2 ギムレット
重い樫のドアを開けると、そこはもう大人の空間。
照明の落とされた店内に、低く流れるのはスタンダードジャズ。
カウンターの向こうには、寡黙なバーテンダーがひとり。
その背後には、見たことのない銘柄の酒瓶が所狭しと並んでいる。
いらっしゃいませ、と案内されたのはカウンターのほぼ真ん中。
週末の夜。なのに店内にお客さんは少ない。
壁際のボックス席に二人、カウンターに一人。それだけ。
ふと腕時計を見ると、針は9時を少し過ぎたところだった。
スツールに腰掛ける私の前に、バーテンダーがコースターと灰皿を置いた。
別に一人で飲みたかったわけじゃない。
そこまでして飲みたいと思うほど、お酒が好きなわけでも、強いわけでもない。
ただ、今夜はまっすぐ家に帰りたくなくて。
無意識にオーダーしていたカクテルを私は黙って見つめる。
手つかずのグラスの中で氷が溶けて、水滴がコースターを濡らしていた。
「-呑まないの?」
突然聞こえた声に、私は顔をあげた。
振り返ると、私の後ろに男の人が立っていた。
「せっかくのカクテルなのに。」
彼の目は、私のグラスを映している。
私は曖昧に笑った。
「それとも、別のが呑みたくなったとか。」
「・・そういうわけじゃ・・」
「ここ、座っていい?」
答える代りに私は頷いた。
ありがと、って短く答えると、彼は私の隣に腰掛ける。
さっきまでカウンターに座っていた彼だと気付いたのはその時だ。
バーテンダーが、彼の席にあった呑みかけのグラスを持ってくる。
それは、緑色のきれいな色のお酒だった。
「きれいな色。ライム?」
「うん。」
彼は無邪気な笑顔を私に向けた。
けれど、暗い照明の下で煌く目はどこか危うさを感じさせて。
なんだろう。
背中を駆け上がってくる言いようのない感覚に、私は僅かに眉を寄せた。
彼のほっそりした長い指が、チャームのチョコレートを一粒摘む。
なんでもないそんな仕草さえ、妙に艶めいていて。
男の人なのに、なんて色気のある人なんだろう。
「君のはジンライムだね。」
私のグラスを見て彼は笑う。
よく見れば、ふたつのお酒は似ていた。
違いと言えば、私のグラスはオールドファッションドグラスで、彼のはスリムなカクテルグラスっていうくらいで。
「あなたのは?」
「ギムレット。」
ああ、と私は納得する。
似ているはずだ。ふたつのお酒はベースは全く同じ。ジンとライムジュース。
そのまま飲めばジンライム、シェイクすればギムレットというカクテルに変わるだけ。
「君はシェイクしないほうが好き?」
「そういうわけじゃないんですけど。私にはまだ-」
「“ギムレットには早すぎる?”」
目の高さにグラスを掲げる彼に、私は笑いかける。
彼が何を言ったのか、すぐにわかった自分を褒めてあげたい。
「長いお別れ、ですね。レイモンド・チャンドラーの。」
私がそう答えると、彼は目を瞬かせた。
「驚いた。君みたいな女の子でも知ってるんだ。」
「チャンドラーは好きな作家なんです。映画も見ました。もちろんDVDだけど。」
「へえ。」
彼の目がほんの少し熱を帯びたような気がする。
意外そうな、楽しそうな。
そんな彼の眼差しに、私もなんだか嬉しくなった。
「有名なセリフですよね。」
「そうだね。」
私を見つめながら、彼はギムレットを一口飲んだ。
彼の上下する咽喉がなぜか目を惹いた。
「君はどっちのセリフだと思う?」
彼の問いかけの意味を私は正確に理解することができた。
あまりにも有名なこのセリフ。けれど有名すぎて、セリフだけが一人歩きしてしまったから、「誰のセリフか」を誤解している人は多いと思う。
主役の私立探偵マーロウのセリフだと思っている人が多いけれど、実際は「誰」の言葉か特定されてはいなかった。
「私はレノックスが言ったんじゃないかなって思います。」
「どうして?」
「だって、レノックスはマーロウに遺書を送ってるでしょ?“自分を忘れてギムレットを呑んでくれ”って。ギムレットは二人の友情の証みたいなものだし。でも彼は生きてた。だから再会したマーロウに対して、まだ忘れるには早すぎるって意味をこめたんじゃないかなって。」
「なるほどね。」
私の回答に満足したのか、していないのか。
彼の表情から読み取ることはできなかったけれど。
でも少なくとも、「私」は彼の関心を惹いたらしく。
それまで正面を向いていた彼の体は、私のほうに向き直っていた。
「でも、それならマーロウが言ってもおかしくはないよね?」
「それはそうですけど・・・」
確かに彼の言うことにも一理ある。
どちらが言ってもおかしくはない状況、そしてセリフでもあって。
私が口ごもっていると、彼は本当に楽しそうに笑った。
「別に君を責めてるわけじゃないよ。」
グラスに残っていたお酒を一息に飲むと、彼はおかわりをオーダーする。
同時に、すっかり氷が溶けて水っぽくなってしまった私のグラスを横におしやると、バーテンダーに「もう一度同じものを」と告げた。
「君っておもしろい子だね。」
「そうですか?」
「うん。僕は好きだな、君みたいな子。」
まるで世間話をしているような気軽さで、彼はそう言った。
言われた私が拍子抜けするくらい、それはあっさりとしていて。
彼にとっては、それこそ日常会話の延長でしかなかったのかもしれない。
けれど、彼の艶めいた瞳に見つめられていると、なんだか身体の奥が熱くなってきて。
なんでもない彼の言葉ひとつひとつに、深い意味さえ込められているような、そんな気さえした。
バーテンダーが私たちの前にグラスを置く。
彼がオーダーした二杯目のギムレット。
なんでそんな事をしたのか、自分でもわからないけれど。
鮮やかな翡翠色したそのグラスを彼が手にする前に。
私は、自分のグラスを彼に差し出した。
「-なに?」
彼の瞳が訝しげに私を見る。
私はごくりと咽喉を鳴らした。
「・・・こっちを呑んでください。」
「僕がこれを?」
なんで僕が?と言いたげな彼の手に、半ば強引にグラスを押し付けると。
私は、彼がオーダーしたギムレットを手にした。
「君がそれを飲むっていうの?」
怒っているのではなく、むしろ驚いたように彼は眉をあげる。
私は答えず、グラスを手にしたまま彼から視線を逸らした。
-まっすぐ彼を見ることなんかできなかった。
「・・・ふうん。」
彼の視線を感じながら、私はグラスを口へと運ぶ。手が震えているのが自分でもわかった。
その手を彼の手がそっと掴んだ。
「こっち向いて。」
彼の囁きが耳元に響く。あまりの距離の近さに私が驚いている隙に、彼の手が私からグラスを取り上げる。
そのままグラスの中身を半分ほど飲み干した。
「君って本当に面白い子だね。」
グラスをテーブルに置いた彼の指が、ゆっくりと私の顎にかかったと思ったら。
抵抗する間もなく顔を彼のほうに向けられた。
睫毛が触れそうなくらいの距離に彼の顔があった。
「でも、君にはまだ早いんじゃない?ギムレットも-」
-この僕も、という声が聞こえたような気がしたけれど。
吐息か呟きかわからないほど、それほど彼は近くにいて。もう唇が触れそうな距離で。
「それでもいいなら-試してみる?」
彼の吐息は甘く、そして微かに苦い味がした。