しだけムッとする。
うーん。
船長になって半年近く……だけど私、不精ひげに対してだけは未だに少し罪悪感があるのかもしれない。
私が船長になったのはこの男のせい……この男のおかげなのだ。
この男は、自分達水夫が私に対して抱いている善意を説明もせず、自分達が失業するのも構わず黙って船を売ってその金を私に渡そうとした。
そのせいで私はあの有り得ないバニーガールのスーツを着てでも船長になろうと思ったのだ。
私が父の訃報を受けレッドポーチを訪れたあの日、不精ひげが……例えばイプセンさんのように自分の要求をはっきり口に出来る人間だったらどうなっていたか。リトルマリー号を売ってその金を渡すから、それまで町に居てくれと。
私はその売却話を断り誰かを船長に指名してヴィタリスに帰っていただろう。そうしたら何も起こらなかった。
その代わり私はずっと一人だったと思う。あるいは風紀兵団に捕まって養育院に送られ、修道女を目指していただろうか。
結果的に不精ひげの物事を軽々しく口にしない性格が、私をここに導いてくれた。
解ってはいるんだけど。私は何故かこの男に対しては素直になれない。
「いつもそれじゃん……今回はどうなの? 姿をくらまして外洋へ逃げた方がいいと思う? それとも予定の道を堂々と進んだ方がいいの? あのレイヴン海軍は何考えてると思う?」
「覚えているだろうか。ナルゲス沖で海賊の待ち伏せを受けた時もちょうど今日みたいな上弦の三日月の夜だった。あの日も船長は10時方向に現れた灯火に向け迷わず船を転進させた」
「あ、あの時はたまたま当たってたからいいものの……」
「たまたまじゃないんだろう。船長が転進を命じてから俺もすぐ望遠鏡を覗いた。その時には船長に言われる前とは全く違う物が見えたよ。あんな派手な炎を一本だけ立てた海賊船なんか無い、あれは魚を集める為の篝火を炊いた漁船か何かだと思った。それで近づいてみたら漁船ですらない、海賊の偽装工作だったじゃないか……あの時俺が船長だったら何も居ないように見えた2時方向に舵を切っていたと思う」
私が何か反論しようと思いながらも何も言いだせずにいると。不精ひげは俯き加減に溜息をつく。
「この半年の間、船長の判断力と決断力には舌を巻くばかりだった。俺もこれでも大人の男のつもりなんだけど、マリー船長には嫉妬すら感じるよ。だから頼む。ここは船長が判断してくれ。勿論、その後で起こる事に対しては俺達水夫も一緒に責任を持つから」
◇◇◇
私はフォルコン号の艦首のバウスプリットに立っていた。
船酔い知らずの魔法の効能の一つに、風や波の音の影響を受けにくく、遠くの音が良く聞こえるというものがある。アイリさんに言わせるとそれはバニーガールがお客さんの呼ぶ声を聞き逃さない為の機能だそうだが、私は何か違うと思う。
しかしその魔法の力を以ってしても、闇夜に潜んでいるかもしれないレイヴンの軍艦が発する音を聞き分ける事は、さすがに出来なかった。
レイヴンのコルベット艦はどこに居るのか。我々を見ているのか。
フォルコン号は特に灯火管制もせず、艦首左右には大型で遮光板付きのオイルランプを灯し航海していた。
下層甲板でアレクとロイ爺が急いで拵えた、樽と木材を組み合わせた浮標がテークルで釣り上げられ、ゆっくりと水面に降ろされる。
浮標には松明が取り付けられていた。これに点火するのは危ない作業なので私がやろうと思っていたら、ヨーナスとエッベがやりたいと言い出した。
海に浮かべられた、引っくり返らないよう重りをつけられた浮標。そこから3m程の高さに伸びた棒の先についた松明。ヨーナスとエッベはそこに点火する。
浮標の松明に火が移ると同時にフォルコン号の前照灯は消灯する。船内の他のランプも念の為消してしまう。
「この先は消耗戦になる。だけど人数の少ないこちらは元から不利だ……各員船長の指示に従い、休めと言われた時には努めて休むようにして欲しい。眠れない場合も寝床で目を瞑りじっとしているんだ。そうすれば眠っているのに近い休息を得られるから」
今回は不精ひげが皆にそう言ってくれた。ヨーナスとエッベにはウラドが訳す。
フォルコン号はそもそもレイヴンの軍艦をかっぱらって逃げ、最後はサメだらけの海にパンツ一丁で飛び込んだ海賊の名前を冠した船である。
その乗組員は半数がフォルコンの手下だった者だ。まあレイヴン海軍はそこまでは知るまいが……知らないよね?
だけどまあ、ここはスヴァーヌ海……人類が活動可能な気候を持つ地域の中でももっとも北にある場所。こんな所にまでタルカシュコーンの海賊の話など伝わってはいないのではないでしょうか。勿論、ハマームに現れたストーク人を称する小僧の話も。ここまで警戒する事は無いのかもしれないけど……念の為ね、念の為。
灯火を消したフォルコン号はゆっくりと北に転針する。群島の間を抜け外洋側に移動しそちらからフルベンゲンを目指すのだ。
30分。30分あの明かりのついた樽をフォルコン号だと思ってくれれば、我々はあのコルベット艦を置き去りに出来ると思う。
―― パッパパララ パッパラー パララパパパパー(笑)
北の陸地のどこかで、誰かがホルンか何かを吹いている。暗く静かな海に、陽気なメロディが響き渡る……かなり遠くに居るだろうに凄い音量、そしてたいした演奏の腕前だ。きっと名のある名人に違いない。
―― パッパパララ パッパラー パラパパラパパッパラー(笑)
不精ひげが腹を抱えて甲板に倒れ込み、苦しげにのたうち回る。
「バレた! 一瞬でバレた! ひひ、はひひ、ふひはは」
「笑ってる場合か!! 舵はウラドに交代、ヨーナスは見張りに上がりエッベと5分ごとに交代しろ、太っちょ、カイヴァーン、スプリットセイルを……ていうか不精ひげ! 笑い転げてないで操帆の指揮を執れよ!!」
レイヴン海軍は陸上に偵察要員まで残して我々の一挙一動を見張っていたらしい。そしてこんな偽装までしてレイヴン海軍の船を撒こうとした我々には、何か後ろめたい事があるという事である。
極夜のスヴァーヌ海のフィヨルドの島々を舞台に地獄の鬼ごっこが始まる。私の何を買いかぶってたのか知らないけど、考え直すなら今だよ? 不精ひげ。