1 テキーラサンライズ
重い樫のドアを開けると、そこはもう大人の空間。
照明の落とされた店内に、低く流れるのはスタンダードジャズ。
カウンターの向こうには、寡黙なバーテンダーがひとり。
その背後には、見たことのない銘柄の酒瓶が所狭しと並んでいる。
いらっしゃいませ、と案内されたのはカウンターのほぼ真ん中。
週末の夜。なのに店内にお客さんは少ない。
壁際のボックス席に二人、カウンターに一人。それだけ。
ふと腕時計を見ると、針は9時を少し過ぎたところだった。
スツールに腰掛ける私の前に、バーテンダーがコースターと灰皿を置いた。
お店に入ってはみたものの。
実はこういうお店にひとりで入ったことはなくて。
内心はすごくドキドキしていて。
渡されたメニューを見ても、正直なにを頼んでいいかわからないくらい。
とりあえず。
聞いたことのある名前のカクテルをオーダーしようと思い、メニューから顔をあげると。
目の前に見慣れぬ男の人の顔があって。
私は心底驚いた。
「な、なに・・・」
「こんばんは。」
いつのまに移動してきたんだろう。
それは、さっきまでカウンターの端に座っていた男の人だった。
「ひとりか?」
手にしたグラスを玩具のように揺らしながら、彼はにっこりと笑った。
まるで夏の陽射しのような、そんな笑み。
初対面にも関わらず、なぜか私は警戒心の欠片も抱くことがなくて。
気付けば素直に頷いていた。
「こういう店は初めてか?」
彼の掌でグラスが乾いた音を立てる。
人懐こい瞳が私を見つめていた。
「・・・はい。」
ちょっと迷ったけれど、今度も私は正直に答えた。
こんなところで見栄を張っても仕方ないし。
「そうか。」
それは予測していたのだろう。彼はそれほど驚くことなく、私の手からメニューを取り上げる。
「酒は飲める方なのか?」
メニューを見ながら彼が言う。私は首を振った。
「あんまり強くはないです。」
「そうか。」
彼はメニューを閉じると、バーテンダーに向かって何事かを囁いた。
「腹は減ってないか?」
「大丈夫です。ごはんは食べてきたので。」
「そりゃ良かった。」
初めて会う人なのに。
なんでこんなに気軽に喋っているのか、自分でも不思議だったけれど。
彼の屈託のない笑顔は、私を安心させた。
「空きっ腹で呑むと悪酔いするからな。」
「そうですね。」
そんな他愛ない話をしていると。
バーテンダーが私の前にグラスを置いた。
それはオレンジ色の綺麗なカクテルで。
まるで朝焼けに包まれる海を思い出させる、そんな色だった。
「きれい・・・!」
「テキーラサンライズだ。」
そう教えてくれた彼の前には、バーボンのロック。
琥珀色の液体の中で、丸い氷が揺れていた。
「これなら酒に弱くても呑みやすいだろ。」
「でも、テキーラって強いお酒じゃ・・・」
お酒に詳しくはないけれど、それでもテキーラの名前くらいは知っている。
アルコール度数、結構高かった気がするけど。
そんな私の不安を見透かしたように、彼はあいかわらず笑みを浮かべたまま、私の頭をくしゃりと撫でた。
人に頭を触られるのって、普段ならすごく抵抗があるのに。
なぜか彼に触れられるのは嫌じゃなかった。
「心配すんな。ゆっくり呑めば大丈夫だ。」
「でも・・・」
「酔ったら俺が介抱してやるよ。」
冗談めかした彼の言葉に、私は笑った。
なんでだろう。
初めて会ったとは思えない安心感と、不思議なあたたかさ。
全てを包んでくれるような彼の視線を感じながら、私はグラスに手を伸ばした。
ゆっくりとグラスを傾け、お酒を口に含ませると。
オレンジの甘さが口の中に広がったかと思うと、すぐ後にテキーラの刺激が舌を刺した。
でもそれは思った以上に呑みやすくて。
私は思わず目を瞬かせた。
「-美味しい!」
「だろ?」
そんな私を見て、嬉しそうに彼は笑った。
まるでお日さまみたいなその笑顔から私は目を離すことができなくて。
いつの間にか彼の腕が私の背中にまわっていたことにさえ気付かず、私は彼を見つめ続けていた。
「-そんなに見つめられると、さすがの俺も照れるんだがな。」
そう言いつつ、彼の表情には照れた様子なんか全然みられなかった。
彼の大きな掌が私の頬に触れる。
ロックグラスを手にしていたからだろうか。その掌はひんやりと冷たかった。
「・・・こういう出会い方は初めてか?」
彼の声が耳元に響く。
どこか艶を含んだその声は、耳たぶを掠める熱い吐息と一緒に、私の体を強張らせたけれど。
それでも、その手を拒むことなんて考えもしなくて。
背中に回っていた彼の腕が、私の肩を抱き寄せる。
抵抗することなく。私は彼の体にもたれかかった。
「-安心しな。優しくしてやるから。」
そう言って、そっと私に口付けた彼の唇は甘く、そして僅かに苦く。
まるでこのお酒みたい。
閉じた瞼の裏側に、朝焼け色のグラスが見えた気がした。