イプセン「この時期に外国船? レイヴンめ今度は何だ……えっ商船? ロングストーンの商船だと!?」
フォルコン号、北洋を北へ行く……
大丈夫なの? もうすぐ12月だよ?
風は朝にはまた吹き募り、フォルコン号は波間を飛ぶように進む。
行き先は遠いのでスピードが出るのは良い事だが、新入りの少年達には過酷な船旅になってしまった……私は艦尾楼の上で夜明け前の海を見つめて、そんな事を思いながらベテラン船長気分に浸っていた。
「おはようさんりんしゃ!」
「フレデリク船長! 今日もよろしくおねがいしまんもす!」
少年水夫達は元気よく下層甲板から駆け上がって来た。そして競い合うように前に出て並び、ばらばらに敬礼する……決して空元気では無いようだし、口の周りの豪快な食べかすは彼等の旺盛な食欲を物語っている。
「おはよう。船酔いはどうだい」
「もう大丈ぶりっじ」「揺れるの慣れたんぼ」
「そ、そうか……後はストーク語にももう少し慣れるといいね……」
船酔い、慣れましたか……慣れたんだ……私なんかもう船乗りになって五か月も経つのに、船酔い知らずのズルが無いと何も出来ない。
いやいや頑張らないと。私も頑張らないと。頑張ってヒーローであり続けるのだ、二人の前では。
◇◇◇
北洋を北へ真っ直ぐ突っ切る航海は暴風に近い強風に恵まれた。
私はフレデリクなのでこれはツイてるという顔をし続けたが、結構な頻度で甲板が波に洗われる荒れた海というのは、船酔い知らずを着ていても恐ろしい。
そして。ウインダムを出て三度の夜が過ぎた……
「毎日酷い天気が続くなあ。雲は分厚いし風は強いし。いつまでもこう薄暗いと気分が滅入る」
私はとうとう天候についての不満を漏らす。少年達は夜明け前から勇敢にも見張り台や艦首に立ち辺りを見張ってくれているので、今なら聞こえないだろう。
「いやあ……この季節のこの辺りにしては、天気はいい方だと思うぞ」
「スヴァーヌはわしも久しぶりじゃ……こんな季節に来るのは初めてじゃが」
不精ひげは夜直を終えてこれから休もうかという所だった。昼直のロイ爺は漁師風のセーターの上に毛織の外套を着込み、手袋やブーツまで身に着けている。
「当たり前だけど北国は寒いね。寒いのは仕方ないけれど、この天気はどうにかならないもんかな、そろそろ太陽が恋しくなって来たよ」
ストーク人で故郷はイースタッドのはずのフレデリク君は、そんな事を言ってしまう。
「船長。スヴァーヌは緯度の割には暖かい方なんじゃ……冬でも海が凍らないし、流氷も来ない。南から暖かい海流が流れて来ておるからの」
「暖かい? こんなに波飛沫は冷たいのに」
「程度の問題だよ船長。スヴァーヌ沖の海流は常に南西から流れて来ていて暖かく、昔はいい漁場として知られていた。近年は魚群が移動してしまったのか、あまり大型漁船は来なくなったようだが」
ふーん……海にも色々区分があるんですね。暖かい海に冷たい海、魚の多い海少ない海。みんな一緒じゃないのね。
「それに船長、ここ数日のこの天気はこの辺りでは望み過ぎな程いい……太陽が出ないのは仕方ないしな……そうだろ、爺さん」
「そうじゃのう。わしに言わせれば太陽が出ない事よりも、真昼に弱弱しい太陽が地平線近くで震えている事の方が気が滅入るわい」
私は懐中時計を取り出して開く。これ買ったのは南大陸のマトバフだけど、製造したのはアイビスのミレヨンという町の職人だとか……え、もう8時過ぎ? そんな馬鹿な、まだ夜明け前ですよ?
まあ仕方ない、この時計は一日に30分くらい遅れるのだ……あれ? じゃあ今8時半過ぎじゃん?
「あっ……!」
ここに至りようやく事態に気付いた私は、不精ひげもロイ爺も置き去りにして艦長室に駆け戻る。
私は艦長室のデスクに資料を集める。
この辺りの地図は広域の物しか持って無いが、緯度はだいたいあてになりそうな数字が書かれている。
それから父の航海日誌、これはあくまで日誌だが所々に父が海の知識を覚書として書き残している部分があったので、付箋をつけて参照出来るようにしてある。
もう一つはファウストの奇書『航海者の為の面積速度一定則』だ。読めもしないのを見栄で買った物だが、幸い海の上では時間はいくらでもある。
ロングストーンでこれを手に入れて以降、僅かな手掛かりと乏しい知識を武器に私はこの奇書に挑み続け、内容の二割くらいは読めるようになっていたのだ。金貨17枚もしたんですよ! 積んでたまりますか。
緯度に関する基本的概念は父の日誌に、緯度と日付から太陽の軌道を割り出す計算式はファウストの本に書かれていた。
私に出来るのは分数の掛け算までだが、ファウストはアホの子用の簡単で大雑把な計算式も書いていてくれた。ありがとうニコニコめがね爆弾おじさん。
それによると。北緯60度のコルドンの今日の日の出時刻は午前9時頃で、日の入りは午後4時頃だという。7時間しか日が出ないんですか!?
これは同じく北緯60度付近のストークの首都イースタッドでもそうなのだろう。そっかあ。僕の故郷って真冬は昼がそんなに短かったんだね。知らなかったよ。
ようやく朝日が水平線に顔を出す……昨日も一昨日も雲が多く、日の出は見えなかったんですよ。そうか。私はこんな所まで来てたんですか。
時刻は8時半。しかしファウストの本によれば日の出は9時頃のはず。私は時計の方を9時に合わせる。
船の進路は北北東。そして陸地は北東の方に見えて来た。
「見えたぞ。スヴァーヌだ」
私は艦首近くの舷側で、手摺りから身を乗り出して陸影を眺めていたヨーナスとエッベに、ストーク語で話し掛ける。彼等との航海も無事終わったようだ……短い間だったけど騒がしい子達だったし、居なくなると寂しくなるわね。
あ。二人が振り返った……って! 涙も鼻水もボロッボロ流して泣いてる!
「せんちょうー!!」「キャプテン・フレデリク!!」
ぎゃぎゃあああ!? 私は飛びかかって来た二人を寸での所で避ける! 二人はそのまま甲板に突っ伏して泣き叫ぶ……
「嬉しい! ありがとう船長、俺たち帰って来た!」
「キャプテンフレデリク、男の中の男!」
「あ、ああ……ストーク語も上手くなったな、お前達……」
私は尚も膝にすがりつく二人の額を抑える。抱き着かれてはかなわん。頼むからその鼻水を手拭いか何かで拭いてからにして欲しい。
「この時間に来れて良かったな」
そこに不精ひげが近づいて来て言った。
「まあ、昼間のうちに着けそうで良かったね」
「船長。コルドン港はフィヨルド……それもとびきり複雑に入り組んだ、島と崖と入り江の奥にある……スヴァーヌ周辺のまともな海図は無かったよな? ここは水先案内人が居ないと難しいんだ。そのへんにコルドンに帰港する漁船でも居るといいんだが」
北洋に面したスヴァーヌの陸地は実際には島々だという。それは一面岩と草地に覆われている。
大海に面しているのは島々で、その向こうに穏やかな海があるという構造はウインダムの干潟も一緒だったが、スヴァーヌの岩山の島の向こうにあるのはフィヨルドの海だ。たくさんの島々と崖、入り江、荒れ地……失礼ながら、本当にこんな所に人が住んでいるのだろうか?
幸いフォルコン号は水先案内を得る事が出来た。周辺は船影もまばらなのだが、一艘の小型のガレアス船が……いや、漕ぎ手の多い古風な船が、ちょうどコルドンに帰る所だからと案内を買ってくれたのだ。
「こんな季節にアイビスの船とは驚いた! コルドンによく来たな! この辺の水路は複雑だからな、俺たちが案内しよう!」
赤毛で船乗りにしては色白な、背丈もお腹もとても大きなおじさんが船長をしているその船は漁船だという。フィヨルドの海は外洋と比べ風も波も穏やかだったが、総帆を張った高性能なフォルコン号は漕ぎ手が18人も居るその漁船に難なくついて行く。
「だけどアイビスの船なのに船長がストーク人とはがっかりだ、ガハハハ……いや、悪く思うな小僧、俺は冬にアイビス商人が来るなんて珍しいと思ってワクワクしたのよ、だけどストーク人船長かぁー、仕方ねえなぁー」
船長さんはスヴァーヌ人だがストーク語も出来るという事で、会話はストーク語になったが私には問題が無かった……私、結構ストーク語出来るようになったんじゃないですかね? 冷や汗をかいた甲斐があったわね。
島と島との間の水路を抜け、崖の連なる入り江を通って、フォルコン号はついにコルドン港へとたどり着いた。
フィヨルドの島々と崖と荒れ地の奥から現れたのは、雪化粧をした色とりどりの木造建築が立ち並ぶ、何だか鮮やかで可愛らしい町だった。