マリー「ごめんなさい教えられないわ、だってあの人は秘密のヒーローなのよ、海のように青いジュストコールを着てすらりと背が高くてアイマスクを取ると大変な美男子なの! それからね、それから、」
長々と申し訳ありません、非常に長くなってしまった海戦シーン、今回で終了です……
「ひいっ……ひひっ……ひいいいっ! ぎゃぎゃ……ぎゃああああ!」
私は奇声を上げ涙と涎を振り撒きながらロープの上を走り回っていた。サイクロプス号の鬼ごっことは訳が違う、今日は本気の銃弾が飛んで来るのだ!
「さっさと切り倒せ気合い入れて挽けやァァア!」
そしてアナニエフはメンマストの根元を鋸で挽かせている! いくらなんでもそこまでするか!? そんなに私の首をもぎ取りたいのか……
もうダメだ、フレデリクは無理だ。もうしません、もし生きて帰れたらこの服はすぐ捨てます、許して下さい……ダメだ、きっとダメだ、地獄のお父さん、マリーももうすぐそちらに参ります。
「上等だ、やってみろアナニエフ!」
私は一度マスケット銃を背負いなおし、メンマストから船尾側に続く支索を手鋸で挽きだす。しかし大船の支索はさすがに太く頑丈で、へなちょこな私の腕ではなかなか切れない。
―― ドン! ドォン!
ぎゃあああ今コートに掠った!! 甲板からの距離はたぶん40m、狙って当たらない距離ではないが、絶対に当たる距離でもない。
他にも何丁かの銃がこっちを向きつつある、私は一旦その場を飛び退く……帆の数が減っているので隠れ場所が少なくなって来た。昔、鹿と葡萄と猟師が出て来る、似たような童話を読んだ事がある。
支索はもう少しで切れるだろうか……
「親分! だいたい切れました!」
「左舷側にぶっ倒せ、シーオッタ号にぶち当てちまえ! ……いややや待て待て、あれも俺の船だ、やっぱり右舷側にぶっ倒せ!!」
「あ、あの、静索がまだあるから舷側には倒れねえかと……」
「だったら早く静索も切れクソ共がァァア!!」
ひいいっ!? おしまいだ、もうこのマストは倒される!?
「じゃあ僕も手伝ってやるよ!!」
私は鋸を捨て、マスケット銃を握り直して構え、目の前の支索の切断しかかっている部分に向け引き金を引く。
―― ドォン! ドンドォン!
船尾側の支索が弾けて切れた! 私は銃床をマストに押し付けさらに引き金を引く。
―― ドォンドォンドォン!
また銃身の熱がまずい事になっている、この銃も撃てなくなったらどうしよう……だけどそんな心配はどうやら不要だった。
キャラック船のメンマストはゆっくりと傾き、船首の方へ倒れて行く……さよなら人生……嫌た゛ぁ゛ぁ゛あ゛た゛し゛やっぱりまだ死゛にたく゛ない゛!!
「ひっ……マストが……こっちに倒れて来るぞォォ!!」
「ひィィ!? どけお前ら!」「どけってどこへ!?」
「馬鹿野郎ォォォオ!! 舷側へ倒せッつッたろうがァァア!!」
甲板では悲鳴と怒号が飛び交う、メンマストは加速しながらキャラック船の船首へ、バウスプリットへ、海面へと倒れて行く……これは私にとって、自分が天辺付近にしがみついている高さ40mの柱が倒れて行くという事を意味する。
「」
私は声にならない悲鳴を上げ、何かのロープに、何かの棒に飛び移る、だけどどれもこれもマストと一緒に倒れていくやつじゃん、甲板、海面、海賊、どれもダメ嫌た゛ぁぁあ゛私゛死゛にたぐない゛!!
災難は手を繋いでやって来る。
―― ドォォン! ドォンドォォォォン!!
立て続けに甲板で爆発音が!?
私は帆布に向かって飛ぶ!!
―― バフッ……!
視界が洗いざらしのごわごわした布に覆われ……
―― ガラガララガシャァァァァン!!
「ぎゃあああああああ!!」「ぐわああ!?」「ほげぇぇぇぇぇぇえ!」
続いて破砕音と悲鳴と怒号に包まれた甲板らしき所へ私は帆布ごと肩から落ちる、しかし周りは凄まじい黒煙に覆われて居て何も見えない……ぐぎゃっ!? 太腿を蹴られた!! いや走って来た誰かが私につまずいて転倒した!!
「ぐおおっ!?」
知らないおじさんの声、見えない、何も見えない、周り中で足音が、破砕音が、怒号が、悲鳴が湧きあがる、ぎゃあああ! 上から網が降って来た!? 私捕まったの!? 違う、これは静索の網だ、とにかく早く立ち上がらなきゃ……
ん? この煙は確か……
「この煙は毒だぞ息をするなー!! 今のは嘘だ安心しろー!!」
私は前半をストーク語で、後半をアイビス語で叫ぶ。この黒いけど少し青い煙は見覚えがある、ファウストが使う強力な煙幕だ。来てくれたんだ! ニコニコめがね爆弾おじさんが助けに来てくれたんだ!
「フレデリクさん!! 返事をしなさい!!」
ああっ、やっぱりそうだ、あの声は爆弾おじさんだ!
良かった。これできっと助かるよ、あのおじさんは強いし部下もたくさん連れている……いや、フォルコン号に乗っているのはせいぜい50人、数ではまだ海賊の方がずっと優勢だ。
「ファウスト! 頭目がメンマスト付近に居る、気をつけろ!」
私はそう叫んで立ち上がり、辺りを見回す。周りは海賊だらけだ、だけど殆どの者が甲板に蹲ったり舷側に駆け寄ったりして必死に煙から逃れている。
倒壊したメンマストは船首楼の天井を粉砕している。私が飛びついたのはフォアマストの横帆だったらしい。
フォルコン号の姿は見えないが、右舷後方から接舷した感じだろうか、爆弾おじさんの声も結構遠くから聞こえた気がする。
「毒なんか嘘だバカ野郎!! どこだあクソチビ!! てめえらさっさとあの野郎を見つけ出せ!」
メンマストの根元の方からアナニエフの叫び声がする……あの男をシーオッタ号で首尾よく捕え、操り人形になってもらった後の事、漕ぎ手甲板からは安全の為にアナニエフを今すぐ処刑すべきだという声が上がった。
だけど私はそうしなかった。
「アナニエフ! マリーはここだ!!」
私は叫び、黒煙の切れ間めがけ突進していた。周りにはまだ大勢の海賊達が居るが、今なら私は止められない。
「はァァア!? ふざけんな、マリーがここに居る訳が……」
見えた。煙の向こうに立ちはだかる、刺青だらけで髭に導火線を編み込んだ怒りっぽい身長2mのギョロ目の大男、あれはアナニエフだ。
私とアナニエフの間には大型ボートを係留しておく為の台座や絞盤、そしてそこらじゅうに蹲る海賊達が居る……私は台座、絞盤、それに蹲る海賊の背中を踏んで、アナニエフ目掛け突進する。
私が止めを刺さなかったせいで、この危険な男は再び立ち上がってしまったのだ。
やらなきゃ。今度こそきちんと責任を持って仕留めなきゃ。
黒煙が晴れて行く……私とアナニエフの間の空間だけ……
「居たなクソガキャァァア!!」
アナニエフは歯を剥いて笑う……いつの間にか奴は両手に短銃を持っていて、その一丁をこちらに向ける……!
周りは瓦礫だらけだが隠れ場所になりそうな所は無い……私は甲板に身を投げ出しながら銃を構える。
―― ドン!
アナニエフの短銃の一丁が火を吹く! だけどこの距離ではまだ当たるまい。
―― ドォン!
私は引き金を引いた。人の心臓に当てるつもりで引いた。
だけど、弾はアナニエフにかすりもしなかった。
アナニエフのもう一丁の短銃がこちらを向く……私の体が甲板に跳ねる……
次の瞬間。
輝く銀色の、無数の矢が……私とアナニエフの間の空間を横切った。
「あぁァァ?」
「なん……だ……」
私はただぼんやりとそれを見てしまった。
アナニエフは……悪党は悪党なのだがかつては漁師でもあったアナニエフは、それを見過ごす事が出来なかったのかもしれない。それをギロリと見つめる為、一瞬私から目を離した……
「ヒエッ……さ……魚が!?」
煙から逃れようと舷側の手摺りから身を乗り出していた海賊の一人が叫ぶ。
アナニエフは再びこちらに向き直り銃を向ける! 私も跳ね起きて銃を……
「うわああーっ!?」
水夫の悲鳴……
―― ドン!
短銃の発砲音……
―― カン!
軽い打撃音……
そして私は銀色の矢にうちのめされていた!
「何これええええ!」
完全に素のマリーの声が出た。銀色の矢じゃない、魚だ、魚の群れが空を飛んで私に、アナニエフに、甲板に降りかかって来た!? そんな訳あるか!!
キャラック船は衝角攻撃を受けてかなり左傾してた上、船体中央部のこの辺りはもともと喫水線が近く、海面はわりとすぐそこにあるのだが、そこから……夥しい量の新鮮な魚が甲板めがけて飛んで来る!!
魚の群れに巻かれながら、アナニエフが撃った銃弾は私には当たらず、私が振り回したマスケット銃の台尻はアナニエフの兜に命中していた。そこはすっかりこの大男の弱点になっているらしい……アナニエフはまたしても白目を剥いて倒れる。
それでこの魚は一体何ですか!? もしかして魚の押し売り!? これは……
「ああ、あ……あ……鰊だ、鰊の大群だ……」
海賊達までもが呆然として、甲板で跳ね回る銀鱗輝く魚を見つめる。
何故魚が自分から甲板に……? 私は辺りを見回す。よく見ればそこらじゅうの水面に、妙なさざ波が立っている。そしてアナニエフの命令でシーオッタ号を追い回していたボートの上で、数人の男が狂喜乱舞している。
―― ざばぁ
その次の瞬間……私は波間で跳ねた、奴を見た。
「死にたくなければ伏せろぉぉお!!」
私がどうにかフレデリク声でそう叫んで伏せるのと、奴等が現れたのが、ほぼ同時だった。
―― ざばぁー!!(笑)
―― ざばぁぁぁ!(笑)
―― ざばざばざばぁぁ! ざばざばぁぁ!(笑)
―― ざばざばざばばぁぁ(笑)ざばざばぁぁ(笑)
「お化け極光鱒だぁぁ!?」
極光鱒が! あの巨大極光鱒があの時以上の大群を成して、このキャラック船の甲板目掛け飛来した!
奴等は鰊の大群を追っているのだ。そしてもしかしたらこの、衝突した二隻の船の周りに鰊を追い込んで一網打尽にして食べようとしていたのかもしれない。
実際、甲板の上をすっ飛んで行く極光鱒の多くが、口の中に溢れんばかりの鰊をくわえ込んでいるように見える。
―― ダァン!
―― バァァン!
極光鱒の跳躍力は凄まじく、全幅15mはあるこのキャラック船を易々と飛び越えて行く奴もいる。中には甲板に落ちる奴も居るが、そういう奴も甲板を激しく叩いて飛び上がり、悠々と飛び越えて行く。
海賊達も皆伏せていた。軍馬のような勢いで飛来する2m越えの巨体、こんなものにまともに当たったら死ぬ。
そして極光鱒のように船を飛び越えたり甲板でジャンプして逃げたり出来ない鰊達は、甲板に打ち上げられ降り積もって行く……
「お前ら周りを見ろ!!」
とにかく頭に来ていた私は跳ね起きて、意味もなく銃を空に向け引き金を引きまくる。
―― ドン! ドンドォン!
「彼方までさざ波立っているのが解るかお前ら! 鰊が来たんだ! なのにお前らは何をしてるんだ、アナニエフが怖いのか!? こいつなら今僕が」
―― ざばぁぁぁ(笑)
そこまで叫んだ私は、飛来する極光鱒が浴びせて来た海水でずぶ濡れになる。過熱していたマスケット銃の銃身がジュージューと音を立てる。
私の台詞は途切れてしまったが、海賊共は動かなかった。私は仕切り直して再び叫ぶ。
「武器を捨てろ! もう誰も得しない戦いを今すぐやめろ、この戦場に勝者など居ない、鰊を獲って家に帰った奴が本当の勝者だ!!」
私の近くに居た海賊の一人が……鞘から短剣を抜き、私めがけて投げつけて来た。
えっ……ヒエッ!? 周りの海賊も!? 抜き身のカトラス、片刃の斧、マスケット銃、色々な武器を投げつけて来る!
私の周りにどんどん海賊が集まって来て私に武器を投げつける! 何? 何!? ああ……これはもしかして、本当に武器を捨てているのか。
そこへようやく……カイヴァーンとルードルフがやって来る……良かった。二人とも大きな怪我は無さそうだ。
「フレデリク。彼等の恭順を受け入れてやらねば」
ルードルフが真顔でそう言う。カイヴァーンは剣と盾をそのへんに置いてしまった。そして腕組みをして頷いている。
恭順を受け入れろと言われても……何をどう言えばいいのかピンと来ない。そう思っているうちに、ファウストも近くまでやって来た……呆れ顔で。
「早くしてあげて下さい、グレイウルフとホワイトアローがまだ向こうで別のキャラック船と戦ってるんです、こっちが済んだと解れば向こうも終わるでしょう」
「柄じゃないよ、僕の代わりに何か言ってくれないか、ロビンクラフト」
「お断りします。貴方の手柄を横取りする程私は落ちぶれていません」
ファウストは私を見下ろして冷淡にそう告げた。
「……頼むよ、ルードルフ」
「吾輩もお断り申す。こう見えてもかつては一市国の元帥だったのだぞ」
「それならお手のものじゃないか、頼むよ、僕はこういうのは」
「ならば慣れておくのだな若造。さあ、勝ち名乗りを挙げよ」
ルードルフも首を縦に振らない。私が尚も食い下がろうとすると、
「ハーミットクラブ号の時は何とおっしゃったんですか?」
ファウストが平然とそう言ってのける……何で!? 目の前でカイヴァーンが聞いてるじゃん、それは言わない約束って!
ああだけど……私はハマームの事は秘密にとは言ったけど、ハーミットクラブ号を接収したのはイリアンソスでの事だった。
私が密かに狼狽していると、海賊達の間からロイ爺と同じくらいの年の、小柄で穏やかそうな水夫が一人、申し訳なさそうに進み出て来る。
「あの……大船長殿、この船、カリマール号の船長は負傷して今は下におりますのじゃ、頭目もこの通りで……責任者が居らんのです」
困っているのは私だけじゃないのだ。
私はともかく、先程までの喧噪が嘘のように静まり返った甲板を見渡す。ファウストの煙幕弾の煙もようやく晴れて来た。
私は数秒だけ頭の中で言うべき事を整理してから、声を張る。
「レイヴン国王とレイヴン海軍の名に於いて、代理人フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストがカリマール号の接収を宣言する! まずは各員神と人間の善意……船乗り仁義に基づき、負傷者の救護と危険物の撤去作業をするように!」