山の中の風紀兵団「マリーさぁぁん、お待ちなさい! マリーさん……あれ……この道さっきも通ったような……」
怒れる民衆、暗躍する扇動者、もっと暗躍する枢機卿。
後悔先に立たず。またしても厄介事に首を突っ込んでしまったマリーの運命や如何に。
港の広場には一際高い人垣が出来ていた。
海軍の憲兵達は一段高いお立ち台の上にいて、もう一段高い処刑台へと、シビル艦長を立たせようとしていた……
シビル艦長は艦長としての正礼装を身に着けてもらっていた。海軍は彼を士官として扱ってくれたらしい。
「早く! 道を空けろ!」
「海軍ー!! 待て、その処刑待てー!!」
「マリー船長! 急げ!!」
男達に誘導され、私は一際厚く高い人垣を、ぎりぎり潜り抜ける。
「君は……!」
シビル艦長が私を見た。彼は拘束されていなかった。あの大馬鹿野郎は最後まで自分の足でここまで来たのか。
辺りの景色が妙に澄み切って見える。青い空、白い雲、穏やかな海……詰めかけた群衆、無人の広場、処刑台と憲兵達……
私はとうとうここまで来てしまった。
それで一体どうするのか? どうやってシビル艦長を救うというのか?
私には何の力も無い。シビル艦長を救うだけの証拠を集める事も出来なかった。
よしんば正しい証拠を集められたとして、私ごとき平民の小娘に、公開処刑されようとしている人を救うだけの発言力などはあるとは思え無い。
シビル艦長を救う方法は、一つ。それは大きな賭けだった。
枢機卿はまだ、この場に居ない。
「待て市民! 止まれ!」
私は人垣の間から飛び出し、手を伸ばして来る海兵隊員の間をすり抜け、処刑台へと走りながら、懐に手を入れ、それを取り出して叫んだ。
「ユロー枢機卿の命令です! 処刑を中止して下さい!!」
私の手には、枢機卿がバラソルに送った手紙が握られていた。
枢機卿は用の済んだこの手紙を、風紀兵団を使い回収しようとしていた。
私はそれを奪い、ここに持って来た。
手紙に書かれているのは、間もなくやって来るリトルマリー号は王国旗を掲げているという事、その船を傷つけ国王を諌める事が必要である事、タミア号のアスランと連携して必ず事を成し遂げる事、これらを決して他言せぬ事……そんな事が書かれていたが、私にとってその文面はどうでもいい。
必要だったのは、文末に書いてある枢機卿のサインだ。
「グラストには王都から、リトルマリー号来航の知らせが来るはずでした! しかしその知らせは途中で事故に会い届かなかった! タミア号の乗員がリトルマリー号を臨検したのは仕方の無い事で、その中で起きた事故は通常の衝突事故として扱われるべきであり、大逆事件には当たらないと! 枢機卿の御言葉です!」
私は手紙の上部を大きく握っていた。お立ち台の憲兵や憲兵隊長からは本文は読めないだろう。サインも読めないかもしれないけれど。
「ほ、本当……なのか?」
あっ……まずい……憲兵隊長が……ぎゃあああ憲兵隊長が近づいて来る!!
そこへ。
「ああ、君……ちょっと」
ひゃああああ!?
私は思わず飛び上がりそうになる。
さっき軽く見回した時は居なかった枢機卿が、ユロー枢機卿その人本人が突然現れ、港広場の片隅の馬車止めに停めた馬車から降りて、ここまでもうあと5mという所まで歩いて来ていたのだ。
私は。枢機卿の方に正対する。
私には政治は解らない。だけどこの人は聖職者であり政治家ではないはず。
ユロー枢機卿は聖職者の帽子を被り、ごく穏やかな目で私を見ていた。
途方もなく臆病で大嘘つきの私も、しっかりと枢機卿の目を見据えた。
ここで負けたら、私もシビル艦長もフォルコン号も助からない。
「御名前を……お聞かせ願えないだろうか」
「マリー・パスファインダー。フォルコン号の船長をしています」
「その君が……あの風紀兵団の男の代わりに、その……私の手紙をここに持って来てくれたのかね。ああ。ブーツにだいぶ……泥がついているようだが」
枢機卿は言葉柔らかにそう言った。
「風紀兵団の先輩はまだ山道に居ると思います。鎧兜ですので少し遅れるのです」
「ふむ。仕方無いね」
枢機卿は目を逸らし、憲兵隊長に向き直った。
「聞いての通りだ。シビル・ル・ヴォー艦長は、大逆事件については冤罪と解ったのだ。処刑は中止して欲しい」
群衆の中からごく小さな歓声が上がるが、すぐに鳴り止んだ。
枢機卿は群衆の方を向く。
「君達には……騒がせて済まなかったね。公開処刑の知らせは間違いだった。それは喜ばしい事と言っていいが……その他に何か、不満があるのならば。遠慮なく言うがいい、教区の司教を通して集めた声は必ず国王陛下の御耳に入れ、より良い治世に反映させる事を誓う。だから今日の所は皆、仕事に戻ってはくれまいか」
突然の公開処刑とその中止の騒動が、群衆の熱を冷ましてしまったのだろうか。枢機卿の説得で、抗議活動はあっさり収束に向かった。
群衆の中には不満の声を上げる者も居たが、それは決して多くは無かった。殆どの者は、帰り始めた者が出るのを見ると、自分も遅れないようにと帰って行く。
「マリー君……その……私の手紙だが。用が済んだようなので、お返し願えるかな……?」
枢機卿は再び、私の方を向く。
私は息を飲む。だが、そうするしかない。
「ええ……どうぞ」
私はそっと手を伸ばす。
枢機卿も手を伸ばし、その手が彼自身のサインに触れる。
枢機卿は手紙を掴んで引き取り、懐に仕舞う。私はただ、半歩下がる。
「君とは……またどこかで会う事になりそうだな。君の旅路に神の祝福があらん事を。この度は御苦労でした」
「恐縮です。枢機卿猊下」
枢機卿が口にしたのは別れの言葉だったが、その穏やかな瞳はまだ私の両眼から離れていなかった。
間違いなく、私のした事は枢機卿の計画を台無しにしたのだと思う。
私が何をしたのかも、どこを妥協したのかも、本当は何を考えているのかも、この人には御見通しなのだろう。
だけどこの人は状況を瞬時に判断し、最善手に切り替えたのだ。
枢機卿がようやく踵を返し、ゆっくりと立ち去って行く。
「パスファインダー船長……これは一体……どういう事だろうか」
私はぼんやりとしたまま振り返る。シビル艦長がすぐ後ろまで来ていた。
「どういう事って、それはこっちの台詞ですよ。何故本当の事を言わなかったんですか」
シビル艦長は目を伏せ、視線を逸らす。
「何が本当かなんて、君に解るのかね。あの酔っ払いの言う通りだよ。私には人望が無かった。差し入れに来てくれたのも結局君一人だ。私などあのまま処刑されていれば」
「いい加減にしろッ!!」
私は慌ただしく懐からもう一通の便箋を取り出し、シビル艦長に突き付ける。
「私だってうっかりこんな物見なければアンタの事なんて放っておきましたよ! 私は育ちが悪いんです! 艦長室の机の引き出しに入っていた手紙を勝手に読ませていただきました! 私はアンタを救ったんじゃないッ、アンタのお母さんを救いたかったんです!! お母さんはいつも……こんなに心配してんのに! アンタ今何て言った!!」
最低である。シビルではなく私が最低だ。他人の母親の手紙を勝手に見た上にこんな所まで持ち出して。
シビル艦長は私の身の上なんか知らないだろう。私は自分の母に何通手紙を出したか解らない。だけど返事は一通だって戻って来なかった。シビル艦長が母から貰った手紙は、私にとってはファンタジーであり憧れだったのだ。
私は自分の歪んだ憧れと共に、その手紙をシビル艦長に押し付ける。私のボロボロの涙腺は崩壊し、大粒の涙が港広場の石畳にボタボタと落ちる。
私はどのくらいそうしていたのだろう。ふと顔を上げると、皆さんが見てる……シビル艦長に憲兵さん、まだ残っていた市民の皆さん……
ああ。枢機卿だけは振り返る事なく、馬車に乗って去って行く。
それから……近づいて来る、あの筋骨隆々のお爺さんは確かジュネスト司令官だ。
「フォルコン号のパスファインダー船長だったな。顔を上げられるか」
私は袖でぐりぐりと顔を拭き、しっかりとジュネスト司令官を見る。この人にだって言いたい事は山ほどあるのだ。これはだいたいアンタとアンタの部下の仕事だったんじゃないのかよ……! 何でそれを私がやって、こんなボロボロ泣いてなきゃいけないんだよ!
「恐らく、君には言いたい事が山ほどあるのだと思う。シビル艦長の事を調べるのは港湾司令官やその部下の仕事ではないのかとな。それは実際、その通りだ。これ以上の御節介は無用だ……君のおかげで、これから色々と面倒な事になる……さて、君が提出していた出港許可証の件だが」
「……はい」
「ただ今港で起きた騒乱について、司直は捜査をしなくてはならぬ。もし煽動者やどさくさ紛れの泥棒などが居たら逮捕せねばならん。それ故、フォルコン号に限らず、全ての船の出港は暫く禁止される……16時だ。16時まで別命がなければ、出航して宜しい」
「……ありがとうございます」
私はまっすぐにジュネスト司令官の目を見る。せめてこのくらいの事はしないと気が済まない。
解ってるよ。大人の世界には色々あるんだって。枢機卿がこの街に来た事、枢機卿の狙い、海軍の事情、陰謀だの工作だの、色々あるんでしょうよ! 私はそんな物聞かされたって解らないし、聞きたくも無いよ。
「それと……君がどこまで知っているか解らないが、グラスト海軍と枢機卿の仲は決して良好ではない。今回君が大暴れした事と、我々海軍に何等かの関係があると解れば、枢機卿はグラスト海軍にますます敵意を剥き出しにするだろう……枢機卿は伝統あるグラスト海軍を解体し、全く別の海軍をここに作ろうとしているのだ」
知らないよ。私、この街では怒ってばっかりだったよ。よっぽど相性が悪かったのかな……群衆にぶち切れた時なんか、酷く口汚い言葉まで使ってしまった。
「……私はどうすればいいですか」
「静かに……極めて静かに立ち去って貰いたい。これ以上海軍関係者と会ったりせず、海軍施設に出入りしたりせず……海軍艦も訪問しないでくれ。少なくとも、グラスト港を出るまでは、君は海軍の誰とも無関係であるように振る舞って欲しい」
「承知しました」
ジュネスト司令官はそう言って私の返事すら聞かず、背中を向けて去って行く。
望む所ですよ。海軍になんて二度と関わりませんよ。
「私も失礼します……シビル艦長。貴方に差し入れが無かったのは海軍が止めてたからです。タミア号の船員達は皆貴方を心配していたし、アスラン海尉は貴方の為に死のうとまでしました。これからも部下とお母さんを大切にして下さい」
大人げない私は、それだけ言って自分もシビル艦長の返事を聞かずに歩き去る。
海軍の桟橋に係留されたフォルコン号。今はあの船が軍艦と並んでいるのさえ腹立たしい。