ハロルド「あの……何故あんなに挑発的な態度を?」マカーティ「冗談じゃねえこいつは超大物だぞ!」
極夜にオーロラ……ついに冬の北極圏に足を踏み入れてしまったマリーとフォルコン号。
海図と星空を頼りに、スヴァーヌ海を行く。
ここの地図は資料室の「【資料】マリーの世界のぼんやりとした地図 北洋編」に移しました
翌日から朝は無かった。
午前遅くになると一応南の空が色づき、真昼にはもう少し明るくなるのだが、太陽は顔を出さずその後はそのまま夜になる。それが極夜だそうである。
「1時の方向! 岩山見えます!」
見張り台のヨーナスが叫ぶ。来た事の無い海での普段と違う測量術は手探りの事ばかりだった。そんな中、目的の岩山をきちんと見つけられた喜びは大きい。
私とロイ爺は海図を確認する。
「ここから外洋を進むか、群島の内側からフィヨルドの湾内の水路を進むか、運命の分かれ目じゃのう」
「スピードが出るのは外洋だろうけど、ここまでは天気に恵まれ過ぎたよ、こんなのいつまでも続くもんか。嵐に遭う前に、湾側に進もう」
ロイ爺はふと肩を落とし、辺りを見回す……ヨーナスは見張り台の上。エッベは第二船員室でカイヴァーンに習って予備の帆を縫っている。
そんな様子を確かめてから。ロイ爺は小声で囁いて来る。
「マリー船長が好天が続くと信じれば、好天は続くのではないかね? 信じて外洋側を急ぐ訳には行かんかのう?」
「だとしたら絶望的ですよ。私そんな都合のいい事信じられません」
私もマリー声で囁き返し、フレデリク声で続ける。
「進路はフィヨルド側、面舵転進するから帆の調整を頼むよ」
この時間の操舵は私が担当だ。
とにかく寒いという事で、ロイ爺はフォルコン号の作業シフトをかなり細かく組み直した。吹き曝しになる舵など一時間交代である。他の当直もなるべく作業の時以外は船室の中で過ごし体力の温存に努める。そして眠る時はしっかり眠る。
「ヨーナス! そろそろ降りろ!」
「はい船長! まだだいぎんじょう! 続けまんもす!」
そして小僧共は私の予想通り生意気さを発揮しつつあった。君達、船長の指示を無視するのは10年……いや10日早いと思いますよ。まあこっちも無礼にも程があるような素人船長である。
船は8時方向の風に乗って飛ぶように進む。
行く手に見えた岩山の島を左舷に見て通過し尚も北東へ。再び正面に島。これも右にかわし、左に島を見ながら進む。
正午。南の空はある程度明るく色づいたが、やはり太陽は顔を出さない。行く手に見えて来た結構大きな島をさらに迂回し北東へ。
さらに一時間が過ぎると北に大きな陸地が見えて来た。これは実際には大きな島だという。それが半島のようにここから北東方向へ長々と連なって行くらしい。
海岸線は複雑で島は山がち、どれが入り江でどれが水路か見た目には解らず、地図がなければ大変な寄り道を強いられたかもしれない……これがスヴァーヌのフィヨルドか。グラストも地形は似てたけど規模が全く違う。
想像通りフィヨルドの内側の海は外のスヴァーヌ海より波が穏やかだ。とうとう晴天の連続記録も途切れるのか、空も雲に覆われて来たし……こちら側にして良かったわね。
私は甲板に設置された飲用水の樽の栓を抜き一杯の水を汲む。不精ひげがそのうちこれは凍って使えなくなると言っていたが……ほんとかしら。
だけど日が当たる時間が全く無いというのはそういう事か。洗濯物も乾く前に凍ってしまう。そう考えると信じられない風土だと思う。
タンカードに汲んだ水を飲む。うう、冷たい……真夏のハマームで飲んだらたまらなく美味しいだろうに……
私はふと、左舷前方のフィヨルドの入り江の一つに目を止める。
岬の突端が切り立った崖になっていて、入り江の中はフォルコン号からでは見えなかったのだが。とにかくその入り江の切り立った崖の向こうから、一隻の帆船がゆっくりと現れる……
フォルコン号から見て11時方向、距離は……1kmも無いですね。
コルドンからここまで、人里は見られなかった。ずっと外洋を突っ切って来たからというのもあるが、この辺りの島々も無人に見えた。簡素な船着場と小屋のようなものはたまに見掛けるのだが、恐らくそういう場所の住人も冬季は別の場所で暮らしているのだと思う。
そんな島の入り江から船が出て来る。うちと同じくらいの大きさ……コルベット艦ですかね、二本マストですよ。
私もびっくりしたけど、向こうもびっくりしたのかしら。船上が慌ただしいように見えますよ。私は落ち着いて、もう一口水を飲む。
ああ。大きい方のマスト、メンマストにするすると旗が揚がって行きますよ。あの黒い翼の模様はレイヴンの軍艦ですね。
「カイヴァーン、皆を起こせ!」
半直のロイ爺とエッベ、非番のウラドと不精ひげも起こされる。不精ひげは早くも頬被りを鼻の下に結んで現れた。
「待ち伏せだと……思う?」
「いくら何でもそれは無いだろ……たまたま水でも補給しようと船を寄せてたんじゃないか」
私の問いに、不精ひげはみっともなくマストの陰に隠れながら答える。
何という運の無さだろう。それで向こうが補給を終えて入り江を出ようとした所に、ちょうどフォルコン号が来てしまったのか。
風は島方向から吹いてるし進路も完全に向こうがこちらの舳先を抑えられる位置に居る。
「こっちもアイビス軍旗でも揚げるのはどうかな」
「レイヴンは北回りの新大陸航路を監視する名目で、スヴァーヌ海での治安活動をコモラン王国に認めさせているんだ。残念だが理は向こうにある」
「何とか振り切る方法は無いか?」
「この西風を南東風に変えてくれ」
「お手上げじゃないか……」
艦首側で望遠鏡を覗いていたアレクが振り返り、駆け寄って来る。
「船長、信号旗が……停船せよって」
「そうかい。じゃあ止めてやろう、ロイ爺、速やかに帆を畳ませてくれ。太っちょは了解の信号旗を」
「いいの……? 船長」
「腹をくくるしかないじゃないか。他所の軍艦に停められるのはロート海峡以来か。あの時はフェザントの軍艦だったね」
時刻はたぶん午後3時頃。普段フォルコン号では太陽の南中時間を12時として時計合わせをして、それに合わせて働いている。
三日月が雲間から覗いている。今日も夜半前には沈んでしまうだろう。
レイヴン海軍の船はフォルコン号まで100mくらいの所に来て停泊した。向こうも派手にランプを点けてるわね。軍艦の乗組員でも朝の来ない世界を漕ぎ回るのは心細いのかしら。
ああ。ボートがやって来る。海軍さんのボートはどこも活きがいいなあ。
舷門を最初に登って来たのは、レイヴン海軍の軍服を着た目つきの悪い男だった。20代半ばかしら。
「舷側に補修跡があるな、どこかで接舷戦でもしたのか? 武装しているようには見えないが」
男がフォルコン号の外装や甲板をじろじろ見回しながらレイヴン語で言うその内容を、ウラドが順次訳してくれる……私は黙ってそれを聞いていた。挨拶も無しですか。
「それで? いい材料を使ったスループ艦のようだが軍艦じゃないんだな? 随分少人数で航海してるじゃないか。おっと……驚いた、御婦人が乗っているとは失礼しました、私はマイルズ・マカーティ。宜しく」
男は急に伊達男を気取りアイリに向かってそう言い、握手を求めるような手を差し伸べるが、アイリはウラドの後ろに半歩移動する……アイリさんこういうタイプは駄目ですか。やっぱり。
「当船はコルドン市長イプセン氏の依頼と出港許可証を持ってフルベンゲンに向かっている。三日月が出ているうちに少しでも先へ進みたいという我々の邪魔をする理由は何だい」
私がアイビス語でそう言うと、アイリの方を向きながら横目で私を見ていた男は、ようやく私の方に向き直る。
マカーティは際立つ大男という程ではないし威圧感はそれ程でもないが、頑強で強そうではある。
フォルコン号の甲板に登ったのはその男と、かなり年上に見える額の広い副官らしき人だけだ。一緒にやって来た海兵隊員達はボートに残っているし、装填したマスケット銃をこちらに向けたりしてもいない。
それでその男だが、副官に私の言った事を翻訳して貰っているようだ……向こうもアイビス語は解らないらしい。
やがて。副官の翻訳を聞き終えたマカーティ氏は口を開く。
「俺達はコモラン王国国王の信任を得てスヴァーヌ海で治安活動をしている。臨検はその仕事の一環だ」
私もウラドの翻訳を聞いてから答える。
「それでうちの船は海賊に見えるのか? 僕らがこの人数で沿岸の村を襲撃して金品を奪うとでも?」
「そうカッカしなさんな。誰にとっても海賊はうんざりだろう? 我々が来るまではこの辺りの沿岸も結構荒されていたんだ。お前らみたいな護衛もつけず武装も貧弱な商船や、用心棒を雇えない小さな村を襲うのさ」
まあ、零細海賊の手口には心当たりがあるわね。弱そうな相手だけ選び抵抗されたら逃げるとか、そういう。
ところでこの男、正式に名乗る気は無いのかしら。
「一応、出港許可証を見せて貰おうか」
「いいよ。出してやってくれ」
私はアレクの方に振り向いて言う。名前は呼ばない。
「でも……」
アレクは少し不服そうだった。所属も役職も言わない、ていうかアイリにしか自己紹介をしてない男が堂々と書類を見せろなどと言っているのだ。
だけど私は、この男は我々を挑発して探りを入れているのだと思う。
「さあ、どうぞ」
私はアレクから出港許可証を受け取りその男に見せる。男はそれを無造作に受け取りじろじろと眺める。この男スヴァーヌ語読めるのかしら……さすがに読めるか。この海に派遣されてるんだから。
男は興味を失ったように半ばそれを放って返して来る。
だけど私は挑発には乗らない。フフン参ったかレイヴン海軍。あんたの前に居る男は実はただの臆病で泣き虫な山育ちのお針子娘なのだ。どんな挑発をされても怖いから早く帰って下さいとしか思わないのである。
「出会い頭に遭うにしちゃ物騒な船だし、もっと期待したんだがな。さぞや面白い事が起きるんじゃないかとよ。クソッ、役立たずめ」
ウラドは最後を濁して訳したが、言葉が解らなくてもこういうのは気持ちで通じますね。
私達が挑発に乗って喧嘩になったら、堂々と襲撃して制圧し拿捕してやろう……そんな事でも考えてたのかしら。
海兵隊をボートに待たせ副官と二人で乗り込んで来たのも挑発の一環だろうか。余程自分の強さに自信があるのかしら。
とにかく、男は副官に顎で何か示すと、挨拶も無しに踵を返し舷門へと向かう……かと思いきや、最後に振り返り。
「ああ! あの、お嬢さん! 何で貴女みたいな美しい人がこんな所に!? もしやこの男共に無理やり……」
今さら思い出したかのようにアイリに言い寄ろうとする男を、さすがに向こうの副官が止める。レイヴン語は解らない私だが、副官が「みっともないからやめなさい」と言ったに違いないという事は賭けてもいい。
結局の所、アイリに対してだけマイルズ・マカーティと名乗る士官なのか艦長なのか水夫なのかも解らない男はボートに戻り、艦名も解らなかったコルベット艦へと帰って行く。