第四話「屋内用簡易農園」
棍棒を手に入れた!(*´∀`*)
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さて、チュートリアルが終わっても相変わらず全裸である。
武器だけは手に入れたものの、よりにもよって棍棒、しかもゴブリン印の蛮族仕様だ。ご丁寧に『蛮族棒』と名が付いてるあたり、これを使っているヤツは蛮族であると言われているようなものである。全裸から装備が増えているのに、何故か蛮族化は留まる事を知らない。
実際、カップラーメンをそのまま丸かじりしてる姿など、蛮族と言われても反論しかねる映像だろう。それは二号が好む動画実況というよりも、ドキュメンタリー的な……『実録! この現代日本に蛮族はいた!』とか、そういうタイトルで放送されてしまいそうな状況である。もし放送されたら、尺のほとんどはモザイクがかかってるな。出来たら顔にもモザイクを入れて欲しいところだ。とてもお茶の間にお見せ出来ない。
そんな野生に満ちた腹ごしらえの後、再びダンジョン探索に臨む俺ではあったが、この蛮族的食事が再挑戦のモチベーションに繋がっている事は否めない。
唐突だが、即席ラーメンの歴史を紐解いてみると、その歴史は意外と長い。確か最初の商品が世に出たのは1950年代後半、すでに半世紀以上もの間親しまれている商品カテゴリだ。ただ、意外と長いと言っても、人類史という大きな括りの中ではつい最近と言って良く、料理の歴史に置き換えてみてもそれは変わらない。つまり、即席ラーメンとは文明の象徴であり、お湯を入れて数分待って食べられるという壮絶な時間コストの削減は文明の結晶が生み出した奇跡といってもいい。
そんな文明の産物を、あろう事かカップから麺をそのまま取り出して齧り出す現代人がいるらしい。そんな事実を噛み締めながら、嗚咽するように齧りつく体験は俺を強くした。美味いとか不味いとか以前に、人としてこれはマズいという危機感が生まれてしまったのだ。味とか、もう分からない。
妥協してはいけない。このままの生活に妥協して、最低限の営みしか送れなければ、きっと俺は慣れてしまう。慣れてしまえば、もはや現代人として社会復帰は困難であると言わざるを得ない。そんな野人は加賀智弥太郎ではないのである。
食事は調理もせず手掴みで丸齧り、手酌で水を飲み、全裸で過ごす。誰とも話さず、一日一回のガチャに一喜一憂して、食べられるものが出る事だけを期待する。そんな未来はごめんだった。
それならば、一時的に蛮族化が進行しようとも、モンスターを撲殺する事も厭わない。
創作物で良く主人公が対面する、殺す覚悟とやらは出来てはいないが、すでにゴブリンもどきは素手で撲殺してきたのだ。タガを外すにもあと少しといったところだろう。このタガを勢いで意識的に外していきたい。
もちろん、相手がモンスターとはいえ、殺しに慣れてしまったヤツが現代社会に復帰出来るかといえば難しそうだが、少なくとも文明人として必要なすべてを捨て去るよりはいい。少なくとも、前には進んでいるのだから。
それは、言うなれば猟師の在り方に近い。猟銃を手に獣を狩る彼らと比べるにはあまりに非文明的過ぎるが、生きる糧を得るために戦うという意味では同じはずだ。……同じと信じたい。
大体にして、現状で懸念すべきは食事だけではない。固形物を腹に入れて、水を飲んでようやく気がついたのだが、入れるものを入れたら出てくるのが人間なのである。
いや、小のほうはいいんだ。男である以上、ダンジョンのどこかで立ちションすれば問題はない。モンスターの襲撃を考慮するならば、最悪拠点を出た後の階段でという手もある。入り口近くの階段をモンスターが昇ってくるような仕様ではないと思うし、もうそうだとしても昇ってくるモンスターに小便掛けてやるくらいの度胸は必要だろう。全裸で立ちションという絵ヅラも、変態チックではあるしむせび泣きたくなるはあるものの決して耐えられないほどではない。現代の倫理感としては微妙に問題はあるものの、立ちションが出来ないから国民栄誉賞を辞退する人だっているのだから。
……問題は大のほうだ。
全裸野糞など、悲惨過ぎて嗚咽して泣きたくなるような絵ヅラである事もそうだが、それ以上にその後の処理に困る。まず、拭く紙がない。出したモノはこの際放置するにしても、人体側の出口のほうはそうもいかない。付着した排泄物のカスを放置するなど、文明人にあってはならない事態だ。
状況から考えて、ウォシュレットなどという超文明の利器は当面諦めるしかないだろう。もしガチャで当たっても電気がない環境では持て余すだけだ。単品で使う事が出来るトイレットペーパーが理想ではあるが、この際ポケットティッシュでもなんとか出来る。百歩譲って、ちゃんと機能するのならば乾燥した砂などでもいい。排出口へのダメージが気にかかるところではあるが、背に腹は代えられない。
水はあるわけだから、手で洗い出すという手段もとれない事はないが……極力避けたいところだ。想像しただけで泣きたくなる。
体調の問題で実は便秘になっていたという事も期待出来ない。何故ならば、今の俺は結構体調が良いからだ。
もちろん体感的に判断したという話ではなく、どちらかといえば仕様的な問題である。チュートリアルでゴブリンもどきとの死闘を演じて、緊張で全身がガチガチになるほどの疲労と拳や爪へのダメージを受けた俺だが、一度拠点に戻った事ですでに回復してしまっているのだ。物理的な傷でさえあっと言う間に回復するような環境にあって、胃腸だけは不調というのは考え難いだろう。間違いなく快便が待っている。
だから、現在最も優先すべきは紙だ。人としての尊厳を失わないためにも、ケツを拭ける柔らかい紙が必要なのだ。出来ればもう少し上を目指したいところだが、最低限のラインはそこだ。志が低すぎて泣けてくる。
と、自分に対する言い訳は長くなったが、要するに俺は少しやる気になっていた。やる気と書いて殺る気と読んでも構わないほどだ。このまま勢いに任せて、余計な事を考え始める前にモンスターを撲殺していきたいところである。
普通なら、慣れない武器……たとえば剣や槍、ましてや弓などを得たところで使い熟せる気はしないが、幸いにして手に入れたのは鈍器だ。扱いに失敗して自分の手を斬る心配もいらず、ただ振り回すだけでもその質量が威力に変わるという素人に優しい武器である。
かつて会社の先輩に連れられてゴルフに行った際、何故か車のトランクに積まれていた木製バットを見て聞いてみた事がある。
『何故バットが? 野球やる人でしたっけ?』
『昔やんちゃしてた頃の名残だな。トランクに積んでても問題ないし、ゴルフクラブだと歪むし』
何を言っているのか分からないが、分かりたくないというのが本音だった。
しかし、今ならその考えも一割くらいなら理解出来なくもない。武器として扱うのに、無骨な鈍器は優秀なのである。
先輩が、妙に年季の入ったそれを使った事があるかどうかについては謎のままだったが、別にそこは気にすべきところではない。先輩がどんなバイオレンスな日常を送っていたとしても、直接仕事に関係ないのであれば気にすべきところではない。むしろ、気にしたくない。
さて、そういう素人にも扱える武器であるところの< ゴブリンの蛮族棒 >であるが、当然ぶっつけ本番で使うつもりはなかった。練習は必要である。
といっても、イクイップカードである以上は拠点内で素振りというわけにもいかない。早速だが、イクイップゾーンが機能しているのかどうかの検証を含め、カードをセットしたまま外の通路へ出てみる事にした。
そして、拠点を出たところで自然な感じで手に出現した。突然出現した質量に反応して落としてしまうという事もなく、最初から握っていたように自然な状況で。この検証に関してはあっさりと終了だ。
出現した蛮族棒は、十分武器として扱えると思えるくらいには手に馴染んでいる気がした。ひょっとしたら、最低限度の武器を扱う技術についても付加されているんじゃないかというくらいに。握り手の部分も誂えたようにピッタリで、重量もちょうどいい。
検証材料の足りない今では推測するしかないが、おそらくサイズについても調整されているんじゃないだろうかと思う。だって、装備と一口に言ってもそのサイズは様々だ。人間用だけでもサイズ差に苦心する事があるだろうに、モンスター用まで存在しているとあってはその調整も難しい。それをイクイップゾーンにカードをセットするだけという形で実装している以上、何らかの補助は必要なはずだ。武器だけではなく、たとえば全身甲冑などが手に入ったとしてもサイズの問題で装備できないという事態は避けられそうである。
逆に言えば、マテリアライズしてしまった装備に関してはこういった調整が利かないという事になる。チュートリアルで二号様が手渡そうとしたナイフのように無理をすれば使えない事もないだろうし、自力で調整するという手もなくはないのだろうが、基本的に装備として使用するものはイクイップカードに限定されると考えていいだろう。
ちなみに、この< ゴブリンの蛮族棒 >のセットに必要な最大MPコストは1。一応セットしてある《 マテリアライズ 》と合わせて21。俺の最大MPは79である。ほとんど使い道のない状況で躊躇するようなコストでもなかった。
そして、もう一つの実験……強度と実際にモノを叩いてみた時の感触を確かめるため、通路の壁に向かって< ゴブリンの蛮族棒 >を振り下ろしてみたのだが……。
「なんだこりゃ」
手に伝わってきたのは微妙に鈍い反動だった。明らかに、鈍器で壁を叩く感触ではない。
困惑しつつも、再度壁へ< ゴブリンの蛮族棒 >を叩き付ける。今度はちゃんと観察出来るよう、加減して。
伝わってくる反動はやはり鈍い。俺の触覚云々ではなく、明確に鈍い。事前に知らなければ戦闘中でも一瞬手が止まる程度には違和感がある。そして、その感覚を裏付けるかのように不思議な現象が発生していた。棒を壁に叩き付ける瞬間、俺の手が発光していたのだ。
まさかMPかを使って何か魔法的な力でも発動しているのかとステータスを開いてみれば、MPは変わっていない。変化があったのはHPのほうである。
「……ダメージ喰らったって事か? 反動で?」
現実的に考えるならいまいち良く分からないHPだが、ますます良く分からなくなってきた。
しかも、減っているのは1だ。これが2というのなら、攻撃の回数分減少しているという事で理解出来なくもない。いや、攻撃する度にダメージ喰らうのもかなりアレな仕様なんだが、ルール的な整合性としては理解出来る。
ひょっとして自動回復したのかと、しばらくその場で待ってみるが、その考えは間違いだと分かった。自然回復自体はしたのだが、それは一分ほど経過した後の事だったのだ。二度振り下ろす間に回復したとは思えない。
ならば一体何が原因なのかと頭を捻りつつ実験を続けてみると、ある程度の考察が出来る程度には情報が集まった。
攻撃時の反動でダメージを受けているというのはおそらく正解で、何度か壁を叩いている内にHPが減るのを確認出来た。
しかし、攻撃の度に減るのではなく、力を込めて叩きつけた時……つまり、反動の大きい時にダメージが発生している。何も考えず全力で鈍器を叩けば手が痺れたりしてもおかしくはないが、HPはそういった人体に影響のある反動を吸収してくれているのだと思う。手が光っているのも、おそらくはその反応なのだ。
この仕様をどう捉えるかについては微妙なところだ。手が痺れたり、骨にダメージが残るのは困るが、もしもHPがなくなった時点で死ぬというのなら困った事になる。
HPがなくなったところで死ぬ気はしないが、この場でその検証をするのは中々にヘヴィだ。自然回復もする中、壁に向かって全力で攻撃し続ける事でHPを減らすのは大変極まるし、HPが減った状態でチケット収集に向かうのも危険だろう。
体感的には、このHPというやつはおそらく壁か膜か、あるいはバリアと呼ぶべきか、とにかくそういう類のものなのだろう。攻撃による反動を含め、ダメージとして扱うものはすべてこれが吸収してくれるのだとすれば、明らかなアドバンテージとなる。少なくとも完全に生身で攻撃を受けるよりははるかにマシなはずだ。
そして、これもおそらくだが、身体能力についても向上していると思われる。向上した時期は……HPと同じく、チュートリアルの前後だろう。
少なくとも事故に遭うまでの俺では、こんな重い棍棒を何度も全力で振る事など出来なかったと断言出来る。反動が吸収されていようがいまいが、そんな腕力は持ち合わせていなかった。表示されるステータスは相変わらずフラットなままだが、これにも何かしらの規則性があって強化されているのだ。あるいは、これが強化値であるというならフラットな値なのも理解出来なくはない。それなら、自分がどれだけ強くなったかは判断出来るだろう。
今はそんな余裕はないものの、どこかで検証作業は必要だ。神様に問い合わせたところで、フォローまで含めた完全な回答を貰える気もしないし、質問内容を洗い出すにも作業は必要なはずだ。
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疑問が増える一方ではあるが、検証や練習ばかりしていても状況は変わらない。ある程度気持ちに区切りがついたところで、いよいよダンジョン探索である。
拠点から伸びた通路を抜けて階段を降りれば、あとは死ぬか帰還手段が見つからない限りは一方通行だ。我ながら、なんでこんな状況に置かれているのか理解し難いのは今も変わらないのだが、チュートリアルでの体験と微妙に強化されているという事実、そして屈辱的な未来の想像図が俺の足を進めさせた。
今回の目標はケツを拭く紙を手に入れる事だが、直接そんなものが手に入るわけではない。だから、それが排出されるかもしれないガチャを回すためのチケットを手に入れる事が目標になる。出来れば複数。
その他にはダンジョンの様子見と戦闘経験。何のモンスターが出るかは知らないが、そいつらを撲殺出来るよう、戦闘自体に慣れたい。あとは拠点への帰還手段の確保だな。探索してモンスターを殺すという、RPG的に考えるなら非常にシンプルな内容になるわけだ。
そうして足を踏み入れた先は、チュートリアルと変わらない石造りの迷宮だった。
違うのは、早速道が分かれているという事。当たり前だが、ちゃんと迷宮になっているらしい。メモをする手段はないが、せめて脳内だけでも記憶しておくように心掛けながら右の道へと向かった。
後ろを警戒しつつ、曲がり角が来る度に覗きこんで先を確認、慎重に、慎重に歩を進める。牛歩の如き速度だが、急ぐ理由もないのだから、極力慎重になるのは当然である。日常でスリルを味わう露出狂に見えなくもないだろうが、事態は遥かに深刻だ。
迷宮は明かりもないのにぼんやりと薄暗く、一応の視界は確保出来ている。何十メートルも離れれば見えなくなるかもしれないが、とりあえずは明かりを用意する必要はなさそうだ。
何度目かの曲がり道とT字路を越えた先に、少し広めの広間らしき空間が見えた。そして、その中にはモンスター……ゴブリンがいるのも確認出来た。チュートリアルで戦った事である程度予測していたが、ヤツらはこのダンジョンでいう一般的な雑魚モンスターという扱いなのかもしれない。まさか、ずっと奴らしかいないという事はないだろうが、曲りなりにも似た奴と戦った経験があるのは好材料といえるだろう。
死角になっている部分に仲間がいたらまずいと、しばらく曲がり角から観察を続けてみるが、そいつ以外がいる様子はなかった。出来れば、こちらに向かって来たところをアンブッシュといきたいのだか、部屋を出る様子もない。
幾分か慣れてきたとは思ったのだが、全身が強張っているのを感じる。満足に体が動くのか不安が残る状態だ。
チュートリアルでやったように大声をあげれば勢いに乗る事も出来るのだろうが、さすがに他のモンスターに気付かれかねないリスクは避けたいところだ。ここは無言のまま、出来るだけ音を立てずに強襲したい。
タイミングは、ヤツがこちらに背を見せる瞬間。近づくまでに気付かれるかもしれないが、とにかく先手をとりたい。一発ぶん殴れば、それだけで勝率は上がるはずだ。
慎重に、奴の動きを観察して、強襲する隙を窺う。
「…………」
くそっ! 絶好のタイミングだったのに足が出なかった。
すぐにこちらを向いたから動き出さずに良かったとか考えている時点でもう駄目だ。勢いが大事だっていつも言っているだろ。多少タイミングがズレようが強襲は成立する。もどきでしか知らないが、ヤツらはそれほど高度な判断能力を持ってるわけじゃない。早計の可能性もあるが、あえて断定する。そうやって自分の中の逃げ道を塞ぐ。
行くぞ。タイミングなど知るか。今度あいつが背を見せたら問答無用で吶喊だ。
呼吸が浅い。タイミングがとれない。足を踏み出したら躓きそうだ。
そうだ、そうやって無警戒のまま、背中を晒せ。あと少し、行く……ぞっ!!
半ば以上無理やりに、足を踏み出した。ここで転ぶ事だけはすまいと、全身全霊でバランスを整えつつ、前へ前へと体を突き動かす。集中し過ぎて急にスローに感じられるようになった世界で、足元だけに集中する。
大丈夫、行ける。前に進んでる。このまま勢いつけて殴りかかれ。あいつはまだ気付いていない。
たった数メートル程度の距離にも拘らず、とてつもなく遠い。一歩一歩が果てしなく遠い。
広間に突入した。もう逃げられる距離じゃない。あと数歩。棍棒を振りかぶれ!
もどきの五倍は強いというゴブリンがとうとう振り返った。その顔は驚愕に染まっているようにも見えるが、今の俺にはただただ恐ろしいものだった。恐怖に思わず声を上げそうになるのを必死で堪えつつ、振り上げた両腕を全力で振り下ろす。
棍棒を通して伝わる感触は、壁を叩いた時のそれとはまるで違うものだった。平らで衝撃を完全に受け止めていた壁とは違い、丸みを帯びた頭部を全力で振り抜けば勢いを殺し切れない事に今更ながら気付く。
だが、体勢を崩そうともこの一撃は全力で振り抜くべきだと判断した。頭ではそう考えていたが、単に止まれなかっただけかもしれない。
振り下ろした棍棒はゴブリンの頭部を滑り、肩へと直撃。勢いあまって宙に舞いそうな中、命中した箇所が淡く光るのを見た。……やはり、HPは何かしらの障壁だ。もどきはともかく、このダンジョンでは最底辺のモンスターですら保有している能力という事なのだ。
ギリギリ、転ぶ寸前で踏みとどまり、次の行動に備える。
くそっ、どこだ。見失った。こんな至近距離なのに、一度視界から離れた相手を見つけられない。自分の位置すら把握出来ない。今入ってきた入り口がどれかも分からない。天井と床の判別すら危うい。転んでないのか不安でしょうがない。
次の瞬間、何かの音が聞こえた。おそらくはゴブリンの声だ。確認など出来ないが、幻聴でなければそれしか有り得ない。そして今、幻聴かどうかを気にしている余裕もない。
「うああああっーー!!」
決して音はたてないと誓ったにも拘らず、悲鳴じみた情けない声が勝手に上がる。
すでに感情が制御出来ない。自分が何を考えているのか理解出来ず、体を動かす方法すら忘れそうだった。そんな混乱の極みにあって、目標は確認出来ていないまま、声のした方向へ向けて棍棒を振る。腰も入っていない、ただ振っただけの威力のないスイングが何かに命中した。
無我夢中で棍棒を振るう。壁に向かって練習したフォームなど忘れてしまったかのように、ただ手を出す事だけを目標に。何度も、何度も、狂ったように。
……気がつけば、ゴブリンの姿はなく、俺は何もない虚空に向かって棍棒を振り続けていた。
「勝っ……た?」
動きを止めると、意識を失いそうなほどに酸素が足りない事に気付いた。俺は呼吸でも止めていたのか。息が出来ない。肺が悲鳴を上げて、酸素を求めている。
あまりの疲労に立っていられない。棍棒を杖のように立てつつも、膝が折れ、そのまま床へと座り込んでしまった。視線だけを動かして確認してもゴブリンの姿はない。そうだ、倒したはずだ。もどきだって死体も残さずに消えたはずだ。だから落ち着け。
凄まじい緊張状態が続く中、必死に呼吸を整え、辺りの情報を集める。平時であれば一秒で済みそうな作業がとてつもなく重労働に感じられた。
落ち着くまでに何秒経ったか分からないが、床にカードを確認するまで、そんな戦々恐々とした空気が続いていた。
「はは、くそっ!」
思い通りにいかない。体が動かない事など覚悟はしていて、下方修正した上での行動だったが、現実は更に厳しかった。
最初の強襲が上手くいったのだってたまたまだ。たまたま最初の攻撃が当たって、むちゃくちゃに振り回した攻撃がたまたま当たったに過ぎない。
その時点で瀕死だったかもしれないが、ヤツは反撃をしようとしていたはずだ。それを許せば、比べ物にならない泥仕合になっていただろう。あるいは、負ける事さえ有り得たかもしれない。そんな程度の低い、戦闘とも呼べない何かだった。
……だが、勝つのには勝った。殺し切った。やっぱり殺しの覚悟なんて考えてられるか。そんな余裕などない。そんな思考を許すような冷静さなど残っていない。
水が飲みたい。幻覚かもしれないが、喉がカラカラだ。一切攻撃を喰らっていないのに、これほどまでに消耗するなんて考えてもみなかった。
拠点に戻れるならすぐにでも戻りたかった。……いや、駄目だ。戻れたとしても、そうやって逃げ出せば、またダンジョン探索に対する精神的ハードルが上がる。なんのために無理してここに来ているか忘れたのか。
……探索は続行だ。せめてある程度の収穫があれば、自分を誤魔化せる。
とはいえ、こんなところで座り込んでいるのも危険だ。別のゴブリンか、あるいは別のモンスターか、敵に強襲されかねない。見つかるのは仕方ないにしても、対応出来る体勢は整えないとまずい。
しかし、戦利品を確保してその場を離れようと立ち上がろうとしても上手く立てなかった。……足が震えてる。
意識の上ではある程度落ち着いたつもりだったのに、震えが止まらなかった。手をそれを押さえつけつつ、這うようにしてカードを拾う。
[ ゴブリンチケット ]
良し。これでロクでもないものだったら立ち上がれなかったかもしれないが、予定通りのものを手に入れた。
これでガチャが一回回せる。……ちくしょう、高っけぇガチャだな。思わず、諦めたくなるほどの重労働だ。
……大丈夫だ。俺はまだやれる。
諦める事自体はいい。一切の逃避をしないと断言出来るほど強い精神は持ち合わせていない。だが、その先に待っているロクでもない未来、ただ蹲るだけの日々など甘受するわけにはいかない。逃げる先がどん詰まりしかないのなら、諦めるわけにはいかない。
-3-
「ああああっ!!」
"大声を上げて"、振るほどに手に馴染んでいく棍棒をゴブリンの胴体へと横薙ぎに振るう。それだけで絶命には至らないが、二撃目、三撃目を考えるならば頭部狙いは悪手だと判断した。
確実に命中させた上で一撃の元にトドメを刺せるなら頭部狙いもアリだろうが、そうでないのなら体勢を崩しにくい攻撃のほうが次に繋げ易い。体積が大きい胴体ならば、素人の俺が棒を振るっても命中させ易い。相手が動いているのならば尚更だ。
一撃目を当てて動きを鈍らせて、続く二撃目で仕留める。普通に考えるなら当然かつ基本的な戦闘方法ではあるが、それを実践に移すまで結構な戦闘を行った。
……そう、すでに何度もゴブリンは仕留めてきたのだ。
「……またか」
絶命して光の粒子に還ったゴブリンの足元にドロップするカードを拾い、その絵柄に脱力する。
[ ゴブリンの右足 コモン ノーマル/マテリアル ]
カードの絵は今まで戦っていたゴブリンの足である。前回は左腕で、その前は右腕だった。
両腕と両足、そして本体を揃えれば特殊勝利が確定するのかとアホな事も思ったが、封印から目覚めたところでゴブリンでは興ざめもいいところだろう。
ちなみに四肢だけではなく、実は爪や心臓などもドロップしていたりする。こいつら、意味不明なほどにバラバラの状態でカードになってドロップするのである。
すでにフリーゾーンは一杯、にも拘らず、ゴブリンチケットはたったの三枚。それ以外はすべて体の部位である。マテリアルと書いてあるから、最初は何かに使えるのかとも思ったが、むしろ外れドロップとしか思えなかった。この右足など、もう三枚目だ。
とはいえ、ただ捨てるのももったいないという思いも一応あるので、一旦拠点に帰りたいところなのだが、その帰還方法が見つからない。体感時間はかなりアバウトだが、もうかれこれ数時間は彷徨っているはずだ。
疲れた上に腹も減った。何より、喉の乾きが危険域だ。このままだと餓死以前に渇死してしまいかねない。それでも拠点には戻れるのだろうが、そんな死に方は冗談じゃなかった。
ゴブリンとの死闘を繰り返す事、十数回。それで分かった事は多い。
まず、ゴブリンは弱いという事。初戦はあれだけ苦労したが、慣れてくれば負ける事は有り得ないと感じるほどに弱小モンスターだった。おそらく、小学生に棍棒持たせたほうが強いだろう。
そんな奴の五分の一の強さといわれるもどきにすら負けた俺が言うのもなんだが、戦闘そのものに慣れてしまえばどうとでもなる相手だ。とはいえ、複数体で連携されたら危険だろうが、今のところその心配もなさそうだった。
こうして彷徨っていると分かるのだが、奴ら徘徊もせずにずっと同じ部屋にいるのである。しかも、そのすべてが単体だ。だから声を上げても援軍がやってくる事もないし、ましてや連携してくる事もない。
もちろん断定するのはマズいだろうが、今のところはそんな感じなのである。
また、想像以上に自分の体が強化されているのも感じていた。でかくて重い棍棒を振り回したくらいでは息切れもせず、長い事ダンジョンを歩いていても体力にはまだ余裕がある。疲労困憊なのには違いないが、まだ動けると感じている。もちろん強敵を相手にするには心許ないが、ゴブリン程度ならまだまだ余裕があった。
つまり、ここは本番ではあってもチュートリアルの延長線上にあるフロアで、俺を慣れさせるために用意された訓練場であるという事なのだろう。
誇り高き戦士であればきっと、馬鹿にするなと声を上げるところなのだろうが、戦士でなくサラリーマンである俺にはありがたい話だった。少なくとも、ここをウロウロしていればチケットがまったく手に入らないという事はない。
「……とはいえ、絶対効率悪いよな」
安全なのはいいが、広大な敷地と比較してモンスターの数も少なければそのドロップも渋い。ガチャでの排出がランダムである以上、これでは最低限の生活を維持する事さえ困難だろう。
しばらくは仕方ないかもしれないが、どこかで次のフロアに行く事になりそうだ。先に進む事自体は任意なんだろうが、そうなる気がする。
「うおりゃっ!」
テストとしてマテリアライズしたゴブリンの腕をゴブリンに投げつけ、怯んだところを撲殺する。
自分と同種の腕が飛んでくるのはさすがにビビったのか、モノが飛来してきたという以上にゴブリンは隙を見せていた。
いらないものを利用した強烈なコンボではあるが、腕だけが物質化するのは気持ち悪いので、精神ダメージと引き換えだった。マテリアライズのテストだから仕方ないが、あんまり多用したくはない。疲れてきてヤケになっているとも言える。
「お?」
[ ゴブリンの腰巻き コモン イクイップ/アーマー ]
期待せずにドロップしたカードを見てみたら、初見のアイテムだった。しかも、待望の防具である。……防具だよな?
しかし、嬉しいかと言われればこの上なく微妙な気分にさせられる代物だ。この際、イクイップゾーンの枠が足りないのは仕方ないにしても、わざわざ装備するかと聞かれれば首を傾げざるを得ない。
だって、腰巻きである。確かに戦っている最中は、俺が全裸なのにお前らだけ隠しやがってとは思っていたが、こうして手に入って身に着けたいかと言われればノーだ。
早く全裸から脱却したいという思いは確かにあるが、これを装備したら蛮族化が更に進行してしまう気がする。マテリアライズして拠点で部屋着として使うというのも、出来れば避けたい。
[ ゴブリン討伐二十体達成! 実績ボーナスを獲得しました! フリーゾーンNo.1の上限1Up! ]
微妙な戦果にげんなりしていたら、そんなアナウンスが聞こえた。
幼女二号のものではなく、もっと無機質な合成音声っぽいものだ。
「……実績解除でセットするカードが増えるって事か?」
ウインドウを開いてみれば、ゴブリンのパーツだらけで惨殺現場にしか見えないフリーゾーンの枠が10/11になっていた。その空きに、たった今手に入れたカードを放り込む。
数値化されたステータスのようにレベルがあれば分かりやすかったのだが、今の所そんな数値はない。なら、どうやって強化したりカード枠を増やすのかと疑問を持っていたのだが、これが正解らしい。いや、正解の一つか。
何かしらの行動実績が一定に達すると、評価されてセットする枠や上限が増えたりするって事なんだろう。
そして、探索を再開して十分ほど経った頃だろうか、行き止まりに辿り着いた。
その通路の奥は少しだけ広い部屋になっていて、チュートリアルの最後にあったような魔法陣が光っている。……おそらくは帰還用のゲートだろう。
なんだ、随分調子がいいじゃないか。ひょっとして運が向いて来たりするのか? この調子なら、紙だって手に入るかもしれない。
そんな即物的な喜びに足を軽くさせつつ、帰還用の魔法陣へと足を踏み入れる。
これで何かの罠だったりしたらきっと立ち直れなかったろうが、特にそういった悪辣な罠というわけでもなく、見慣れた拠点へと戻ってきた。
「はぁー……戻って来たぞー」
そうして気が緩んだのか、一気に脱力して床へ倒れ込んだ。石の床に全裸だろうが気にならないほどに疲れていたらしい。
そのまま寝てしまってもいいほどだったが、ひとまず水を飲んで一息吐く事にした。
良し、最初はどうなるかと思ったが、順調な滑り出しと言っていいだろう。
戦果の半分以上がゴブリンのパーツである事はひとまず置いておくとして、フリーゾーンが埋まるほどのカードは手に入れた。あと、腰巻き。
そのフリーゾーンの枠も増えて、実績解除による強化もはっきりした。
そして、最大の目的であるゴブリンチケットは三枚。これを多いと見るかは微妙なところだが、明確な戦果ではあった。
……流れが来ている気がする。なんというか、後押しをする風を背中に感じている。
「いくぞ」
感じる流れを大切にすべく、ガチャへチケットを投入した。
というか、実はそろそろ便意も限界だったのだ。水を腹に入れた事でその感覚が顕著になっている。見事なまでに生成された便が、俺をここから出せとノックしているのを感じる。
チャンスは三回。どうか、ポケットティッシュでいいから紙をお願いします。さあ……来いっ!!
[ ルーズリーフ100枚セット コモン ノーマル/アイテム ]
「違うっ!! その紙じゃない!」
あんまりな結果に思わず叫んでしまった。
い、いや、落ち着け。ここはポジティブにいこう。紙違いではあるが、願ったものが来たのには違いない。これはきっと風が吹いているという証拠だ。次だ。次はきっと……。
[ 冷凍餃子 コモン ノーマル/アイテム ]
「…………」
いや、確かに食料は欲しかった。それは間違いじゃない。またそのまま食べられないものではあるが、ここは素直に喜んでおこう。
……まずい、のか? ひょっとして流れ来てない? いや、いやいや、駄目だ。弱気になるな。紙は来る。きっと来る。俺は俺のガチャ運を信じる!
「……頼むっ! 来い!!」
ガチャの神様に祈りを捧げつつ、タッチパネルを押す。
すると、願いが通じたかのようにちょっと違う演出が始まった。それは< ゴブリンの蛮族棒 >を手に入れた時と同じ演出で、コモンよりも上のレアリティであるという証拠だろう。
あれ、ちょっと待って。確かにレアリティ上がるのはいいけど、欲しいのはティッシュかトイレットペーパーかそれに準ずるものだ。そんなものはコモンにきまっているだろう。
今欲しいのは高レアのアイテムではなく紙なのだ!
[ 屋内用簡易農園 レア ベース/ライフ ]
「…………」
排出されたのはまったく関係ないものだった。
確かにレアではあるが、そうではない。そうじゃないんだ。
くそ、分かってたさ。こんな無茶な排出種類を誇るだろうガチャの中で、ピンポイントにそれだけを求めるのはレア以上にレアな確率だって。普通なら出てくるはずがない。しかし、期待したかったのだ。
ポジティブに考えるなら決して悪い結果ではない。いや、むしろいい結果だったといえるだろう。
問題は、もうすぐ外に出られると期待に胸を膨らませた便意が腸の出口近くで待機してしまっている事だ。早く開園してくれと、入り口付近でデモを繰り返している。
……済まないが、君たちの期待しているモノはその先にはないんだ。
どうする。もう一度ダンジョンに行くか? いや、もうコレ以上便意を誤魔化すのは不可能だ。数分、数十分程度なら我慢出来るが、とてももう一度の探索には耐え得ない。確実に野糞になるだろう。
何かないのか……何か。
「そうだ……!」
最悪、肛門へのダメージを無視してルーズリーフを使うという案も頭をよぎったが、それよりも使えそうなものに心当たりがあった。
[ ゴブリンの腰巻き コモン イクイップ/アーマー ]
……これだ。
これを装備としてでなく、ケツを拭く紙の代わりに出来ないだろうか。
アイテム名から考えるとちょっと汚い印象があって病気になりそうだが、ここまで手に入れたアイテムは基本新品だ。ボロい見た目をしていても、これだって新品に違いない。
ここでとれる選択肢は、これをどうやって使うかだ。
普通に考えて、ダンジョン内で使うというのが基本だろう。装備枠がないから棍棒なしでもう一周する事になるが、今なら素手でもゴブリン相手ならなんとかなる気はしてる。
また、フリーゾーンに入れた状態でダンジョンに行き、マテリアライズしてしまうという手もある。ケツを吹いた腰布など装備したくないし、使い捨てになる事を考慮するなら問題はない。……いや、根本的に問題だらけなんだが、そこからは目を逸らす。
そう……どちらにしても、ダンジョンで使うならこれは使い捨てなのだ。
一方、この部屋で使うならどうだろうか。若干どころでなくトチ狂ってる気がしないでもないが、もはや冷静な思考をしている余裕などない。
部屋の中でクソをするという事実に耐えられるなら、水洗いとはいえ洗濯可能なここで使うのはアリだろう。……アリ? 本当にそうか?
いや、確かにちょっと前までならそんな選択肢は有り得なかった。第一、汚物を外に持ち出す手段がない今、それは致命的な事になる。部屋の隅に自分の排泄物をインテリアとして飾る趣味は俺にはない。
しかし、高速で思考を続ける頭脳はもう一つの可能性を示唆していた。……オーバークロックで暴走している気もするが、それは確かに選択肢ではあったのだ。
それは、たった今俺が手に入れたカードだ。
[ 屋内用簡易農園 レア ベース/ライフ ]
「……やるか」
俺は、この簡易農園をトイレで使う決意を固めた。……そう、埋めてしまえばいいのだ!! 人として間違っているのは分かるが、他の選択肢だって大差ない。そう判断した。
人間は勢いが大事だ。これは決して正解ではない。限りなく不正解に近い回答でも、それしかないのだから吶喊するしかない。勢いだけで出来ちゃった婚した先輩以上に過ちな気もするが気にしない。
「俺はベースゾーンにこのカードをセットするっ!!」
だが、俺のターンはまだ終わっていない。むしろここからが本番だ。
部屋の中に、面積の三分の一ほどを占拠する小型農園が出現した。案の定、そこには土以外の何もなく、種や肥料は別に用意して下さいといわんばかりだ。だが、今はそれがいい。
人間としての尊厳を100%失わないために、50%ほど失ってしまう戦いが今、始まる……ッ!!
有り体にいって、全裸で屋内農園にしゃがみ込む絵ヅラは放送事故級だろう。
俺はそんな尊厳開放した姿から目を逸らしつつ、いろんなものを開放しようとしていた。そして、今正に開放されるという瞬間の事だった。
「いやーすいません。会議長引いちゃって。まったく、ウチってサブカルチャー担当ばっかりだから話長いんですよねー。そろそろチュートリアルとか終わり……ました?」
突然現れた幼女様と目が合った。……合ってしまった。
「……あ、はい」
「……ご、ごめんないっ!! まさか、そんな……い、一旦席外しますね!?」
成人男性の全裸にも一切動じる様子のなかった幼女神様が、今までになく慌てた様子でその場から消え去った。
「……おお、もう」
俺は、ここまでで最高の絶望を味わいつつ、尊厳を開放したのだった。
……どうしてこんな事になってしまったんだ。
汚い。(*´∀`*)