猫「無事であったか……ならば結構だ。拙者の事は気にするな」
ヨーナスとエッベが恐れていた罰とは、この地方に伝わる度胸試しの行事でした。
実は二人とも最初は本当に恐れてたんです。だけどフレデリクと冒険や戦いを共にするうちに気が変わり、罰そのものは是非ともやってみたいと思うようになっておりました。
では、船を降りる時期が近づく度に毎回萎れていたのは? 勿論、フレデリクと別れるのが辛かったからだったんですね。
たくさんの出会いと別れ。一つの冒険が、そろそろ終わろうとしています……
私はルードルフと一緒に波止場で湾内の様子を眺めていた。
海賊達はその殆どがフルベンゲン港沖に係留されたボロボロのカリマール号と二隻のコグ船に分かれて収容されている。真冬のフルベンゲンではあれで十分牢屋なのね。
「アナニエフ一家の配下や私掠船崩れの海賊はともかく、近隣から駆り出された下請け漁師のような連中も多くてな。いずれにせよ、幹部と一部の凶悪犯以外は早目に解放する事になるだろう」
「そいつらが漁に戻るまで、魚の群れが海に居てくれたらいいんだけど……それでルードルフ、君はどうするんだ?」
すっかりタメ口になってしまった生意気坊主は腕組みまでして、うんと年上の偉い人、ルードルフ・ルッドマンの横顔を見上げる。
「君の船で帰ろうとも思っていたが、どうやらフルベンゲンはこんな老人でも必要としてくれているようだ。もう暫くは判事の真似事をさせて貰う。君との冒険はここまでのようだ……今回はな」
ルードルフはそう言って目配せして、悪戯っぽく笑う。私はとうとうルードルフの肩に手を置いて笑う。この人と友達になれて良かった。
「あんまり命を投げ出すような無茶はするなよ、もう」
「わははは、あんな化け物相手にして拾った命だからな、お互い様だ」
◇◇◇
一度フォルコン号に戻ると、船に大量の極光鱒を積み込もうとするフルベンゲンの人々を、不精ひげが押し留めている。
「待ってくれ、これ以上積んでスヴァーヌ海を南下するのは危険だって」
「いいじゃないか、重かったら途中で捨てろ」
「勿体無いだろそんなの……」
船には既に箱もなければ袋も無い、ただ氷漬けにされただけの極光鱒が下層甲板にも露天甲板にもごろごろ積まれている……一応、上から古い帆布を被せてはあるが。
「鰊の樽はもう無いっていうか、まだ無いのかな」
私が近づいて行くと、地元の威勢のいい兄ちゃん風の男が答える。
「おうフレデリク、鰊も加工済みの分は積ませてもらったぞ。早く他の商船を呼んで来てくれよ、加工用のビネガーや樽そのものも足りないんだから」
「それにしたって生の極光鱒がこんなにあってもなあ。途中で暖かい日が続いたら全部だめになるかもしれないし」
「大丈夫だって、今時そんなに暖かくならないよ」
フルベンゲンの人々もいくらかは名残惜しそうな顔をしてくれているが、それより多くの人々が早く行って商船を呼んで来いという顔をしている。
「とにかくこれ以上積めないよ。ありがとう。さて……あと二つ三つ用事を済ませたら出航だ。カイヴァーン……ちょっと行こうか」
◇◇◇
私のせいで大怪我をしてしまった猫のぶち君は、炭焼き小屋のマリーちゃんとペッテルさんと一緒に、ヘルベンゲンの民家の一つで療養させてもらっていた。
「あっ、船長さんだわ!」「御機嫌よう、船長さん!」
マリーちゃんはもうとても元気になっていて、この家の娘さんとその友達と、暖炉の周りで遊んでいた。
だけどぶち君は、まだ後脚と額の傷が辛いのか……毛糸を敷いた籠の中でうたた寝をしていた。それでも私とカイヴァーンが来た事に気づくと、籠から這い出し、ヒョコヒョコと片脚を引きずりながらも近づいて来る。
「ああ、無理をするなよ」
一緒に来ていたカイヴァーンはすぐにぶち君に近づき、そっと抱え上げて、籠の中に戻してやる。この家の女の子が、スヴァーヌ語でカイヴァーンに何か言う。
「まだ傷が痛むみたい。でも鰊は食べられるみたいだから大丈夫って、ロビンクラフト先生がおっしゃってたわ」
ロビンクラフト先生? 私がそう思った瞬間、ロビンクラフト先生は二階から階段を降りて来た。
「もう生のイカを食べるのはやめなさい、当たり易い人は当たり易いんですよ……ああ、フレデリク船長もお越しでしたか」
「ロビンクラフト……もしかして貴方が今ペッテルさんを診療してたんですか? 貴方医者も出来るんですか」
「専門外ですよ、一般常識の範囲で真似事をしてるだけです……ああ、その猫、もしかして貴方のですか?」
ファウストは素っ気ない振りをしてそう言った。だけど私にはその真意は通じていた。ファウストはこの猫をよく知っている。
「……どうなんですか、この子は」
「カーリンさんがおっしゃる通りです。傷は深くまだ治癒には程遠いですが、食欲は失っておらず、時間があればきっと良くなるでしょう……それで? どうなさるんですか?」
ファウストから逆に聞かれ……私は返事に詰まる。
「フルベンゲンの暖かい暖炉の前で毎日鰊でも食べていればそのうち良くなりますよ。だけど船に乗せて連れ出してしまってはどうなるか……この家のお嬢さんは貴方の猫が気に入ったようですよ。決して悪いようにはしないと思います」
ファウストは私とカイヴァーンにだけ解るよう、それをニスル語で言った。私はカイヴァーンと顔を見合わせる。
カーリンというのはこの家の女の子かな。エッベも名前を出していたような……12歳くらいの可愛らしい子だ。
「お別れなのかなあ」
カイヴァーンが私の顔を見て呟く。私はカイヴァーンに負けず劣らず萎れていた。
ぶち君がこんな怪我をしたのは完全に私のせいなのだ。私が最初から覚悟を決めて戦っていれば、ぶち君が怪我をする事は無かった。
そんなぶち君を今また自分がついて来て欲しいからと言って、怪我も治っていないのに船に乗せていいのか?
私はぶち君に近づき、耳から頬まで、傷の無いところをぐりぐりと撫で回す。
プライドが高く、普段は馴れ馴れしく触ると嫌がるぶち君は、今日は黙ってされるがままに私の手に撫でられて目を細めてまでみせる……
良くないんだろうな。体が。
「この子、御願いしてもいいのかな」
「勿論よ、大切にするわ!」
私はストーク語でそう言った。カーリンちゃんは笑顔で頷いてスヴァーヌ語で何か言ってくれた。
この家には他にももう一匹猫が居た。毛の色はぶち君に似ていたが毛の長さは全然違う、頬から尻尾まで、もっふもふのフッワフワだ。ぶち君が居る事にも寛容らしい。その猫が玄関へと向かう私の足元にフワリと触れる愛想をくれる。
マリーちゃんも、玄関へ向かう私に近づいて来た。
「……お兄さん……もう行ってしまうの?」
「うん……あまり会いに来れなくてごめん。もっと落ち着いて、お茶でも飲みながら話が出来たらいいんだけど」
「きっとよ。約束。いつかあのお話しの続きを聞かせて」
マリーちゃんはそう言って手を差し伸べてくれた。私はその手を取って握手する……今回は色々な事が起きたけど、この子を助けられた事だけは誇りに思う。
私は外へ出る前にもう一度、暖炉の近くの籠に収まったぶち猫の方を見る。あっちはもう、私に背中を向けて丸くなって眠っていた。
◇◇◇
「何でついて来るんですか」
「行き先が一緒なだけだよ」
私はそのままファウストについてサイクロプス号の方へ行く。リゲルさんやロゼッタさんにも挨拶して欲しいと言ったのはファウストだし、もう一人二人、用事のある人がホワイトアロー号の近くに居るのが見えたのだ。
「やあ。マイルズも来てたのか」
ホワイトアロー号が係留している近くの波止場にはグレイウルフ号の艦長殿も来ていた。いつもの副長さんも一緒である。
「グランクヴィスト! てめェもファ「ファーリングはもう食べたかい!? ハーリングだ、半生の鰊を丸ごとぶら下げて食う奴だ、美味いぞ! コホン、ああ、ロビンクラフトは!? ロビンクラフトももう食べたかい?」
私はまた大声を出してグレイウルフ号艦長マイルズ・マカーティがファウストの名を出そうとするのを妨害する。
「もういいでしょう、いつまで言ってるんですか貴方は……」
「ホワイトアロー号のロビンクラフトさん!! 僕は多分まだマイルズとする話があるから、先に戻ってくれててもいいよ!」
「待て、俺はそっちにも用があるんだ、あー「ファ」
私はまたマカーティがファウストと言いそうになったので口を開きかけたが、マカーティはそこでフェイントを掛けて来た。
「ファ」
今度はマカーティが口を開くふりだけして来た。私はまた声を出してしまう。私と違って暇ではないらしいマカーティは、そこでこの勝負から降りた。
「ロビンクラフトにグランクヴィスト、お前らがこの海戦はレイヴン国王のツケにするってェのはどういう風の吹き回しだ? てめェら何を考えている? 何故……お前らが拿捕した船を受け取らないんだ?」
マカーティは私とロビンクラフトを交互に睨む。
「今さらキャラック船なんか増えても困りますよ。要りません」
「うちも乗組員が少ないし、貰っても回航出来ないよ」
港には大破したカリマール号の他にほぼ無傷のキャラックが一隻と中破程度のキャラックが一隻ずつあり、そちらは今すぐ航行可能である。何ならどちらもグレイウルフ号よりはずっとマシだ。
「あの熊男、レイヴン国王への支払いを魚で出しやがった。俺達はもう暫くここで海賊共にお仕置きをくれてやってから、主犯格と極光鱒と鰊を積んだキャラックを引きずって、国に帰る」
こいつら、まだ働くつもりか。私はそれに呆れもしたけれど。本当に見上げた奴等ですよ……ほんと、アイビスも内輪揉めなんかしてちゃいけないよ。
ん? ハロルド副長がマカーティの脇腹を肘で小突いている。
「あ、ああ……お前らその……ちゃんと言ってなかったな。今回の事では本当に世話になった。レイヴン海軍を……いや、グレイウルフ号を代表してかッ……ンしゃッ……する……………………」
私は堪えきれず吹き出してしまった。あのマカーティが顔を真っ赤にして斜め下を向いて子犬のようにぷるぷる震えながらモソモソと呟いたのだ。
「あっはっはっはっはっは!」
「こッ……この野郎何が可笑しい!! ハロルド! だから俺は嫌だって言ったろうが!」
「お言葉ですが艦長! 一言くらい礼を言いたいから俺が渋ってたら催促しろと命じたのは貴方です!」
激怒してみせるマカーティに大真面目に敬礼までして答えるハロルドを見て、ファウストも苦笑いを見せる。
「大丈夫ですよマカーティ艦長。私もフレデリクさんも理解してると思います」
「あは、あはあは、あっはっは」
「ファウスト! まずそいつを黙らせろ!」
私はどうにか腹を抑え呼吸を整えながらマカーティに迫る。
「ファウストじゃない! この男はファウストじゃないしあの船はサイクロプスじゃない、」
言っているうちに笑いは収まった、私も冗談で言っているのではないのだ、私はこのバカ正直の狼ちゃんが、この件で何かしでかすような気がしてならないのである。
「僕の事は何処にでも何とでも言え、だけど! ここにはファウストもサイクロプスも居なかった、その事だけは忘れるな!!」
私は自分より15cmは背の高い男に詰め寄り、そう捲し立てた。
「そんなに顔近づけんじゃねェよ、ッたく……変な所に拘りやがって。ああそうか、海賊としての名声を一人占めしたいんだな?」
「何とでも言えッ! じゃあなマイルズ! 用は済んだろう!? 今度は巨大ダコに気をつけろよ!」
「ああ済んだともクソが! てめェもせいぜい気をつけろ!」
マカーティは捨て台詞らしからぬ捨て台詞を吐き、踵を返して向こうへ去って行く……ハロルド副長はこちらに苦笑いと会釈をして、それについて行く。
私はホワイトアロー号の方へ行こうとしたが。
「待てグランクヴィスト。お前、何か顔色が悪くないか?」
マカーティが立ち止まりそんな事を言う。私は何か答えようかとも思ったが、結局黙ってマカーティに背を向け、ホワイトアロー号へ向かった。




