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真田昌幸

真田昌幸(以下昌幸):(……家康に従うぐらいなら上杉に味方するのだけど……)

           (一応、秀頼様の。)

           (……である手前。仕方のないことではあるけれども)

           (……大名と言われているとは申せ)

           (使われる身は損な役回りにだよな……)

と下野にやって来た昌幸の手元に

一通の手紙が届けられるのでありました。


昌幸:(……三成からか……)

「秀頼公を蔑ろにする反逆者家康を討ち果たすのに協力願いたい。」

との書状を受け取った昌幸は

昌幸:(……お前は曹操か?)

   (……とは言え。

    このまま家康の思うがままにしておくのも面白くないからな……)

と、三成側に与することを決意した昌幸は

2人の息子に同意を求めるも

徳川家康重臣・本多忠勝の娘を妻に持つ長男・信之が難色を示したこと。

もし仮に

幸村の義理の父・大谷吉継が下野に下向し、

家康に従っていたのでありましたら

昌幸が西軍に与することも無く、

もっと言いますと

吉継以外。

大名関係で

これと言った友達の居ない

三成が兵を挙げることは無く、

家康の寿命が尽きるまで静かに暮らしていたら

その後の歴史は変わっていたのかもしれませんが


現実の世界は

大谷吉継は三成に説得され家康との戦いを決意。

その吉継の娘を妻に持つ幸村は西軍。

本多忠勝娘を妻に持つ信之は東軍と別れ、

昌幸は三成の要請に応じた手前。

幸村と行動を共にすることになりました。


下野から上田に帰る途中。

(……どうせ敵になったのだから、この際)

とばかりに

袂を別つことになりました信之の居城

沼田城の入口に立ち、

昌幸:「孫の顔を見に来た」

と門を開けることを願い出るも

既に情報を得ていたと思われる

信之夫人に

昌幸の思惑を見透かされ、

信之夫人:「言葉使いが丁寧な内に立ち去ってくださいね」

と断られ、

昌幸:「さすが蜻蛉斬の娘」

の捨て台詞を残し、上田に戻った昌幸は

来るいくさに備え準備を進めるのでありました。


9月。二手に別れ西上を目指す徳川の一軍。

秀忠3万8千が中山道を進み、

昌幸の居城。上田城にやって来た秀忠軍は

昌幸に対し、降伏を勧告。

これを認め、恭順の意を示したことに喜んだ秀忠軍はそこで

上田開城の時を待つも、

その気配は無く、

再度使者を送った秀忠に対し昌幸は

昌幸:「降伏する気などさらさらない。」

   「どうしても欲しいなら攻めてくれば良い。」

と挑発。

まんまと引っ掛けられた秀忠は

上田城に兵を推し進めるも

場内の乱杭と上流の堰を切り落とすことによって増水した川により、

徳川方が身動きを取ることが出来なくなったところに

上田城内から真田軍が出撃し、

孤立した徳川軍は……

の15年前を再現することに成功した真田軍。

に対し、

1つの城に固執したため

2週間近い月日を無為に過ごすことになった秀忠軍。


以上のような大戦果を挙げることに成功した真田昌幸でありましたが

1つの誤算が

彼の運命を暗転させる事態に相成りました。

関ヶ原の戦いにより

家康がたの勝利が確定した。


15年前の上田城の戦いにおきましても

似たような戦果を挙げることに成功したのでありましたが

その時代の第一人者は豊臣秀吉。

たとえ家康と敵対し続けることになりましても

拠り所にすることの出来る相手が居たのに対しまして

今回の場合。

たとえ上田城で徳川がたに勝ったとしましても

その後の裁定を下す権限を持っているのも

徳川がたの総大将

徳川家康。


今回の上田城の戦いで打ち破った相手は

次の天下人たる

徳川家康の世子

徳川秀忠。


そんな秀忠が今後。

生涯に渡って背負わなければならない恥辱。

関ヶ原の決戦に間に合わなかった……。

の最も大きな要因を作ったのが

真田昌幸。


これは関ヶ原以外で繰り広げられました

各地の戦いに共通して言えることでありますが

1日で決着が着くことになるとは誰も考えていなかったこと。

応仁の乱とは行かないまでも

収拾が着くまでには

年単位で月日を要することになる。

と考えられた武将が数多く存在していたため、

たとえ勝者の側に属していたとしましても

伊達政宗のように

都合の悪い事実の揉み消しに躍起にならざるを得なかった大名が存在していたこと。

勝者の側であっても。

でありますので


敗者の側に属することになりました

それも

勝者の後継者たる秀忠を辱めることになりました昌幸が

その後。

待ちうけることになるであろう運命は

如何様なモノであるのか?

交通事故で処理されるのであればまだしも。

全国ニュースで生中継。

更には

SNSを通じ全世界に配信される

と言いました

政権側のプロパガンダに利用されることが

容易に想像された昌幸は

捕らえられるぐらいなら

上田城を枕に討ち死にするのみ。


と籠城を決意するも

ここで生きましたのが

血縁。

長男信之と信之の義父忠勝のロビー活動が功を奏しまして

死一等は免じられ、

配流先の九度山にて

その生涯に幕を下ろすのでありました。

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