グレーゲル「最早猶予はならぬ、脱落者は自力救済せよ、一刻も早く、一人でも多く公女の元へ向かうのだ!」
ヨーナスとエッベだけではありません。
ルードルフ、もう一人のマリーちゃん、ぶち猫、フルベンゲンの人々、そしてマカーティ。
ファウストとサイクロプス号も。たくさんのお別れの時がやって来ました。
カイヴァーンには先に戻ってもらい、私は一人でサイクロプス号の甲板を訪れた。こちらは明日出港との事で、乗組員の大多数は上陸中らしい。
「結局リゲルもロゼッタも出払ってますね……当てが外れて申し訳ない。やらないといけない事があるので、私はこれで失礼します」
ファウストもそう言って艦長室の方に行き、扉を閉めてしまった。
取り残された私は辺りを見回す。これじゃ何の為に来たんだか……しかし勝手に歩き回っていいというのなら、少しそうさせて貰おうかしら。
サイクロプス号は大船である。マストも高くしっかりしていて動索や支索の数もフォルコン号とは段違いだ。
私は何故あんな真似をしたのだろう。イリアンソスからハマームに向かう途中で、この船に乗り込んで乗組員とファウストを空中鬼ごっこに巻き込み、メンマストの上にはためく吹き流しを奪って逃げたのだ。
あの時の私はファウストの何に腹を立てていたんだろう。まるで思い出せない。
オズディルという人から訳あって譲り受けたバルシャ船から、ロープを伝ってこの船に渡って……渡り終わった私は、さぞや自分が注目されてるだろうと思い辺りを見渡したのだが、あの時は……
「うん? フレデリクじゃねえか、いつの間に来てたんだ」
後ろから声を掛けられ振り向くと、大荷物を抱えたスカーフェイスの本格派海賊幹部のリゲルさんと、色白の知的美人のお姉さんロゼッタさんが……舷門を上がって来る所だった。
「ちょっと! フレデリク君!」
そのロゼッタさんが小声で呼びながら、急いで駆け寄って来る。
「さっきうちの船長と一緒に歩いてたって聞いたわよ! ねえ、船長は何て言ってるの!? それとも何も言ってないの?」
「よせよロゼッタ……さんざん言われてるだろ、その船長に」
二人が何の話をされているのか、それは当然私には解らなかったが、私にも解る事が一つある。
「ファウストは僕には何も話してくれないよ。色々あったからね、僕はあんまり好かれてないんだと思う」
「そんな訳無いじゃない、あの人貴方の帽子から落ちた飾り羽根、日記に挟んで大事に取ってあるのよ」
は?
「だからよせって……ああフレデリク、気にしないでくれ。俺達が新世界へ行くのは聞いてるよな? 今後も縁があるかどうかは解らないが今の内に礼を言わせてくれ。お前がファイルーズへの寄港を都合してくれた事で、俺達がどれだけ助かったか俺には説明も出来ねえ。あんときゃ本当にありがとうよ」
リゲルさんは怖そうな外見とは裏腹に普段はとても優しい人だ。水夫達にも慕われているし頼りにされている。
一方、ロゼッタさんは本当に何故海賊船に乗っているのか皆目見当もつかない。
「ファウストにもサイクロプス号にも皆さんにも、ハマームではさんざん世話になったから……あのくらいの事は当然だよ。それで、ファウストは一体何を」
「そうなのよ、船長ったらね、」
私がそこまで言い掛けた所で、そのファウストが船長室から飛び出して来る。
「ロゼッタ! その辺りで勘弁して下さいよ!」
「あら、ごめんなさい船長! フレデリク君もごめんね、航海の無事を祈るわ!」
それ以上私が何か聞き出す前に、ロゼッタさんとリゲルさんは下層甲板の方へ行ってしまった。
「貴方もそろそろ帰った方がいいんじゃないんですか? 貴方の船はもうじき出港するんでしょう」
「……うん」
私は何となくサイクロプス号のトプスルの静索を見つめていた。追い掛けっこの最後に時間稼ぎで走り回ったのはあの辺だな。ぶち猫と一緒に来たんだから、ぶち猫と一緒に帰ろうと思って……
「冴えない顔してますね」
「これが僕の普通の顔だよ。ほっといてくれ」
「一つ秘密を教えてあげましょうか? リゲルとロゼッタは夫婦ですよ」
「……ええええ!? あっ、あのお二人結婚されてるんですか!?」
「声変わってますよ。さあ、御帰りはあちらです。私はまだ忙しいので」
◇◇◇
午後二時。極夜の空がまた暗くなって来た。満月は空の低い所で大きな顔をして地表を照らしている。
「出港予定時刻を少し過ぎてしまったね。不精ひげ! 僕が抜錨していいのか!」
「待ってくれって、海戦の後の改修で動索が入れ替わっていて勝手が違うんだ」
「ええ……それを今確認してるのかよ……」
溜息をつく私の後ろに、アイリさんが近づいて来て小声で囁く。
「マリーちゃん、もういいんでしょ? 美少年ごっこはやめても」
「美少年じゃないけど、まだ駄目に決まってるじゃないですか」
波止場には結構な数の町の人が見送りに来てくれていた。その中には当然ヨーナスとエッベの姿もある。二人とも桟橋の先頭で、目に涙をいっぱい溜めてこちらを見ている。私は上辺だけでも、最後まで彼等のヒーローで居ないといけない。
ハイディーンにボリス、シーオッタ号で共に戦ったおじさん達、それからいくらか元気になった炭焼き小屋のペッテルさんの姿も……本物のストーク人の方のマリーちゃんは、まだ大事をとって家の外には出させてもらえないらしい。
ルードルフの姿は見えない。お別れは先程済ませたし、彼には囚人達に睨みを効かせる仕事もある。
狼犬のエレーヌちゃんもさすがに居ない……最後にもう一度会っておけば良かったかしら。まあ、向こうはあまり私に会いたくなさそうだが。
「船長。準備が終わったようじゃ」
「ありがとうロイ爺。じゃあ行こうか。太っちょとカイヴァーンは係留索を回収、ウラドは舵、不精ひげは抜錨が済んだら半帆を開いて……この北風で流してそのまま出港しよう」
「アイ船長。ば~つびょおー」
波止場の人々が手を振り始める。ヨーナスとエッベが叫び出す……
「船長!」「船長ー!!」
こういうのは照れくさいとは思いつつ、私も手を振って応える。最後まで彼等の理想のヒーローで居なきゃね。
サイクロプス号ともお別れだな。向こうも乗組員が手を振ってくれている。リゲルさんとロゼッタさんも……あの二人が夫婦!? いや、最後に驚いたなあ。
あの船の舷側に鉤縄を投げてくれたのはセレンギルだったなあ。私はそのロープを伝ってあの船に初めて乗り込んだのだ。あの時、何故かついて来ていたぶち君も一緒にロープを渡って来た。尻尾をピンと立てて、頑張ってバランスを取って。
ハマームの王宮でトリスタンを待ち伏せしていた時も、ぶち君が最初に異変に気付いたんだったな。それでジェラルドがすぐに対応出来て、連鎖的に事が上手く行きランベロウの捕縛まで繋がったのだ。
いつも泣いてばかりの私だけど、こんなに涙が止まらない事は無かった。父の大罪を聞かされた時以上だ。だってこれは私自身の罪の涙なのだ。
船はもう波止場を、桟橋を離れつつあった。もう艦尾から10mは離れている。
サフィーラでエステルを探しに行った時にもぶち君はついて来てくれた、ぶち君が見つけたのはエステルではなく、昼間船を訪れた港湾役人のボボネだったけれど、それがあの事件の核心を私に教えてくれた。いや、ぶち君はその後エステルも見つけ出してくれて、それであの時も全部上手く行ったのだ。
「……マリーちゃん!?」
私は全力で艦尾楼に駆け上がり、手摺りを蹴って、飛んだ。
だけど桟橋は既に遠い。海面が。真冬のフルベンゲンの海面が迫って来る……
―― ドボォォォン!!
スヴァーヌの海は緯度の割に暖かく、真冬でも凍結しないとは言うがそれも比較の問題だ、冷たいというより痛い、痺れる、そして私は泳ぎが苦手で……
いや、冷たくなんかない。こんな海の水なんかより、私の心の方がよっぽど冷たいじゃないか。
泳ぐのはマリキータ島以来だ。
マリキータ島の海岸で私が船牢に閉じ込められた時も、ぶち君が石鹸を船牢に落としてくれたんだ。あの時ぶち君が居なかったら、私は父の手助けをする事も、トゥーヴァーさん達を呼び戻す事も出来なかった。
私はどうにか桟橋に取りつき、それをよじ登る。
「船長!?」「船長!!」
桟橋の先端まで追い掛けて来てくれていたヨーナスが、エッベが、手を貸して私を桟橋へと引っ張り上げてくれる。この二人と出会った時も、ぶち君は最初、見知らぬ侵入者である二人と戦ってくれた。そして二人の性根を知った後は、二人に味方すべきだと私を諭してくれた。
外は氷が解けない程の寒さ、それは海水でずぶ濡れになった私に気が遠のく程の痛みとなって襲い掛かる……ここフルベンゲンではどうだ、ぶち君は戦士の石碑一歩手前で帰ろうとしていた私を、ルードルフを石碑に導き、巨大な火を吹く怪獣とも共に戦い、生き延びた。
「ごめん! そこを開けてくれ!」
そして……私がまた一人で勝手に飛び出した時もぶち君はついて来て、最初は背負い袋に入ったただの寒がり猫だと思っていたのに、意気地なしの私の為に小さな体で海賊に立ち向かい、そして怪我を、それで私は今一体何をしているんだ。
私はずぶ濡れの体で見送りに来てくれたフルベンゲンの人々の間を縫って走る。波止場を駆け抜け、町との間にある林を通り抜ける。
相手は猫だ。私が思ってる事は全部私が都合いいように解釈した出鱈目かもしれない。だけど一つ間違いない事がある。ぶち君は少しばかりの餌を提供するだけの私に、自分の意志でずっとついて来てくれたのだ。
町中を全力で駆け抜ける私。カーリンちゃんの家、どっちだっけ? マスクはびちゃびちゃだし服は凍りつきそうだし、だんだん何が何だか分からなくなって来た。どっちだっけ!?
「船長さん! こっちよ!」
え、誰、どこ……でもその声は私じゃない方のマリーちゃん! そうだ、その家だ! マリーちゃんが玄関まで出て来て私を呼んでくれている!
「あの、ごめん! 僕が頼んだ事だけど、やっぱりぶち君を、あの猫を……」
カーリンちゃんも驚いた顔で出迎えてくれた……私はその家の玄関先まで走って行き、膝をつく……
ぶち君は……やはり、ヒョコ、ヒョコと、後脚を痛そうに引きずりながら駆け寄って来てくれた。私はぶち君に手を伸ばす、だけど私の服は冷たい海水でずぶ濡れになっていて、ぶち君は私の抱っこが大嫌いで……だけど今日は。ぶち君は大人しく、ずぶ濡れの私に抱えられても暴れる事なく、私の肩にしがみついてくれた。
私は本当にどうかしていた。どんな理由があれどこの子を置いて行く事なんて考えられない。
「ごめん、ぶち君、頼むよ、もう一度僕について来てくれ、お前の気が済むまで、僕はもう二度と自分から手を離したりしないから」
膝をついたままぶち君を抱えてボロボロ泣いている私の肩を、誰かが叩く。
「船長さん、それじゃその子も寒いわ、この籠はその子の為に造ったのよ。これに入れて連れて行ってあげて」
私にはスヴァーヌ語は解らなかったが、カーリンちゃんの気持ちはとてもよく解った。なるほど、ヨーナスが好きなのはこの子なのか。優しくて可愛いいい子じゃないか……頑張れよヨーナス。
能天気な私は、多分私の体のあまりの冷たさに驚き、迷惑そうに目を細めているぶち君を籠の中に降ろしながら、早くもそんな事を考えていた。




