マリーは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。
マリーには政治がわからぬ。マリーは、村の牧人である。笛を吹き、山羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
(冒頭のみ三人称で参ります)
午後のグラスト市街。明らかに閉店にはまだ早い時間だというのに、商店主達が慌てて売り棚や屋台を片付けている。
やがて、市域の方から大勢の男達がやって来る。ほとんどの者がこの街に生きる職人や商人、商船の乗組員、漁民などだ。皆興奮した様子で、腕を振り上げ、肩を怒らせ、波のように押し寄せて来る。
「グラスト軍港拡張に反対!」
「そうだ! そうだ!」
「俺達はもう十分アイビスの為、国王陛下の為に尽くして来た! これ以上の戦争は他所でやれ!」
「これ以上広げたら、俺達の街全部が軍施設になっちまう!」
足音を踏み鳴らし、男達は港広場目掛け行進する。
回りの路地や行列の後ろからも多くの男達が現れ、行列に合流して行く。
「臨時徴収も! 水夫狩りも! もう懲り懲りだよ!」
「これ以上、夫や息子達を連れて行く事は許さない!」
女達も決して黙っている訳ではない。女は女同士固まり、男達の行列に混じって進んで行く。
昨日はすぐに出て来た衛兵が今日は出て来ない。抗議の行列は声を荒らげながら、港広場へと続く道を埋め尽くして行く。
「皆の衆! 今日はここグラストにユロー枢機卿が来ている! 今日こそ俺達市民の力を見せつけ、枢機卿に皆の声を聞かせるのだ! 俺達は国王陛下に逆らう訳では無い! これ以上グラストにばかり責任を負わせるなと訴えるだけだ!」
「おおおお!!」「おおおお!!」
岬から戻る山道を駆け通したマリーが見た物は、そんな怒れるグラスト市民の大集団の後塵だった。
―― ―― ――
膝が砕けそうだ。汗だくの服が重く喉はカラカラ……だめだ、まず水が要る。
幸い井戸は目の前にあった。私は井戸の釣瓶を引き、浴びるように水を飲んでから、群衆の後ろに駆け寄る。
「皆さん! これは何の騒ぎですか!」
「何って、見たら解るだろうが! この町は俺達あってのものだって、アイビス国王に知らせてやるのさ! お前も騒げよ、今なら何をしても許されるぞ!」
その男はそう言ってニヤリと笑い、群衆を煽り立てる。私は気づいた。こういうのが煽動者か。どこの誰に頼まれているのか、ただ面白がってやっているのかは知らないが、自分は群衆の一番後ろに居て、こうして他人を煽っている。
「もっと大声を出せ! 国王に届かないぞ!」
腹は立つけど今こんな奴を相手にしている場合ではない。一体どこへ行けばいいのか? きっと海軍司令部だ。真っ先にそこへ行かないといけない。この手紙を持って!
私は群衆の後ろの無人になった街を回り込む。だけど……私に何が出来るのか。懐には枢機卿が書いた手紙がある……しかしこれは強奪した物だし、バラソルがアスランに行動を指示したという完全な証拠では無い。
そして山道を駆け通して来た私は本当にクタクタだった。だけど嫌な予感は全く鳴り止まない。このままでは済まない気がしてならない。急がなきゃ。
海軍司令部は海辺にある。しかしその周辺は特に厚く群衆に包囲されていた。
「海軍は出て行け!」「ここは商船と漁船だけで十分だ!」
そして皆、海軍に対する怒りを燃やしている。怖い……怖いけれど、ここを突破しないといけない。
「皆さん! 通して下さい、私は商船フォルコン号の船長のマリー・パスファインダー、大急ぎで海軍司令部に行かないといけないんです!」
男達が振り返るぎゃあああ怖い!? みんな目が超怖い!! 海軍に味方し海軍の仕事で甘い汁を吸っている民衆の敵。男達が私を見る目が、そう言っている。
「ふざけんな小娘ェェ! 今俺達が何をしてるのか、見て解んねえのか!」
「すっこんでろ!」
「お前の父や兄が海軍に取られてもいいのかよ!」
無理な物は無理だ。何十、何百という男達に睨まれ、私のようなチビの小娘に何が出来るというのか。正義は我にありと思っている人達に、私の声が届くものか。
―― ドン! ドンドン!
その時。先の道で発砲音が響いた……! 嘘……!
「うわああ、撃ちやがった!?」
「待て、空砲だ! だが……あれは……」
続いて、大きなハンドベルのような物を激しく鳴らす音が。海軍司令部の敷地の方から聞こえて来た。あれは……?
「誰が撃たれた!?」「軍隊が発砲しやがったのか!」「違う空砲だ落ち着け!」
「怪我人は居ないのか!? 前の様子を知らせろ!」
「何てこった、あれは……公開処刑を知らせるベルだ!」
興奮する群衆が、一時に静まる。
男達はそれまで大声を上げ暴れる為、周りとの間隔を開けて集まっていたが、それをやめて、前に詰めて行く。
私も彼等について行くが、幾重にも重なった男達の人垣は高く、私には向こうの道は全く見えない。
「あの、開けて下さい! 誰が連れて行かれるんですか! 見せて!」
私は列の後ろに割り入ろうとするが、たちまち突き飛ばされる。
「うるせえ! 割り込むな!」
弾き飛ばされて尻もちをついた私に、群衆の中に居た背の高いおじいさんが教えてくれた。
「あの男だ。ル・ヴォー艦長だよ! 国王陛下の御召し船に哨戒艦を体当たりさせた奴だ……港広場へ連れて行かれるようだ……そこで公開処刑されるらしい」
「皆さん! 聞いて下さい! ル・ヴォー艦長は無実なんです!」
私は叫んだ。二、三人の男が振り返ったが、また向こうを向いてしまう。
「……聞けよ! 艦長は無実なんだよ! もうすぐ市民の娘と結婚する部下を庇って代わりに出頭しただけなんだよ! お前ら軍人ならどうなってもいいと思ってるのかよ!」
数人の男達が振り向き、数十人の男達が視線だけ向けて来た。
「男が一人! 人の為に良かれと思って、昼も夜も真面目に働いて、その報われ方がこんなんでいいのかよ、お前らも働く男じゃないのかよ! こいつは確かに人の為に嘘をついてお上に出頭する大馬鹿野郎だよ、だけどお前らそいつがそれだけの罪で殺される所まで見たいのかよ! そんなに……そんなに海軍が憎いか!!」
もう、この路地にこちらを向いていない男は居なかった。
「だいたいタミア号が何をやったと思ってるんだ! 国王陛下の旗を揚げたちっぽけな古い怪しいバルシャ船が来たから! そんな船が来るなんて聞いてないから! グラストの海を守る男達の責任で臨検をしたんだよ、それの何がおかしい! おかしいのは国王陛下だよ、何だってあんなちっぽけな船に王国旗を立てた!」
男達の数人が慌てて手を振る。
「よ、よせお嬢さん、国王陛下の批判は……」
「構うもんか! リトルマリー号は私の船だったんだよ、それを陛下が貸せっていうから貸したけど、こんな事になるなら貸すんじゃなかったよ! 国王陛下の舟遊びのせいでアイビスを守る王国の男が一人処刑されるなんて、冗談じゃないよ! お前らが言えないなら、私が国王陛下に言ってやるよ!!」
男達が後ずさる……恐らく、公然と国王陛下を批判した私に近づきたくないんだろう……こういうのを大逆罪というのだ。
「お、おい! 処刑が始まっちまうぞ!」
「船長に、マリー船長に道を空けろ!」
路地にぎゅうぎゅうに詰まっていた男達が押し合いへし合いして、どうにか一筋の道を空ける。波止場が……見える……
私はその男達で出来た生垣に飛び込み、駆け抜け、波止場に出る。しかし。
「し、市民! ここから先は駄目だ! 公開処刑を行う為、港広場に続くこの波止場は通行禁止となる!」
波止場には十数人の海兵隊員が居て、緊張の面持ちでマスケット銃を構えている。
「何を言ってやがるんだ! お前らの仲間を助け出す為だぞ!」
私の背後の男達が騒ぐ。
「待って! この人達だって仕事なんですよ! 公開処刑なんでしょう、港広場に続く道は他にありませんか!?」
「勿論あるとも!」「皆道を空けろ!」「こっちだ船長!」
身をよじり道を空ける男達、先触れをして走る男達。
波止場から路地に戻った私は、男達に導かれて波止場の一本裏の道を走る。
「みんな!! マリー船長に道を空けろ!!」
「グラストの男達と女達の為に! マリー船長を通せ!」
「急げー! 道を空けろ!」
やがて、港広場への路地の出口が見えて来た。