アレク「マリーが来てから夏に暑い所、冬に寒い所に行っているような……」
結局フルベンゲンまで行く事になってしまったフォルコン号。
お調子者のイプセン市長にもやられたけど、ヨーナスとエッベの言葉に動かされたのも確かです。
賽は投げられた。私に出来る事はなるべくいい天気が続くように、出来れば風に恵まれるようにと祈る事くらいである。
そうして二度の夜が過ぎた。
「天気がいいのが救いだな」
「風も荒々しいが、向きは安定しておるのう」
時間的には昼を過ぎたばかりだと思うんだけど……太陽は沈む夕日のように弱弱しい。まあ昼間が随分短いからこんな日差しでも当たっている間は有難味を感じる。
私は微妙に弱っていた。正体を明かす切っ掛けを失ったままもう5日も謎の貴公子ごっこを続けているのだ。
まあイリアンソスからハマームに行って戻って来るまで10日以上フレデリクだった事もあるんだけれど……あの時周りに居たのはセレンギル達とハマームの皆さん、つまりそもそも私をマリーだとは知らない人達と私がマリーだとまるで気づかないジェラルドだった。
しかし今回はヨーナスとエッベ以外はいつもの仲間、私をマリーだと解っていて合わせてくれている人が殆どなのだ。
「フレデリク船長、昼食はどちらで召し上がりますか?」
「フレデリク船長、この天気なら見張りは甲板からでええと思うんじゃが」
「新人達は食べ足りないようだ、食事の量を増やしてあげてはくれないか、フレデリク船長」
うう。ニヤニヤしているアイリさんやロイ爺より、真顔のウラドにフレデリク船長と呼ばれるのが一番堪えますよ。
艦長室に戻りかけた私はふと振り返る。あれ? 不精ひげは非直だったような。さっきロイ爺と話してたけど、あの怠け者が何で自主的に甲板に居るのだろう。
しかしちょうどそこへアイリさんが、食事を持って階段を上がって来る。私も一旦艦長室に戻る。
私は帽子とマスクを外してふるふると首を振る。
「髪の毛も凍り付いてそう……ついこの前まで甲板でワイン飲んでたのが信じられませんよ」
「だけど艦長室も寒いわよねぇ。よくこんな所で食べられるわね」
アイリさんは岡持ちから料理を取り出す。コルドンでいただいたような鹿肉のシチューが、盛大に湯気を立てながら出て来る。
フォルコン号の会食室と第一船員室の中には厨房の竈の排気管が通る構造になっており、他の部屋より仄かに暖かい。一方艦尾の艦長室や士官室にはそんな仕掛けは無い。海軍さんが作ったにしては労働者に優しい仕組みである。
「それでもマリーに戻れる場所は貴重なんです……いただきます! はふ。あふい、はふ」
「火傷しないようにね……」
「そう言うアイリふぁんは士官室寒くないんれすか、もしかして寒くない魔法とかあるんれふか」
「船長が物を食べながら話すのやめなさい……貴女と一緒よ、船酔い知らずは女の子が薄着でも寒さを感じないようにする為の魔法でもあるんだから」
アイリさんも船酔い知らずのかかった服を持っていて、寝る時もそれを使うから平気という事かしら。私はふと、常日頃から感じていた疑問を思い出す。
「アイリさん、船酔い知らずの魔法って誰かが作ったんですか? それとも大昔からあるんですか?」
「うーん……魔法っていうのは誰かが作ったというのとも、置いてある物を使うというのとも少し違っていて……ごめんね、これはちょっとマリーちゃんにでも説明出来ないわ」
そうなのか。まあいいや。
「なにせ魔法のおかげで寒さが和らぐのは有難いですけど、太陽がへなちょこなのには参っちゃいますよ」
「へなちょこどころか、暫く見納めらしいじゃない」
―― コロン。
思わずスプーンを落としてしまった私はまずテーブルに落ちた人参を拾って口に入れ、それから私物箱に駆け寄る。
「ちょっと船長、お行儀が……」
そしてファウスト氏の著書『航海者の為の面積速度一定則』を取り出しページをめくる……あの大先生が基本的な事だがと前置きをした上で書いておいてくれた緯度と太陽の高度の関係、その先の話はサッパリ解らないがここまでは私にも解るという、例の計算をもう一度、もう一度やってみると。やってみると。
―― トン、トン
しかし私がその必死の計算を終える前に。艦長室の扉はノックされた。
「船長、そろそろ太陽が見えなくなりそうじゃ」
マスクと帽子をつけ直し艦長室から飛び出した私が見たのは、西の水平線近くの低い雲の層に沈みゆく、午後二時の太陽だった。
ロイ爺や不精ひげやウラド、アイリさんは知っていたのか。勿論ヨーナスもエッベも。
「暫く太陽が見られないなんて、信じられないや」
カイヴァーンも落ち着いた様子でそう言っている。皆解ってたんですか……
このまま北に進むとフォルコン号は限界緯度を越える。そして季節は11月もそろそろ終わり。それはどういう事か。
季節が過ぎるか限界緯度のこちら側に戻るまで、太陽は登らない。
朝の来ない世界。フォルコン号は『極夜』の世界に入ろうとしているのだ。
あ……今、太陽が雲の層に沈んだ……
「わーっ!? 船長! 太陽どうなった!?」
ドタドタとアレクが階段を駆け上がって来た。非番のアレクは普通に寝ていたけれど、この日没は起きて見ようと思っていたのか。
「うーん、今沈んだ」
私にはフレデリク声でそう答えるしかない。
「えーっ! 起こしてよもう……あーあ、見損ねちゃった」
「ははは……」「うむ……すまない」
アレクは悔しがり、不精ひげは笑い、ウラドは腕組みをして俯く。
そしてその深夜。
私は艦長室のベッドの上で、毛皮の寝袋に入った上、寝袋ごと毛布の山に埋まって眠っていた。
「船長! 船長、マリーちゃん! 起きて! 大変よ!」
アイリさんは毛布の山の中から私を引っ張りだして起こす。ささ、寒い……毛布を取られただけで遮断されていた寒気が肩口から浸透して来る……
「ええ……ちゃんと寝間着に着替えて寝てたの? 無理はやめなさいよ……」
「ランプ、ランプつけて……それでアイリさんどうしたんですか、海賊でも出たんですか、それともレイヴンの軍艦でも」
「そんなんじゃないのよ! 見て! 空を!」
毛布で半ば簀巻きにされ、私はアイリさんに抱えられ艦長室から引き摺り出される。あれ? 甲板が変な色……それで、空を見ろって?
「わ……ああああああああ!?」
何という事だろう。
空を不思議な、大きな光の波が覆っていた。それはまるで天を覆う巨大なカーテンのような……緑と青の間を行き来するように色を変えながら、その巨大な輝くカーテンは、ゆっくりと……波打ち、渦巻き、はためく……
「ああ……ああ……」
開いた口が塞がらない。多分今の私はここ半年で一番アホの顔をしている。
そのカーテンは一枚や二枚ではなく幾重にも広がりっていた。満天を覆う星空も覆い隠し、甲板を緑や青に照らす程眩しい。
帯の終端には赤や紫の色も見える。なんという鮮やかさだろう。どの色も地上では見た事の無い色だ。それはそうだ……こんなふうに緑や青に輝く物質なんて地上には無い。そもそもこれは何が光っているの? 本当に巨大な布が天を舞っているのか? そんな馬鹿な……
ふと見ると緑色に照らされた甲板の上で、今度は間違いなく当直の不精ひげが……ぷっ、いつも無表情な不精ひげがボカーンと口を開けて空を見上げてますよ。
そんな不精ひげが私が自分を見ている事に気付いた。
「船長、『北の光』だ……天気のいい真冬の夜にはウインダム辺りでも見える事があるんだが」
不精ひげは口を少し閉じ私に向かってそう言った。
私は少しだけがっかりする。熟練の船乗りなら誰でも知ってる事なのかしら。
「こんなに派手で空を覆う程大きいやつは見た事が無い。こんな色で光るのも。山際の空で赤く光る程度の奴なら俺も見た事あったんだが……ああ、ウラドは? コモラン辺りでもこんなの見えるのか?」
不精ひげは舵を取っていたウラドに呼び掛ける。
「私もここまでの物は初めて見た……船長。この現象は『北の光』の呼び名の通り北に行く程よく見られ、規模も大きくなるのではないだろうか」
私は軽く咳払いをする。それから、あー、あー、と唸り、声の調子を整えてから。フレデリク声で言う。
「そうさ。勿論僕の故郷ストークでは良く見られる物だよ。君達は北の光と言うが、別の呼び名もあるんだ」
不精ひげがつんのめる。アイリは膝から崩れそうになる。ウラドは冷静さを保っている。
私は思い出したのだ。またしてもあのニコニコめがね爆弾おじさんことファウスト氏の著書に本題とは関係のないコラムとして書かれていた。あのおじさんは自身の地動説の根拠の一つとして、この北の光の発生原理を解明ようとしたのだが、現状の技術では何が発光しているのか特定出来ず、代わりにせめてこの現象につけられた古今東西の名前を集積し、一番ふさわしい物としてこれを提唱したらしい。
「あれは、オーロラというんだよ!」
私は堂々と夜空を指差す。
「私ウラドに温かい物を取って来るわ」
「いやアイリさん、俺にも頼むってば」
「すまない、アイリ」
ニセ貴公子の私を無視してアイリは下層甲板に降りて行く。ウラドはそれを見送り、不精ひげはマストの方に戻って行く。
なんですか。皆そこまで知らん顔しなくても。私はふと、自分が指差した夜空を見上げた。
……
緑色に輝きごくゆっくりとはためくオーロラを背景に、一羽の鳥のような物影が……高い高い空を、西から東へと飛んで行く……
私は二度、目をこする。
見間違いかしら? あの鳥、あの高さであんな大きく見えたら、フォルコン号と同じくらいの大きさなのでは?
「……ひえっ、ぷしっ!」
寒い。寒い!? 私寝間着に毛布二枚被ってるだけじゃん! しかもこれ船酔い知らずじゃないし! 寒い! 気持ち悪い! 私は慌てて艦長室に駆け戻る。