じゃじゃ馬姫は逃亡中
頭を空っぽにして、流し読みしてください。
会話が少なくナレベが多いですが、それでもいい方だけどうぞ~
「いよいよね! ルイ、準備はいい?」
煌びやかな王族のアラビアン衣装を脱ぎ捨てて、イシファは旅芸人の衣装の上に黒い外套をまとった。同じような格好をした侍女であり仲のいい二つ年上のルイを、生き生きとした黒い目で見る。
「イシファ様の仰せのままに」
窓から見えるのは、紺碧の空に細い三日月と瞬く星。深夜の城下街のまばらな灯りを眺めて、イシファは口元が弛むのを止められない。
ようやく、やっとだ。この日を一日千秋の思いで待ちわびていた。偽装工作も抜かりはない。
「さぁ、この王宮から逃げるわよ」
嬉々として告げたイシファにルイが頷き返し、二人はそっと部屋を抜け出した。
※※※※※※
気配を消して身を隠しながら、イシファとルイは静寂の回廊を慎重に進んでいく。脱出ルートは何度も調べて下見もした。警備兵の配置から見回り時間に交代時間、ここ数日の王宮の予定とそれに伴う警備の変更も頭の中に入っている。
心音は否が応にも高鳴っているが、思考は落ち着き、明瞭だ。何より不謹慎ながら、未来を思うと期待に胸が弾む。
薄暗い回廊を息を殺して歩きながら、イシファはこの一年と七ヶ月を思い返した。
イシファは十二歳になるまで、旅芸人の一座で育った。
父は知らないが、母は一座の看板歌姫で、かつてはオアシスが有名なイセラ国一番の歌姫の名を恣にし、何度も王宮に呼ばれて披露するほどの実力者だった。
イシファが九つの時に母は流行り病で亡くなったが、一座は家族のように面倒を看て、育ててくれた。
姉代わりの看板舞姫、兄代わりの投擲芸の名人、先生のように博識の舞台脚本家、場を和ませてくれる楽曲家、皆をまとめる大黒柱の座長。
イシファは様々なことを一座で学びなから育ち、イセラ国で成人とされる十三より前、十二の時に、一座で憧れの舞姫の舞台に歌と音楽を添え、共に躍りを披露して、舞台デビューするはずだった。
色んな土地を回るのが楽しくて、大好きな家族と一緒にこのまま暮らしていきたいと、ようやく一座の役に立てると、何よりも大好きな姉と初舞台だと楽しみにしていたのに。突然、二十も離れた異母兄から迎えが来た。
新手の身請け詐欺かと警戒したが、迎えを寄越した兄は、この国の王。王宮に呼ばれて初めて、イシファは父親が誰か知ることになった。
国一番の歌い手だった母は、度々王宮に招かれた。その際に先王の目に止まり、イシファを身籠ったのだと。
「例えそうだとしても、関係ない。王族と無関係でいいの。このまま皆と暮らしていきたいの」
一座の皆も、イシファを受け入れて、望むなら王都には近寄らないとまで言ってくれた。一番稼ぎのいい王都を捨ててまで、イシファの面倒を看ようとしてくれたのだ。
だが、それは許されなかった。
「十二年も放置していたのに、どうして今更…」
当然の疑問に、数段高い玉座で異母兄を名乗る国王は、厳つい顔を険しくさせた。イシファをわざわざ王宮に呼んだ人は、笑うこともなく終始、厳しい顔と声だった。
「……百年前まで、我が国と隣国アズールは戦争をしていたが、お互いに大きな犠牲を払ってようやく休戦し、平和条約を結んだ。その条件の一つに直系王族どうしの婚姻があった。だが、当時はお互いに姫しかおらず、その後祖父が生まれたものの、アズールの王女は既に結婚していた。先代も私の代も王家は男子のみで、王或いはそれに準じる者に嫁ぐ約束が、未だに果たされていない」
現在アズール国には二十二歳の王太子がいるが、その人に合う姫がいなかった。イセラ国王には二歳の娘━━イシファの姪━━がいるが、嫁げるようになるまで十一年もある。そしてアズール国での成人は十五。
この場合は嫁ぎ先の法に従うのが慣例なので、婚姻まで十三年もあった。
つまり、姪よりも年の近いイシファを政略婚でイセラの王女として嫁がせようというのだ。
ついでに今まで迎えに行けなかったのは、先王以外に誰もイシファの存在を知らなかったからと教えられた。それが先日、王位を退いた病床の先王が、王女が一人いると告げる。それがイシファだった。
「嫌よ。冗談じゃないわ!」
不敬でも断ろうとしたイシファだが、王の側に控えていた大臣が、断るなら一座がどうなってもいいのかと脅してきた。
そうしてイシファは急遽王宮に迎えられ、様々な作法やしきたりに法律、礼儀に立ち居振舞いを詰め込まれた。一年後、成人すると同時に隣国へ政略で嫁がされるために。
始めは反発したイシファだが、一座に迷惑がかかると大臣に仄めかされ、渋々従った。
幸いなことに、文字の読み書き計算に歴史は一座で基礎が身に付いており、古今東西の文学や芸術方面は明るかったので、最短で一年、最長で三年をかけて目一杯詰め込む予定をだいぶ前倒し出来たのは、大臣と国にとっては嬉しい誤算となった。
国どうしのやり取りで、十三となった成人後、婚約者としてアズールに赴き、そこで結婚する十五まで過ごすことも決まった。
実質な輿入れとなるまでの一年と半年、イシファは勉強漬けの日々を過ごした。
(私も嫌だけど、相手も無理に仕立てあげられた、こんな詐欺紛いの王女と結婚させられるなんて気の毒ね)
当初は婚約者のハサラ王太子を気の毒に思っていたが、派手な女性遍歴を耳にするにつれて、同情どころか元よりない興味がゼロになった。
所詮は噂だが、作法を試す場として何度か出席を余儀なくされた大きな宴で、隣国へ赴いた役人や貴族の女性から実際に目撃した話を聞き、隣国から来た女性に「可愛らしい婚約者ができて我が国も安泰ですわ」と子供と見下した目で嫌味を言われた。後から知ったが、その女性も恋人の一人だったらしい。
優秀で素敵な人だと、容姿も素晴らしいとどれだけ聞かされても、イシファは婚姻が益々嫌になるばかり。人生を一転させた病床の父を恨んだ。
そんなイシファにまたもや転機が訪れる。もたらしたのは祖父ほど離れた父だった。
一度隣国へ行けば、結婚せずそのまま消えても、責任は逃がした隣国にあると。こちらは確かに予ての約束通り、責任をもって姫を送り出したのだからと。
にこりとも笑わない他人行儀な娘を気の毒に思ったのか、罪滅ぼしか、隣国の情報や、専門の情報屋の仲介、果てはアズール王宮と街の見取り図まで手に入れてきた。
だからイシファは大人しくして、その機会を待った。
綿密に信頼できるルイと計画を練る一方で、いつも通りに過ごし、入念に情報を集めた。
イセラ国で成人を迎えた半年後。
国境で隣国の護衛騎士ハサンに引き渡され、イシファは侍女一人を伴って隣国入りし、特例で一年後に結婚する婚約者として王宮入りした。
俄王女が気に入らない、庶民同然の娘を嫁がせるなんて舐められている等と、正妃の座をかつて敵国の小娘に奪われて婚姻に反対する一派もいたが、表面上イシファは盛大に歓待され、王宮で一ヶ月を無事に過ごせた。
そして今夜、イシファはルイと共に姿を消す。
逃げたとは思わせないために、部屋の窓を開けて、ベッドのシーツにナイフの切り込みと鳥の血をわずかに残してきた。
それ以外は何の痕跡も残さず、王女の荷物には一切手をつけていない。これで、イセラ国にも迷惑をかけず、誰かの仕業だと考えて捜査を混乱させられる。その分逃げる時間を稼げるはずだ。
イシファは身軽に離れた通路に跳び移り、通り過ぎる見回りの目を潜り抜けて、ルイと王宮の裏門を目指した。遠くで賑やかな音楽と笑い声が聞こえる。
今宵は国内の遠方より領主たちが集まったので、宴が開かれていた。数時間前まではイシファも婚約者のハサラ王太子と参加していたが、子供だからと婚約者を残して早々に退席していた。
巡回する兵をやり過ごし、見張りの目の前を踊り子の衣装で堂々と通り過ぎて、イシファとルイは歓待の宴ために招かれた一座に紛れた。この一座は歌と舞を宴席で初めに披露した一座で、既に帰り支度をして荷を積み込んでいた。事情を知る座長に目礼して、イシファはルイと共に何食わぬ顔で幌馬車に乗り込む。
馬車が動き出し、王宮の裏門を抜けた。抜け出せたことにイシファは安堵の息を吐き、今後の未来に思いを馳せて胸を高鳴らせた。
これから、国境で家族と合流して別の国を見て回るのだ。そしてあの時果たせなかった初舞台に上がる。
子供のイシファには素敵で格好いい王太子より、恋より地位や権力より、広がる世界を大好きな家族と共に回る冒険の方が魅力的で大事だった。
何より王太子のハサラが気に入らない。
王宮に着くなり、護衛騎士として道中共に過ごしたハサンが結婚相手だと知らされた。見極めるために様子を見ていたと。
少しだけ憧れた爽やかな美形騎士。道中は何かと気にかけて気遣ってくれた。兄のようだと安心していたのに、王宮では忠実で誠実な護衛が一転して、俺様でいけすかない王太子に早変わりだ。騙されて驚くイシファを見て楽しげに笑っていた。挙げ句、口付けてきた。
呆然とするイシファに、「このままつまらない女になり下がるなら側室もありだ。お飾りの正妃になるかは様子見だな、山猿姫」と、言ってきた。散々自国でも隣国でもバカにされたイシファの育ちはもちろん、父が寄付して作られた孤児院に通って自由に振る舞っていたことも知っているようだった。
騙したことが許せず、何者かに花嫁を拐われた間抜けな王になればいいとイシファは脱走を決意し、この一ヶ月は穏やかに振る舞って油断させて、見事に逃亡を成功させた。
小さくなる背後の王宮を一瞥して、イシファは未練はないとばかりに前を向く。
(ざまぁみろ。もう二度と会うこともないから清々するわ!)
アズール王宮で過ごして一ヶ月。もともと数々の浮き名を流していたハサラの噂は、真実だった。宴会の度にイシファを無視して美女が群がり、側に侍っては美女が互いに牽制して、ハサラの視界に入ろうとしていた。
ハサラが席を外せばイシファを小バカにして、いつでもどこでもクスクスと嗤う。アズール国内でも、遙々嫁いだイシファより誰を側室にするかが重要に扱われていた。
宴会で側室候補に牽制される度に、「いらねーよ。むしろ、くれてやる」と心の中で毒づいたくらい、微塵も好意を持っていない。あんなのより、強引に引き離された家族の元に帰る方がいい。
イシファは王宮の篭の中で歌って飛び回るよりも、納得のできない運命に抗って、色んなものを見て自由に飛び回って歌いたかった。
幸いなことに、普段は堅苦しい異母兄も、好色で恋人盛り沢山の王太子が義理の弟になること、何より条約とはいえ、そんな所に妹を犠牲にして嫁がせることに、苦痛と申し訳なさ、罪悪感で一杯だったらしい。
一座に紛れて逃げられるよう手配し、家族とも連絡を取って居場所を教えてくれた。侍女と当面の旅資金をくれて、逃げた後の準備を整えてくれていた。
暫くアズールの王都で公演するという一座と別れ、イシファとルイは早朝の乗り合い馬車で王都を離れ、途中下車した。この街から出る更に西へ向かう馬車を乗り継ぐ予定だ。
砂煙が上がり、別の町から来る乗り継ぎ馬車を見つけ、イシファはルイに笑顔を見せた。赤い布を振って、乗客であることを馬車に伝える。
本当にようやくだった。
イシファは自由を手に入れて、新世界に飛び立つ。
「今日から自由だ━━!!」
昇った朝日が照らす中、新たに生まれたように喝采の産声をあげながら、イシファと侍女は厳重な守りの城から逃亡を成功させたのだった。
※※※※※※
昨夜は宴からいつもより早く自室に戻って寝たのに、酒がまだ残っているのか、ハサラは頭痛が酷かった。そんな中、何度も荒々しく扉を叩かれ、厳つい鉄面皮の側近のハディードが、珍しく慌てた様子で入室してきた。
顔を歪ませ、青ざめた長い付き合いの悪友に、ハサラは不機嫌だった表情を変えて、真剣に問いかける。
「何事だ、ハディード?」
「………なく…った…」
「は?」
「だからっ、お前の婚約者が忽然と消えたんだっ!」
真剣なハディードに、整った顔をポカンと口を開けて間抜け面を晒したハサラが、束の間呆然とした。
ハディードがまだ寝ているのではないかと心配になるほど、ハサラは動かない。
「……っく!」
「ハサラ?」
眉間に皺を寄せたハディードに、ハサラは笑いを堪えきれずに吹き出した。今度はハディードが呆ける。一人で大笑いするハサラが心配になるが、彼は浮かんだ涙を拭って、ようやく笑いを収めた。そんな姿も艶やかで、長い付き合いでなければハディードも見惚れただろう。
ハディードは険しい顔をしながら、報告を続けた。
イシファの朝の用意を手伝う真面目な侍女ルイが、時間になっても朝食を取りに来ない。いつも決まった時間に来るのに珍しいこともあると、厨房係が首を傾げた。
流石におかしいと午前九時過ぎに女官長に相談し、女官が体調が悪いのかとルイの部屋に行くが、部屋はもぬけの殻。報告してイシファの部屋に入ると、主の姿も消えていた。
そしてベッドには、一部切り裂かれたようなシーツに、ほんのり滴った血痕。輿入れで持ってきて整理された手付かずの荷物。
慌てふためいた女官から話を聞いた女官長は、すぐ上に報告した。それから王宮の大捜索が始まり、王宮に勤める全員の所在確認が行われたが、イシファと侍女の姿だけ、どこにもない。
まだ探していない王宮の敷地で捜索が続いているが、いなくなった状況に、皆が相当な手練れが侵入して連れ去ったに違いないと言い、噂が密やかに広がっているらしい。中には、婚姻に反対する一派が、イシファを連れ去ったとも囁かれている。
笑いながらハサラは報告を聞き、着替えながら時計を見ると午前十時を過ぎていた。自分程ではないが、滅多に笑わない王太子が、この非常事態に終始笑いっぱなしという奇妙な状況に、ハディードが流石に不謹慎だと咎めた。
側近の渋面も何のその。どういう状況か、ハサラは気づいていた。だから、楽しげに笑う。やってくれたな、と。
お小言を言うハディードを無視して、ハサラは父に会うべく回廊を進む。
イシファを見ていれば、この国にもハサラにも興味関心がないのが、よくわかった。それよりも、ここではないどこかにばかり思いを馳せていたことも━━。
ハサラが小さく笑った。
婚約者も決めず、のらりくらりと自由気ままに花から花へと渡り歩いていたハサラ。そこに急遽決まった婚約者。それも十歳も年下の子供だという。隣国では十三が成人でも、この国では十五歳から一人前。結婚はできるが、手は出せない。
そもそもそんな子供に食指が動くはずがなく、他にたくさん女はいるし、寄ってくるから後継者の件は別に構わないとハサラは考えていた。
問題はきちんと正妃の役目を果たせるか。
聞けば先王がどこぞの歌姫に産ませた娘らしい。市井で育ち、最近王宮に迎えたばかりの子供。嫁いでくるのは一年より先とはいえ、それまでにどれだけ学んでこられるのか高が知れている。
お飾りの正妃にして、他の側室に子を産ませ、外交でも式典でも政でも側室を出した方がいいのか、それとも一年で成長し共に協力していけるのか。ハサラは、その点が知りたかった。
だから、前もって確かめに行くことにした。こんな婚約なめられている、側室を迎えればいいと好き勝手言う臣下たちの言葉ではなく、自分自身で判断するために。
王妹の様子を探り、どこかで会えないかと考えていたら、引退した父の建てた孤児院に、月に何度か寄付と見舞いに出掛けていると情報を掴んだ。ハサラは早速、隣国の孤児院に向かった。
ツテを利用して王女の訪問と合わせて、繋がりがある貴族にも寄付をさせた。その荷運びの平民として忍び込んだハサラだが、肝心の婚約者の姿が見えない。
空振りか。貴族の女にはよくあるのだ。代理を遣わしてお金だけを届けて終わりというのが。
今回は外れだ。別の会う機会を探すか、と去ろうとしたら、中庭から楽しげな子供たちの声と歌が聞こえた。見事な歌声に、ハサラは聞き惚れて庭へ向かう。声の持ち主を確かめると、十二、三歳の少女だった。
少女は孤児たちに慕われているようで、「剣を教えて」、「本を読んで」、「踊って」と要求され、男子たちにナイフ捌きを教えて、投擲当てを披露。読み聞かせは一人芝居を見ているかのようだった。
そして、舞は見惚れるほどに身軽で美しかった。
若くしなやかで、それでいて清艶で華やかなもの。働き場に困らないほど芸達者で、将来がとても楽しみな少女だった。一流の芸を見慣れたハサラですら時間を忘れて見入る。少女はどの芸も生き生きと実に楽しそうにこなし、自分も周囲も笑顔にしていた。
「イシファ様。そろそろ」
少女に声がかかり、ハサラは驚いた。質素な服を着て、孤児の子供たちに紛れていたのが、王妹。泥だらけで子供たちと駆け回って遊び、野性児みたいなのが姫。
この院の子供と遜色ない服装に、振舞い。ここで生活している子だと言われても、違和感がなかった。
子供と一緒になって、「かえりたくなーい」と不満を口にした婚約者となる少女。この前泊まる予定だったのが流れたから今日こそはと期待し慕う子供たちに、「ケチな兄が習い事終わらせたらいいって言ったのに、ダメだって言うの」と王様をケチ呼ばわりした。
「早くしないと迎えが来ます」と促す侍女に、イシファは唇を尖らせながら馬の所在を聞いた。侍女が、置物小屋の塀の向こう側に繋いであると答えた。
渋々イシファがそちらに歩き出すと、名残惜しそうに子供たちが周りを囲んで「次はいつ会える?」と尋ねた。
その問いにイシファは溌剌とした表情を曇らせた。
「会える機会は少ないと思う」と正直に答え、子供たちがしょんぼりする。「どうして」と悲しむ子供たち。だがイシファはニッと悪戯っ子のように笑って見せた。
「完全に会えなくなるまでは、隙を見てまた来るよ! それまでに何して遊ぶか考えておいて。宿題サボったら、勉強させるけどね~」
悲喜交々の子供たち。それでも、笑顔が戻った。
「イシファ様、時間です。痺れを切らした王から迎えが来ますよ。次の講義に間に合わなければ、また城を出してもらえなくなります」
再三促す侍女に、イシファが「やばっ、急がなくちゃ」と焦る。
裏門ではない物置小屋の塀壁に向かって走り、何をするかと思えば、重ねられた木材の箱を踏み台にして、軽業師のように塀の上に上がった。ハサラは思わずあんぐりと口を開けた。
イシファは「またね~」と手を振って、塀の向こうに飛び降りた。すぐに驚いた馬の声と、蹄の音がした。繋がれた馬に跨がって走らせたようだ。
侍女が「護衛がいませんのにっ」と慌てたように走り出す。男どころか鍛えた騎士でも簡単にできない身軽な行動に、「とんだじゃじゃ馬だな」と言葉が漏れた。
その一言がツボに入り、ハサラは口許を押さえて、肩を震わせた。
「お、こんなとこにいた。何してんだよ、ロリコン。姫はいないようだし、ハディードのお小言が始まる前に帰るか」と、護衛であるシュルトが声をかけてきた。
「せっかく、お姫様が見られると思ったのに、肩透かしを食らったな~」
先程の件をこいつにも教えてやろうかと考え、話した後の反応を想像してニヤリと笑えば。
「気持ち悪い。お前、子供に手を出してないよな」と不敬なことを言ってきたので、ハサラは護衛を一発殴っておいた。
活きがよく面白い性格で将来が楽しみだが、政治の場でもあの調子では駄目だ。明け透けで正直すぎる。ハサラは評価を保留にして、イシファが非公式に出る宴会に顔を出してみることにした。
潜り込んだ大宴会場でのイシファは、淑やかで静かな姫だった。微笑んでいても、大袈裟に表情を変えて反応しない。静かに笑っているだけ。バカにされた発言も流して、意地悪な問いかけも上手くかわしていた。
王を敬い、政治の話はのらりくらりとはぐらかす。約束も明言もせず、言質を取られることもない。ただ静かに微笑んで話しかけられたら返すだけ。貼り付けられた仮面で。
頭も悪くないようで、それなりに使えるかもしれないと思った。ただ宴会に添える芸人一座の見事な演奏や歌や舞、芸を、とても寂しそうに羨むように見た瞳が印象的だった。
正妃として迎えるのに悪くない。ハサラはそう判断して、婚姻話を受け入れた。イシファが来るのを待つ間、最後だからとそれなりに遊び、駆け引きをして女性と関係を持ち、お転婆な彼女が来たらどんな生活になるのかと、少し楽しみにして待った。
ようやく来ると知り、どんな成長と変貌を遂げたのか早く見たくて、ハサラは護衛騎士に扮して自らが迎えに出た。
そこで再会した彼女は少しだけ大人びて、「王宮までどうぞよろしくお願いいたします」と挨拶する澄ました顔のお姫様だった。静かに微笑む外用の顔。
優しくして本性を見せても大丈夫と、ハサラは誠実な騎士として接したが、気を許してもらえず、いつぞやのはっちゃけた姿は見られなかった。
あの姿が幻で、或いは矯正されて、イシファがどこにでもいる身分の高い女に成り下がった気がしてがっかりした。というより、不満で気に入らない。
その後、王宮で正体を明かして驚かせた。それが純粋な驚愕だったことに、取り澄ました表情を崩せたことに、ハサラは僅かに満足した。
あの日の片鱗が顔を覗かせた気がして、本性を知っていると密やかに告げれば、「何のことでしょう。仰っている意味がわかりません」と微笑まれた。それがハサラの勘に障った。
その辺にいるつまらない女のように取り繕って隠されて。気に入らなかった。だから、こまっしゃくれたことを言う口に口づけた。
案の定、イシファは驚いて表情を乱した。ぽかんとした間抜け面。傑作だと愉快な気分になり、その後も何かとからかってちょっかいをかけては、本性を引き出そうとした。だが、手強かった。その事に苛立ちが募り、見込み違いかとつまらなく思っていたら━━逃げられた。
「やってくれる」
見事に騙されたと感心した。不謹慎に浮かぶ笑みを隠すように、口許を手で押さえた。
王の元で、あんな恭順で大人しい姫君が厳重な警備を掻い潜って抜け出せるはずがない。犯人は一体どうやって姫を拐ったのか。右往左往する連中をハサラは内心で笑った。
(こいつらもよく騙されたな)
あの身のこなしと海千山千の政治家をも騙す演技力、頭の回転があれば、王宮を抜け出せるだろうと思う。そのまま旅に出れば、芸で暮らしていける。多少の揉め事もナイフ捌きを見た限り、切り抜けられそうだ。安全な場所まで油断なく抜かりなく行ける。
そうなると、自分はまんまと十も下の花嫁に出し抜かれて逃げられた王になる。はは、と笑いが止まらない。おかしくてしょうがなかった。
王宮の精鋭が揃いも揃って、二人の少女に逃げられたのだ。それもこの国で預かった以上、責任はこちらにあり、隣国には姫を拐われ守れなかったと非難できる材料を与えることになる。━━とんだじゃじゃ馬姫で、随分と楽しい正妃もいたものだ。
「ぜってー、捕まえてやる」
ハサラは獰猛な笑みを浮かべた。
ここまで来ておいて逃げるなんて、許さない。一度は自分の手元に来たのだ。このまま逃げおおせると思うなよ、じゃじゃ馬姫。
ハサラは王に願い出た。自身で姫を捜索する許可を。
特に仲睦まじくもなく今まで放置していたから、きっとこれ幸いとこれまでのように好き勝手に女に手を出して側室を抱えるつもりと思っていた王や臣下たちが驚いた。
だが王は、すんなりと許可した。
「好きにしろ。ただし、期限は三ヶ月。それ以内に見つけて連れ戻せなければ、お前は此度の責任をとって廃嫡。私の弟を太子に据える。捜索を諦めて期限内に戻るなら、別の妻を迎えろ」
それまでは、この事は外部に漏らさずにしておく。しっかり通常業務もこなせと告げた父にハサラは頭を下げた。
「御意」
顔を上げたハサラは、楽しげに挑むように笑った。
かくして、じゃじゃ馬姫の逃亡劇と俺様王太子の捕物劇が幕を開けた。
王太子が許可を貰って旅支度をしたその頃、当のじゃじゃ馬姫は予定通り、隣国の国境でかつての家族と一年ぶりに再会した。そうしてそのまま旅芸人として、旅に出る。
故郷でも隣国でもない、別の国に。頼もしい仲間たちと共に。
「イシファ様、追っ手がかかったらどうします?」
「お互いに興味なかったし、そんなのないと思うけど。むしろ今頃、自由の身になったと早速、他の女性と遊んでそう」
「そうでしょうか。噂は聞いておりましたが、イシファ様がこの国に来てから、女性が嫉妬して突っかかってくることはあっても、ハサラ王太子殿下は一度も他の女性と浮き名を流していませんでしたよ。害そうとする者から婚約者としてイシファ様を守り、正当に扱っておいででした」
「そうね。義務だとは思うけど、公私を分けていたわね。仕事が出来たのは本当みたいだし」
「はい。ですから、捜索隊が結成されて追ってくることもあるかと」
イシファが何か確信しているような侍女を、意外そうに眉を上げて見た。だが、答えは決まっていた。イシファは楽しげに笑う。
「もし万が一そんなのが来ても、逃げるに決まってんでしょ。王女ですら面倒なのに、王妃なんかやってらんないわ」
自信満々に答えるイシファに、「玉の輿が」「勿体ない、いい男なのに」と苦笑する一座の面々。
賛成してくれると思ったイシファは、かけられた言葉に心底嫌そうな顔をした。
「側室だらけになりそうな奴の嫁になるなんて願い下げ! お飾りな妻なら要らないでしょ。絶対逃げきってみせるわ!!」
決意も新たに叫ぶイシファ。
片や、旅装で少人数の共と王宮を後にしたハサラ。
「あんな面白いの他にいない。必ず見つけて正妃にする!」
「はぁ、それに付き合わされるオレが可哀想。まさかお前がロリコンに目覚めるなん…っで!? 何すんだよ、ハディード!」
「口を慎め、シュルト。それで殿下、どちらに向かわれるので?」
「取り敢えず、逃げるなら本格的にこの国から出そうだから、国境だな」
「幸い、イシファ姫が失踪したことは騒ぎになってませんから、急ぎ王宮に戻っていただくとしましょう」
「まさか最初から脱走するつもりで嫁いでくるとはなぁ。やるなぁ、あのお姫様。でもよ、何で大々的に指名手配して、人海戦術にしなかったんだ? その方が早く見つかるだろ」
首を捻るシュルトに、ハサラはニッと意地の悪い笑みを浮かべた。
「こちらを出し抜いてしてやったりと思っているんだ。油断させといて『お迎えに上がりました。ご無事で何よりです』とでも言って、何事もなかったように王宮に連れ帰ってやった方が、あのじゃじゃ馬にとっては屈辱だろう」
「うわー、鬼畜だな。可哀想に」
「ハサラがこうなのは今に始まったことではない」
護衛と側近がこそこそと話すのを無視して、ハサラは不敵に笑った。
「絶対捕まえてやるから、首を洗って待ってろよ!」
捕まえて悔しがるイシファの姿を見るのを楽しみに、ハサラは馬を駆った。
両者ともに意気込んでいた。
こうして、傍迷惑な追いかけっこ、もとい、派手な逃亡劇、或いは捕物劇がこっそり始まった。
変態、ヒーロー怖いという苦情は受け付けません。(・・;)
怪盗ものにしようかとも思ったのですが、何となくワガママで無責任に全部パアーッと捨てて王女様に脱走してほしい気分だったので、こんな感じに。
脱出大成功ですね。
捕まるか逃げ切るかは、お好きにご想像ください。
因みに、深い意味はありませんが、ハサラは獲得するという意味です。捕まえても面白そうですし、逃げられても面白そうですね♪