カイヴァーン「船で一番怖いのはアイリさんだ、船長より強いから絶対怒らせるなよ」
「ちょっと待て、怪物というのは何の話だ?」
「ハハハ、どこの海にもある酔っ払った船乗りの与太話だよ」
「いやあれは本物だ、30年前に実際に見た奴が居る、体長10mもあろうかという、角の生えたトドだ!」
「嘘をつけ……翼を広げると7、8mはあるっていうハゲワシだよ、仔牛をひっ捕まえて飛んで行くのを司祭が見たと」
「違う、巨大なサメだ! 全長15m、小船程の大きさの奴で凄く短気なんだ、気に障るとすぐ怒って向かって来るが、もっと怒ると帰ってしまうんだ、だから出会ったら皆でありったけの悪口を浴びせてやるんだ、すると奴は背中を向けて」
「あの、もういいやこの話」
シチューを食べ終わった私は一旦船に戻る事にする。毛織物を降ろし、フルベンゲンへの荷物を積まないといけない……我々が食べる分も。
「お前達はここで出港まで休んでいてもいいぞ?」
「俺達もフレデリク船長の子分! はたらく」「はたらく」
ヨーナスとエッベもついて来る。ウラドにはここに残って先に商売の話を進めてもらう事にした。ぶち君は……もう暖炉の前で寝てるよ。やっぱり猫は猫ですね。
「じゃあ戻ろう」
私はホールの二重扉の内側を開け、続いて外側を開けた。
―― ゴォォォオオオオオオーーォ(笑)
―― ビュルルゥゥゴオオオオオオ(笑)
ほんの小一時間の間に、ホールの外は全くの別世界になっていた。
何これ? 私本当にここから来たの?
凄まじい吹雪が。雪というかこれは、真横に叩きつけて来る何かというか、痛い! 頬に当たると痛いというレベルの氷の粒が襲い掛かって来る!
フォルコン号が見えない!? 雪が激し過ぎて波止場に停泊しているはずのフォルコン号の船影がおぼろげで見えない!?
「ああ、さっきまでいい天気だったのになあ」
「どうする? 荷物は後にするか?」
「とっととやろうぜ、日が暮れる方が厄介だ」
私達と一緒にホールから出て来たスヴァーヌの男達は……ヨーナスとエッベも含めて、まるで何事も起きていないかのように吹雪の港をすたすたと歩いて行く。ちょっと待て! こんな雪嵐を見て何とも思わないんですか!
「どうかしたのか?」
家に海図を取りに行くと言っていたイプセン市長も出て来た……やはりこの吹雪の事を何とも思ってないらしい。
「あ、ああ……いや、しばらく内海に居たもんでね、この冬初めてこんな吹雪に遭ったよ」
私は自分がストーク人(大嘘)だった事を思い出す。イプセンさんは肩をすくめる。
「それは大変だったろう。内海に比べればここは住みやすいんじゃないか」
それは絶対に無いです……私はやっぱり内海がいい。ああ。このアイマスクは吹雪の時にも便利ですね。
これがスヴァーヌ海の正体か? この海はついさっきまでずっと本性を隠していたのか?
私はこの海を北北東へ、長い航海をすると約束してしまったのか。
「そんな訳で、もっと北まで行く事になりました。いつも大変な仕事を勝手に引き受けて来て誠に申し訳ありません」
私は会食室に集まって震えていた留守番の五人にマリー声で告げた。少年達はスヴァーヌの男達から貰ったおみやげを船員室にしまいに行っている。本当なら土下座もしたい所なんだけど、今すぐ少年達が戻って来たら困るのでやめておく。
「そうなるような気がしていたぞ……」
「ホホ、ホ、真冬のスヴァーヌ海を北上するんか」
不精ひげもロイ爺も皆も、様々な防寒着を着ている。
カイヴァーンは最初は靴下を履くのも嫌がっていたが、今はその有難味を分かってくれたようだ。アイリが作ったコートもしっかりと着込んでいるし、毛皮のふわふわフードまでちゃんと被っていて可愛い。
「この先はフォルコンさんでも行った事が無いよ。すごいねマ……じゃなくて、フレデリク船長」
「私もすっかりベテラン船乗りね……内海の東の果てから北洋の北の果てまで来ちゃったじゃない」
アレクは勿論厚着をしているが、アイリさんの服がそこまで厚着に見えないのは、魔法で誤魔化してるからだろうか。実際私もキャプテンマリーの服を着ている間はそこまで寒くないのだ。
少しでも皆に気を取り直して欲しい私は、フレデリク声で勇壮に演説する。
「これは乗りかかった船の人助けでもあるけれど、まだ見ぬ産物を求めての冒険でもあると思う! スヴァーヌ海のここより北は未開の海で……」
「未開は失礼だぞ、バイキングは千年の昔からこの海に居たし、スヴァーヌ王家が居た頃のコルドンはタラ漁の水産加工基地として大変賑わっていたらしい」
「真冬には行き来の絶えるこの海には! 未知の産物が眠っている可能性も!」
「それが……スヴァーヌとは無関係なんだけど、どうしても人目につかずに新世界に向かいたい船が敢えて冬のスヴァーヌ海から西を目指す、なんて事もあるから、レイヴンの海軍は冬でも哨戒艦を派遣してる事があるんだ。船長。解ってると思うけどレイヴン海軍との遭遇には気をつけてくれ。ここも言う程田舎じゃないぞ」
私は肩を落とし、マリー声で呟く。
「あのさ、もう不精ひげが船長やってよ……」
◇◇◇
取引に出掛けたアレクとウラドは昼過ぎには戻って来た。コルドンの人々はレイヴン産の質の良い毛織物を欲しがっていたがお金はあまり持っていなかった。量を捌く事を優先した取引は予想以上の安値でまとまった……これならロングストーンの方がまだ高く売れたかもしれない。
だけど父の教えだそうじゃないですか、商人は幸せを運ぶのだと。手袋や靴下にも加工出来る毛糸はスヴァーヌの人々にこそ必要ですよ。
ところで……ぶち君は大丈夫なんですかね? 吹雪の中ウラドと一緒に歩いて戻って来たけど寒いの平気なのかしら。
この子はどうしてついて来るんですかねぇ。イリアンソスなんか今でも暖かいだろうし、ハマームに居たら王宮の猫として悠々自適に暮らせてたろうに。
◇◇◇
真昼のコルドンを襲った吹雪は夕方には止んでいた……夕方と言ってもまだ3時くらいだ。
「これがスヴァーヌ海沿岸の海図だ。君の冒険の役に立つ事を祈る」
イプセン市長は約束通り海図を持って来てくれた。コルドン周辺も込み入ってると思ったけど、この先はもっと酷かった。沿岸部は島と入り江と水路が複雑奇怪に入り混じった海の迷宮のようだ。
「それとその……もしレイヴン海軍に出遭ったらそれはあまりいい出会いではない。気をつけるといい」
「ありがとう。個人的にレイヴンからはちょっとした誤解を受けていてね」
イプセン市長が船を降りる……フォルコン号の周りには二隻のタグボートがついていた。港の外まで牽引してもらえるらしい。
毛織物の八割はここで降ろした。代わりに積んだのはフルベンゲン向けの雑貨やら便りやらだが量はそれ程でもない。
そして蕪や葱などの野菜、それに鹿肉をいくらか樽で積む。これらは冬のコルドンでは貴重品なのだと思うが、さすがにイプセンさんが手回ししてくれた。
薪などもかなり多目に積んだが、フォルコン号全体としては半荷という所か。
「カイバンアニキ! もうしばらくよろすこおながいします!」
「よろすこ!」
「これからも宜しくな! お前らが一緒で心強いぞ!」
ウラドが怖い鬼上司なら、カイヴァーンは優しいアニキだ。お互い言葉はまるで通じないようだが、カイヴァーンとスヴァーヌ人少年二人は大変上手くやっているようだ。
二隻のタグボートが離れる。
「カイヴァーン、展帆を頼む!」
「アイ、キャプテン! お前ら帆を開くぞ!」「かしこみ!」「かしこまり!」
フォルコン号はコルドンを離れ、島々に囲まれた穏やかなフィヨルドの海から、晩秋、いや既に真冬と言っていいスヴァーヌ海と呼ばれる外洋を、北北東へ1300kmのフルベンゲンを目指し出港して行く。