グラナダ「んん? ヴァレリアン君に会ったら聞かなくてはならない事があったのだが……はて、なんだったかな……」
マリーがグラスト港から礼砲やら花火やらで見送られていた頃。
内海でもいくつかの出来事が起きていました。
グラナダ侯爵とロヴネル提督は前作「海の勇士マリー・パスファインダー(笑」に登場した人達、
ヴァレリアンとカリーヌ夫人は第一作「少女マリーと父の形見の帆船」に、
ランベロウは第二作「マリー・パスファインダー船長の七変化」の中盤に出た悪役でした。
今回は三人称マリー無しです……
アイビス王国に属する、ラヴェル半島東岸地域アロンドラ。その港町ブルマリンに。エドワール・エタン・グラナダ侯爵は17日ぶりに帰って来た。
「侯爵がお戻りになったぞ!」
「先主が戻られた!」
普段は風光明媚なのんびりとした保養地であるブルマリンの港だったが、二週間以上前に忽然と姿を消していた侯爵の帰還に騒然となった。
町の領主であるブルマリン男爵は騎士を引き連れて港にまで出迎えに来たし、その時点で侯爵を連れ去ったのがストークの船乗りだと解った時には緊張が走りもしたのだが。
「いやいや、私が頼んで乗せて貰ったんだよ。このストークの船乗りの皆さんには恩しかないんだ、それでね……ふふふふ、私がどこに行って来たと思う?」
港にはブルマリン男爵の他、この町に住んでいる男爵の三男ヴァレリアンと、その妻で侯爵の娘であるカリーヌも出迎えに来た。
「どこへ行って来たと思う、ではありませんわ、皆様がどれ程心配したと思っていらっしゃるの!?」
カリーヌ夫人は少々不機嫌であったが。
「う、うむ、それは二人共すまなかった、カリーヌ、私はね、フレデリク卿に御会いして来たんだよ。ロングストーンで御会いしてそのままディアマンテに行き、コルジアの宮廷舞踏会に出席して来たのだ。実に素晴らしい経験だったよ、今思い出しても、夢のようだ」
「何と。それは確かに素晴らしい、彼は元気でしたか?」
ヴァレリアンは素直に羨ましがる。
「ふふふ、一人で牡牛と戦うぐらい元気だったようだ、土産話はたくさんあるよ、さて、何から話そうか……」
それから少し後。
「グラナダ卿、色々と御指導ありがとうございました。御縁がありましたらまた」
「もう行かれるのかロヴネル殿……一晩ぐらい、ブルマリンの夜を楽しんでは行かないか」
「有難き御言葉ですが、ヒルデガルドを待たせておりますので」
グラナダ侯爵は別れを惜しんだが、合理主義者のストーク人船乗り達は挨拶も程々に、そそくさとブルマリンを離れて行った。
◇◇◇
ストークの軍艦ヒルデガルド号は大型のフリゲート艦だった。
レイヴンやアイビスと比べるとずっと小規模なストークの海軍にあってはかなり貴重な艦艇なのだが、それだけストークは今回の任務を重視していた。
「とはいえ……今回は何の役にも立ちませんでしたな、この船は」
ディアマンテ行きの冒険にも同行していた艦隊参謀のクロムヴァル、同じく旗艦艦長のイェルド、僚艦の重コルベット艦ビルギット号艦長レンナルト、そしてロヴネル提督。彼等はようやく全員、三週間以上着てなかったストーク海軍の軍服に着替えて、ヒルデガルド号の甲板に立っていた。
「念の為同行させた古いキャラックばかり役に立った。まあ今度同じような事があった時には参考にすればいい」
クロムヴァルの溜息にロヴネル提督はそう答え、三人から少し離れて、腰のサーベルを抜いて、刀身を水平にして眺める。クロムヴァルはそれを見て続ける。
「アイビスやコルジアの人間と親しく付き合おうと思ったら、もう少し別れ際を大事にすべきでしょう。閣下の去り際はストーク人らしい、素っ気ない物でした……まあ、あの方ほどではありませんでしたが」
ロヴネルはクロムヴァルに視線だけ向ける。
「フレデリク卿の事を言いたいのかな」
「まさか本当にあのまま、二度と現れぬとは思いませんでした。ストーク人の基準でも素っ気なさ過ぎると申しますか。最後にもう一度ロングストーン辺りで挨拶があると思っていたのですが」
「私はそうは考えなかった。君も彼の手紙は見ただろう」
「ですが……」
ロヴネルは静かに、サーベルを鞘に戻す。
「我々の任務は終わっていない。マジュドのファイルーズへ向かおう」
ロヴネルがそう言い放つと、今度は黒オールバックのイェルドが口を挟む。
「しかし……そういった二国間関係、いや、レイヴンを含めた多国間関係に影響のありそうな事案については、本国に確認を取った方が良いのでは」
「俺はそうは思わないぞイェルド、まあお前がどうしてもというなら俺とビルギット号で聞きに行ってもいいが」
そこに口を挟んだのはライオンのレンナルトだった。
ロヴネルはそのまま三人に背を向け、艦尾へと歩いて行きながら言った。
「これは私の責任で行う。恐らくフレデリク卿もずっとそうして生きて来たのだろう。私に彼程の事が出来るとは思えないが、彼がこの剣を預けてくれた事の意味、せめてそれには全力で応えたい」
残された三人はそのまま中甲板からロヴネルの様子を見ていた。ロヴネルは一人、艦尾の手摺りの辺りまで行くと、再び例のサーベルを抜き、その曇りなき刀身を改めている。
「すっかり夢中の御様子ですな」
イェルドが呟くと、クロムヴァルは溜息をつく。
「手に負えません」
◇◇◇
同じ頃。ロヴネル達より一日先行して内海をロングストーンへ、二本マストのブリガンティン船が向かっていた。
この船はレイヴン海軍の通信船ヘッジホグ号、船長はブライズ・エイヴォリーという三十代前半の女性だった。
レイヴンでは女性の海軍士官も珍しくないのかというと、そんな事は無い。現状レイヴンの王立海軍に属する艦船の中で、女性が艦長を務めているのはヘッジホグ号だけである。
通常の商船などであれば内海の航海には外洋程の困難は無い。港に寄港する度に乗員用の新鮮な食材や水を積み込む事も出来るし、時には上陸して休息を取る事もある。
しかしヘッジホグ号は大変重要な積荷を運ぶ為、内海のほぼ南東の果てにあるハマームからここまで3000km以上を無寄港で航海していた。
そのヘッジホグ号の下層甲板の中央部。フォルコン号などであれば商品の箱荷や樽荷を積み上げておく荷室になっているであろう場所の一角に、レイヴンの元高等外務官、ランベロウは囚われていた。
そこは一応客室とは呼ばれているが、ランベロウを収容するにあたり、入り口扉は鉄格子の物に改装されていた。
「エイヴォリー艦長ッ! 一体この食事は何日続くのだッ! 来る日も来る日もバサバサの固いパンに痛んだチーズ、ベーコンは僅か二切れ、スープの具は豆と萎びた芋の葉だけではないか! お前の行為はレイヴン王国法にも万国法にも違反しているッ!」
その鉄格子の向こうからの罵声に、エイヴォリー艦長は律儀に足を止める。船長は肩口で切りそろえた金髪をきちんと結んだ折り目正しい女性で、評判の美人でもある。ただしその横顔は疲れ気味で、慢性的な肩凝りの悩みのせいもあり、どうしても憂鬱な表情が表に出てしまう事も多い。
「ランベロウ殿。何度も申し上げておりますように、食事は乗員も私も同じ物を食べております」
これは実際には嘘だ。エイヴォリーはうるさいランベロウにだけ他の乗員より良い物を出すよう、司厨長に申しつけている。今日のランベロウの食事にだって、船長の食事にもつけていない桃の蜜漬けがついている。
「待て船長! 貴様もどうせ私はもう終わった人間だと思っているのであろう! 物事の価値の解らぬ奴め! 貴様らが今どれだけ私を侮ろうと、私には見えるのだ、貴様らはいずれ私の牢の前に跪き、こう言うのだ! 貴方を疑って申し訳ないランベロウ卿、あの男、フレデリクを倒す方法を教えて下さいとな! フハハハハハ!!」
エイヴォリーはそのまま牢の前を通り過ぎ、船尾側にある海図室へ向かう。ロングストーンまで、順調ならあと二日。そこまで行けば久々に陸地を踏めるし、陸の食事が摂れるはず。
ハマームでの上陸はあまり生きた心地がしなかった。ハマームの民は秩序を重んじる人々で、あまり怒りを表には出さないが、彼女達レイヴン人に対する怒りはひしひしと感じた。
しかしロングストーンは中立の都市国家だ。
往路に寄港させて貰えたロングストーンの、何と素敵だった事か。敵も味方も居ない、上司も部下も居ない、あの街並みを歩く事の、何と心躍った事か。
彼女は母国もそこに住む人々も海軍も愛してはいた。ただ少し疲れても居た。
女の身で15歳で士官学校に入学し、候補生として学ぶ日々、勉強では男子にもほとんど負けなかったし、運動力だって男子の平均ぐらいの事はやってみせたつもりだった。なのに何年経っても海上勤務をさせて貰えない。男子は12歳からずっと海上勤務という者も居るのに。
結局20歳を過ぎても士官候補生のまま陸上勤務で、一時は海軍をやめる覚悟もした。どうしても海に出さないつもりなら商船に乗り換えると。
するとようやく上層部も彼女を任官、海上勤務に回してくれたものの、与えられた仕事は首都防衛艦隊の提督補佐官で仕事は提督のお茶汲み、それすらも四年務めた所で後から来た10代の女性士官に乗っ取られ……
エイヴォリーはふと我に返り、何事も無かったかのように、自分で探し自分で見つけたロングストーン周辺の海図を手に、船尾楼の階段を上がって行く。
ヘッジホグ号が前回ロングストーンに寄港し、ハマームに向かい、そして戻って来るまで。ロングストーンとハマームでの滞在時間を含め40日近く経っていた。
エイヴォリー艦長は知らなかった。その間にロングストーンでソーンダイク号らによる条約違反の発砲事件が起きており、レイヴンの軍艦には著しい寄港制限措置が設けられている事を。
何も知らないヘッジホグ号は、積荷として国宝級の大罪人を乗せ、ロングストーンへと急いでいた。