オランジュ「本当だぞ、あいつと俺達海兵隊と、アルバトロスって奴とで、ゲスピノッサ一家をぶちのめしたんだ」
アスラン海尉の告白が本当なら、事件はユロー枢機卿の自作自演だという事になる。
海軍に訴えられる状況ではない。どうする、マリー。
アソシアシオン号に戻った私を待っていたのは、ニヤけたゴリラだった。
「こっちでも皆見てたぞ、砲列甲板の連中も、そーっと砲門を開けて覗いてた。ププッ……もうおかしくてさ、大の男共がお前に叱られてシュンとしちゃって」
「笑い事じゃないですよ。とにかく、海軍の人達はタミア号の乗員が何を言ってても聞いちゃいけないんでしょ?」
「そうみたいだな。艦長が繰り言のように言ってたぞ、あいつらが戻って来ても、誰もタミア号の話を聞いてはならーん! って」
だから、出世したかったら皆が見てる前で船長の物真似なんかするのやめなさいよ。ていうかこの人、一人だけ艦長の言いつけを破ってるな……
オランジュ大尉以外の海軍さんは全員、私の事が見えないふりをしている。今さっきまでボートの中で、好きな食べ物だの好きな色だの聞いて来てたオリオン君とバスティエ君まで、何も言わずどこかに行ってしまった。
そう。私はとっくに下船していて、タミア号になど行かなかったし、今ここに居るはずもないという事である。私もそれ以上は口を開かず、速やかにアソシアシオン号を降り、カラベル船を通って波止場へと降りる。
よせばいいのに、私はそこでアソシアシオン号の方を振り返ってしまった。
波止場側の舷の砲門が全部、ちょっとだけ開いている。
停泊中だというのにいやにたくさんの水夫がマストやヤードに登っている。舷側の波除け板や手摺りをいやにたくさんの水夫が磨いている。
もの凄い数の水兵が、海兵隊員が、士官が、無言でこっちを見ている。
私は吹き出す冷や汗を振り払うように、波止場を走り去る。
オランジュ大尉だけが、私に手を振ってくれた。
◇◇◇
監視塔へ向かう道は二つ。一つ、海路から行く。監視隊の交代要員は通常、港からボートで行くそうだ。
もう一つは陸路。監視塔は入り組んだ岬の突端にあり、海岸線のほとんどは切り立った崖なので、岬の山の上を歩かなければならないと。一応、鬱蒼とした森の中を進む、狭く険しい道があるらしい。
そして監視塔は重要な保安施設であり、古来より戦争や襲撃となれば真っ先に狙われる場所なので、とても厳重に警備されていて、どちらから近づいた所で入れないという事である。
結局、バラソルさんが非番で街に居る事を祈るしか無い。
勿論、ご自宅の場所はアスランさんから聞いて来た。私も成長したものだ。
グラストの街はパルキアのように大きくはない。三方を山に囲まれもう一方は海という広くない土地である。
ガレットを売っていますね。この街のガレットはアイリさんが作る物に似ている。そう言えばまだ朝食を食べていないよ……もう10時過ぎじゃないかしら。
海軍さんにもう行っていいかどうか聞いて来るだけ、そのつもりで出て来たんだよね私。そうだ、食材も昨日の夕方に山ほど買い込んだばかりでしたよ。
やっぱりもう船に帰ろうかしら。
アイリさんの料理は何でも美味しいけど街で新鮮な食材を購入した直後の料理は特に美味しい。だから今朝の船の朝食はきっとめちゃくちゃ美味しかったと思う。
昨日カイヴァーンが鉢巻きに青菜を差していたのを思い出した。あれは可愛いと思った。
非番らしい水兵さんがガレットを買っている。私も一つ買おうか……
「今日はやらないのか? 抗議活動」
「夕方ぐらいに、またやるみたいですけどね。今度は花火も打ち上げてやるなんて息巻いてる奴も居ますよ、海軍司令部の頭の上にドーンと」
「ハハハ、そりゃ物騒だけどいい見物になるな」
顔見知りの仲なのか、店主と水夫は店先でそんな事を言いながら談笑している。
お上にはお上の事情があり、市民には市民の事情があるけれど。現場の人間同士というのはこんな物だろうか。
何と言うか。この緩やかな対立、市民と軍人、文句を言いつつお互い様で程々上手くやっている、この街の空気を守る事が出来たらいいのにな。
私もガレットを買って食べようかと思ったけれど。何か胸騒ぎがする。
今は時間を無駄にしてはいけないような気がしてならないのだ。私は小走りでグラストの街を駆けて行く。
いくつかの路地を巡り、私はバラソルさんの自宅のある通りに辿り着く。二階建ての長屋が並ぶ石煉瓦作りの通りだ。アスランさんによれば、バラソルさんは独り身だと言う。
私は戸板をノックする。
「バラソルさん。バラソルさんはいらっしゃいませんか」
返事は無い。本当に居ないなら仕方ないけど、居留守の可能性もある……アスランさんの言う事が本当なら、バラソルさんの方も今はかなり緊張しているかもしれない。もし家に居たとしても、不意の怪しい客になど応答しないかもしれない。
どうしよう。この家、玄関扉を開けたらすぐ階段になっていて、バラソルさんの部屋は二階にあるっぽいな。だったら屋根によじ登って中を覗き込んでやろうか。
私がそんな事を考えた瞬間である。
「マリーさん? やっぱり! マリーさんですよね?」
後ろから声を掛けられ、私は振り返る。私の真後ろに。緑色のサーコートを着た鎧兜が立っていた。これは所謂あれだ。風紀兵団。ぎゃあああああああ!?
「お久し振りです、あの時は本当に有難うございました、色々あったんですけどおかげさまでトライダーさん、無事無罪判決をいただけたんです」
その風紀兵団はそう言って両手を広げてみせる……名前も中身も知らないけど、どうやらこの人はレッドポーチで私にトライダーの裁判の為に陳情書を書いてくれと依頼して来た風紀兵団の片割れのようだ。
「そ……そうなんですか、それは良かった。トライダーさん、お元気ですか」
それはマリーにとっては極めてどうでもいい事だったが、フレデリクが聞けというので私は聞いた。
「ええと、裁判はミレヨンで行われまして、無罪判決が出た後は我々風紀兵団の有志でささやかな御祝いをしたんですが……それがもう四か月くらい前の話なんです。それからというもの、トライダーさんは国王陛下からたくさんお仕事をいただけるようになって……最後にお会いしたのはもう一か月以上前でして。まあつまるところ、とてもお元気ですよ」
「トライダーさんの努力が報われて良かったですね」
私は心にもない台詞を棒読みにする。
「私もトライダーさんのおかげで、たくさん仕事をいただけるようになりました。今日も枢機卿の護衛で来てるんです……ああでも、それはそれとしてですね」
「あの私、今はちゃんと保護者が居ますから」
「マリーさんはお婆様とお父様を亡くされて天涯孤独だそうじゃないですか、王国令で今は正式な親族以外は保護者になれないんです、あの、ですが王立養育院は本当にいい所なんです、マリーさん、今日こそ御一緒に王都へ」
私は風紀兵団が伸ばした手をヒョイとかわす。
「風紀ある市井の為に! 御願いします、一緒に来て下さいマリーさん!」
「私は一人で生きられます! ほっといて下さい!」
回れ右で走り出す私。こんな事だったらガレット買い食いしてれば良かったよ! こっちの方がよっぽど時間の無駄だよ、早くバラソルさんを探し出さなきゃ行けないのに! でもどうしよう、バラソルさんが本当に家に居なかったら……
「待って下さい! マリーさーん!」
待てと言われて待つ訳もなく、私は鎧兜をガシャガシャ言わせて追い掛けて来る風紀兵団を軽く振り切り、角を曲がり、路地を駆ける。
……
「マリーさーん……ええっ!?」
私は曲がり角で待ち伏せして、追い掛けて来た風紀兵団の鎖編みの籠手を掴む。風紀兵団も驚いて立ち止まる。
「貴方今どうしてあそこに居たんですか!? 貴方もバラソルさんを探してたんですか!?」
「えっ!? は、はい、枢機卿のお使いで……あっ、すみません、これは極秘任務でした、さすがに申し上げる訳には」
「枢機卿のお仕事なら、ヴィタリスのマリーなんか追い掛け回してる場合じゃないでしょう、物事には優先順位って物がありますよ! 私もついて行ってあげますから、まずはバラソルさんちに、そこに居なければ監視塔に行ってみましょう!」




