ウラド「そうか……私が非番で寝ている間に、行先が真逆に……」
さて、グラスト港を出港したフォルコン号の船上では。
「北に向かいます」
グラスト湾を脱出し西へ十分に進み、さあ南へ舵を切ろうかと言った矢先。私はサラリとそう言った。
私の合図で今にも取舵を行おうかと待ち構えていたロイ爺がずっこける。不精ひげも甲板に転倒している。アレクもヨロヨロと腰が砕けたようによろめく。
「だって積荷、毛織物だよ? 絶対北で売った方がいいじゃん」私。
「だから僕はさんざんそう言ったじゃない!」アレク。
「気が変わったのか……」不精ひげ。
そうです。私は気が変わりました。
水運組合にはロングストーン行きと言ってあるけれど行き先に特に強制力はある訳では無いのだ。
「さあ北に回ってそれから東へ! どこまで行きましょうかね、まずはレイガーラント、ウインダムなんてどうですか! レイヴンと並ぶ北洋の急成長株ですよ!」
「あそこも工業が発展してるし毛織物は高く売れないんじゃないかな……」
皆さんには余計な心配を掛けたくないので黙ってないといけないんだけど。私は思いっきりユロー枢機卿の計画を邪魔してしまった。あの御仁はよく考えると王都の有力政治家か何かではないだろうか。
そんな大変な人に悪い意味で目をつけられてしまっては、私やフォルコン号の皆様の、貧しくとも穏やかな人生設計が台無しになる可能性があるのではないか?
だから暫く姿を消してはどうだろうか? ロングストーンに行くと言っておいて北洋に行き、姿をくらましては? 私はそう考えたのである。
幸いうちは現状自社の荷物しか積んでないし、どことも輸送の約束をしていない。酷い商船もあったものだが、気まぐれに姿を消したとて大きな問題はあるまい。
本社と定期航路が別にあるのも強みだ。
そして私は所詮人の印象に残りにくい貧相な小娘であって、髭に導火線でも編み込んだギョロ目の怒りっぽい印象的な大男などではない。アイビスを離れあまり人目につかないようにしていれば、ユロー枢機卿もすぐに忘れて下さるのではないだろうか。
「まあいいや、どっちにしろウインダムには御挨拶に行きましょう、父の航海日誌を見ても、今までもここまでは来てるじゃないですか?」
「了解じゃ、船長、指示を出しておくれ。皆も準備はいいかな」
ロイ爺が何でもなさそうにそう言ってくれる。ありがとう爺ちゃん。
「面舵ゆっくり。北へ転針!」
「アイ、マリー船長、おもかァァじ」
◇◇◇
アイビスとレイヴンを隔てる海峡は、大きな海の尺度で言うととても狭いらしい。その幅は一番狭い所、クレイ海峡では3、40kmくらいだと。
それがどうしたかと言うと、ここを通ろうと思ったらフォルコン号もそれだけレイヴン本土の近くを航行しないといけない訳だ。
もちろん反対岸はアイビスなのだから堂々としていればいいんだけど、私の父がレイヴンでは海賊として認知されているという事実は意識しない訳には行かない。
グラストの北の岬を回り、東寄りの航路から次第に北東方向へ……フォルコン号は十一月半ばの海を行く。
「ねー太っちょ、この積荷ならコンテナ開けてもいいわよね?」
「何に使うの?」
「アイリさんと私で皆に冬服作ってあげるわよ。要るでしょ」
ウインダムへは1000km弱の旅……労働者諸君の監督に剣の稽古、読書に釣りに日向ぼっこにぶち君のお手入れ、私は本当はとても忙しいのだが、これも皆の為だ。
私とアイリさんは第二船員室に作業場を作って、七人分の防寒着を拵える。今すぐ要る物ではないので、ゆっくりと。
泰西洋北部、アイビスより北、レイヴンより東の海は特に北洋と呼ばれる。さらにコモランを越えて東に行くとペール海……フレデリク君の故郷、ストークはその先にあるらしい。
北洋。名前の通り北の世界だ。冬には早くから雪が降り春の訪れも遅いと。
まあ雪はヴィタリスにも降りますよ。遠くの高い山の上の方は、春まで雪に覆われていたりするし。どうって事ないでしょ?
フォルコン号はアイビスとレイヴンの間の海峡を東北東に進む……実際には船は海峡の真ん中へんを進んでいるので、陸影はほとんど見えなかった。
そしてグラストを出港して三度目の夜の未明には、問題のクレイ海峡が近づいて来る……この辺りではフォルコン号はかなりアイビス沿岸寄りに寄せていた。クレイの灯台も見える。
まあ、この辺りならレイヴンの海岸線から30kmは離れているし、ちらほら見掛ける海軍艦も全部アイビスのだ……レイヴンの軍艦はレイヴン側を通るし、第三国の軍艦は真ん中へんを通るんだと思う。
私はこの海峡を通る間を、当直でも無いのに起きて過ごした。結果的に、別に心配するような事は何も無かった。
レイヴンの軍艦を一人でかっぱらって乗り回した挙句サメだらけの入り江にパンツ一丁で飛び込んだ男を父に持つ私が船長をしている船だからと言って、レイヴンの軍艦が大砲を撃ちまくりながら追い掛けて来たりはしなかった。
いや、そんな事があるかもなんて思ってた訳じゃないけど、世の中何があるか解らないじゃないですか。ねえ。
日が昇る頃にはアイビス沿岸は再び見えなくなっていた。そしてここから先が実際に北洋と呼ばれる海になるのかしら。
内海、泰西洋、そして北洋。マリー船長、三つ目の海である。
「ニック先生!」
ロイ爺が非番のようなので、私は甲板を通りがかった不精ひげを呼び止めた。驚いた不精ひげは看板の段差につまずいて転倒し、持っていたジョッキのエールをそのへんにぶちまけてしまう。
「あああ……勿体ない……」
「ニック先生、どうして海は場所によって色が違うんですか?」
「勘弁してくれよ……グラストで積めなかったからエールが残り少ないんだ……やっと一息つこうと思ってたのに」
不精ひげはそう言って肩を丸めながら空を指差す。
「まず、空の色の違いが一番大きい。単に今は曇りだろ」
「さすがにそれは解ります先生」
「先生はやめてくれ……海は深さでも色が違い、深い程暗い色になる。それから……そうだな、船長は故郷ではよく土を耕していたっていうけど、綺麗な砂と真っ黒い土、作物がよく育つのはどっちだ?」
「その二つなら間違いなく黒土ですね」
「底が見えるくらい透明な海は見た目は綺麗だが、何というか、養分は少ないらしい。そして北洋の海は明らかに養分が多いんだと思う。海の水の色が違う訳じゃないんだけど、色が違って見えるのはそのせいじゃないかな。北洋は魚の数が多く、身も大きくて味もいいぞ」
そうなんだ……北洋の海は魚が多いのか。そういえば干し鱈も鮭も北洋の名産品だっけ。同じ海なのに何でレッドポーチなどでは獲れないのかと昔は不思議に思ってたんだけど……船乗りになってみると、何となく解るような気もする。
「もう一ついいですか先生」
「頼むから先生はやめてくれ……」
「北洋を航海するにあたって気をつける事は無いですか? 他の海と比べてここに気をつけろというような」
「ああ、あるよ。船長、北洋では気を抜かないでくれ。船長は風を操れるけど、気を抜くと逆風にもなるし嵐も来るだろ?」
「風は操れないし別に気も抜いていないよ!!」
「冬の北洋で起こる嵐は凄いんだ……恐ろしく冷たい凄まじい強風、切りつけるように襲い掛かる氷の粒、港にも船にも山ほどの雪が降り積もり、真っ暗な空に雷鳴が轟く……それはそれは恐ろしいんだから。頼むから船長、北洋に居る間は追い風と晴天を忘れないでくれよ」
この男はいつまでこれを言い続けるのか……私が船に乗ってから順風が多い? そんな事無いよ。逆風が吹き続けた事もあれば嵐に揉まれた事もありますよ。
私は空を見上げる。もう日は十分昇ってるはずなのに暗いな……太陽も夜明け直後には見えてたんだけど、今は分厚い雲の向こうに居るらしく、どこに居るのかさっぱり解らない。
冬の嵐……
……
もうちょっと晴れないかな……別に……嵐が怖いとか、そういう訳じゃないけど……いやちょっとは怖いけど……それにほら、そんなに冷たい風が吹いたら、皆が可哀想だし……カイヴァーンなんか雪見た事無いんじゃないかしら、ねえ……?