過去1・伯爵令嬢クリスティーナ・ヴァリエス
食堂で、銀のナイフが皿をこする音が響いている。
春を思わせる華やかなドレスをまとった少女が、長机の前の椅子に腰かけていた。見た目は、7、8歳ほどだろう。
艶のある黒髪はていねいに編み上げられ、リボンで飾られている。
かかとはまだ床に届いておらず、その厚底の靴の先端だけが床についていた。少女の赤色の瞳は、半ば隠すように瞼が伏せられている。
「クリスティーナ、魔法学院の入学許可が出たそうだな。学長から書状が届いたと、家令から連絡があったぞ」
少女にむかってそう声をかけたのは、長机の奥に座っている壮年の男だった。
黒髪は後ろに撫でつけられており、上品な顔立ちには整えられたヒゲがあった。丈の長い上着からは白い襟巻きが覗いている。
「――はい、お父様」
ティナは消え入りそうな声で、そう答えた。
「まあ、当然のことだがな。お前は生まれた時から、魔法使いになることが決まっている」
この国では、生まれて間もなく戸籍を作るときに、一緒に魔力量も調べられる。
そこで才能があると見込まれた子は定期的な検査をされ、入学時に一定の魔力量があると認められると、正式に魔法学院への入学許可がおりるのだ。
「そのために高い金を払い、つても使って、あらゆる魔法書の写しを手に入れてきたんだ。お前には家庭教師もつけて、最高の教育を施してきた。魔法使いになってもらわなければ困る」
ヴァリエス伯爵は、尊大にそう言った。
ティナの顔がますます下に向く。
窓から朝陽が差し込み、長机の上の豪華な料理を照らしていた。
内陸地にあるヴァリエス領では貴重な魚を使ったパテ。腸詰肉。子羊のロースト。豆のスープ。ふわふわの焼きたてパン。新鮮な野菜のサラダ。プディングとケーキ。
近頃は、王都では1日3食を推奨されているようだが、ヴァリエス伯爵は古風な考え方の持ち主だった。食事は1日に2回。午前中の食事がもっとも重要だと考えている。
庶民には味わえないような豪華な食事のはずなのに、ティナは砂を噛んでいるような気分だった。それはいつものことだ。ティナにとって、食事というものはそういうものだった。
ティナはフォークとナイフをおいて、無理やり笑みを浮かべる。
「お父様のご期待にそえますよう、せいいっぱい、努めさせていただきます」
「当然だろう。努力なんて当たり前のことを口にされても困る」
ヴァリエス伯爵は、そう娘の一言を一蹴した。
ティナの肩がびくりと震える。
「あ……ご、めんなさい」
「謝るな。貴族は自らの非を認めてはならない」
そっけない口調で父親に言われて、ますますティナは縮こまる。
(お父様は、謝らせてもくれない人だ……)
相手に失望すれば、あっさりと切り捨ててしまえるような非道なところがある。それは娘のティナに対しても例外はない。
ヴァリエス伯爵はため息を落として、娘をじっと見据える。
「――10年やる。その間に、魔法使いになれ。それができないのなら、どこかの貴族の子息と結婚してもらう。学生だと社交界にも出すことができない。結婚を考えるとギリギリの年齢だからな」
半年後、来年の春からティナは魔法学院に入学する。それから10年と考えると、ティナが18歳になるまで、ということだ。
「……はい、お父様」
か細い声で、ティナはそう返事をした。
◇ ◆ ◇
「お嬢様」
食堂から出るなり声をかけてきたのは、黒い使用人のワンピースをまとった30歳ほどの女性だった。
ティナの乳母であり、現在は側付きの使用人である、アンだ。
どこか心配そうな表情をしているアンに、ティナは微苦笑しながら肩をすくめてみせる。
きっと、食堂での会話を聞かれていたのだろう、と思ったからだ。給仕をするのはいつも家令だったが、今日はアンが厨房からワゴンに料理をのせて運ぶ役目をしていた。
「これから忙しくなるわね。もうすぐ家庭教師の先生がくる時間だから、もっと勉強時間を増やすことを伝えなきゃ」
「けれど、お嬢様。もうこれ以上、勉強のお時間をとることはできません。睡眠時間まで削ることになってしまいます」
「……私は天才じゃないもの。ここで勉強しておかないと、とても学院の授業についていけないわ」
ティナは顔を強張らせてそう言った。
貴族の子女ならば、本来、家庭教師に教わるのは、文字の読み書きや、立ち振る舞い、社交界に出るときに必要になるダンスの踊り方だ。
ティナは、それらは勿論こなした上で、魔法使いになるための勉強をしている。自分のための時間などほとんどない。
ティナは、まだ8歳とは思えないほど聡明な子供だった。
知能は高く、大人も読み解くのに難儀する魔法書を読みこなすほどの優秀さがある。
これなら入学してからも講義や演習にもついていけるだろう、と最近では家庭教師からも言われている。けれど、まだティナには不安があった。
(もっと勉強しなきゃ。お父さまのご期待にこたえるために……)
アンは何か言いたげな顔をしていたが、ティナは首を振って彼女の言葉を止めた。
「……話の続きは、後にしましょう」
ティナの父親は、厳格な男だ。使用人と気軽に廊下で長々と立ち話をしているところを見られたら、咎められてしまうだろう。彼にとっては、目下の存在は対等に口をきける相手ではない。
ティナが、アンを引き連れて私室に戻ろうとしていた時だった。
廊下の向かいから、華やかなドレスをまとった女性が歩いてくる。
絹と羽でつくられた豪華な扇を揺らがせ、榛色の髪を後ろにまとめあげていた。その顔の上部を覆うのは、羽のついた艶やかな仮面だ。
「あら、クリスティーナじゃない」
彼女はティナを目にとめると、口元に弧の形にあげる。
ティナはつつましい笑みを浮かべると、そっとドレスの端を持って、実母でありヴァリエス伯爵夫人に挨拶した。
「お母様、おはようございます」
「ええ、おはよう」
「夜会に行かれていたのですか?」
「そうよ」
夫人は、くすくす笑う。その瞬間、お酒の香りがふわっと漂い、まともにそれを吸い込んでしまって、ティナは目眩がした。
朝から夜会用の仮面をかぶっているのだから、母親の朝帰りは明白だった。
ティナは母親に近づいていく。
「お母様。私、正式に魔法学院の入学が決まりました」
「そうなの? おめでとう」
だが、母親の返事はティナが思っていたよりも、そっけなかった。
途端に、ティナは表情をくもらせる。
夫人は、膝を屈めてティナに耳打ちした。
「ねえ、クリスティーナ。お父様は、貴女を魔法使いにさせたがっているけど……それは何故だか、知っているかしら?」
ティナは居心地が悪くなり、わずかに身じろぎした。しかし、母親から目は逸らさない。
「……わかりません」
「お父様はね、昔は魔法使いを目指していらっしゃったの。でも、なれなかった。だから、貴女を魔法使いにさせようとしているのね」
「そうなのですか……?」
「ええ。――それに、王太子妃の地位も狙っていらっしゃるのでしょう。ただの伯爵令嬢より、『魔法使い』のご令嬢の方が、価値があるもの。そうなると、王家が囲いたがるかもしれないわ。女性の魔法使いは貴重ですものね。まだ幼い王太子と、どこのご令嬢がご婚約なさるかって、いま社交界では1番の賭け事だもの」
扇を口元にあてて、母親はティナの耳元でそうささやいた。
ティナは目の前が暗くなった。自分が父親の駒にされていることを、いやが上にも感じられてしまう。
「可哀想な子」
夫人が、そう呟いた。
ティナは足元が沈んでいくような心地がした。
自分がいるのは豪華な邸などではなく、砂の城ではないかと思えてくる。自分の存在も、自分の努力も、意味がないもののように感じられた。
母親は扇を閉じて、どこか憐れむように目を細めた。
「クリスティーナ。魔法使いになるのはやめなさい。一応娘だから、忠告しておいてあげるわ。私のように、どこかの貴族と結婚して、子供を産んだら後は好きに暮らすの。それが貴族の女にとって、一番賢いやり方なのよ?」
貴族ならば、よくある話だ。
結婚とは家を存続させるためにする義務であって、伴侶を愛することまでは仕事ではない。
跡継ぎを産んだ後は、子育ては乳母にまかせる。そしてその後の私生活には互いに目をつむり、干渉しない。
――ティナには、母親に抱いてもらった記憶がない。
ティナは拳を握りしめて、震える声を漏らす。
「でも、私は……魔法使いになることが……お父様のご意思が、私の夢ですから」
母親は、途端に冷めた表情を浮かべた。
「……つまらない子。本当に父親そっくりね」
ティナは、冷水を浴びせられたような気分になった。足元がぐらつき、立っているのがつらくなる。
「お母様……」
「髪の色も父親そっくりで、私にはちっとも似ていないもの。まったく可愛げがないわ。ああ、その不気味な赤い目だけは、どちらにも似ていないわね」
「――お母様、私は……」
「もういいわ。下がりなさい」
そう言うと、母親は使用人を引きつれて去っていく。父親がいるはずの食堂にも寄らない。そのまま私室に戻るつもりなのだろう。
誰もいなくなった廊下でうつむいていると、ティナの手にそっとふれる人がいた。アンだ。
ティナは顔をあげて、乳母を見つめた。
「アン……」
本来ならば、使用人が着替えの時など以外で、無意味に仕える者にふれることは許されない。
そんなことをしていることを知られれば、アンは家令から怒られてしまうだろう。
けれど、そんな危険をおかしても慰めようとしてくれたことに、ティナは心があたたかくなるのを感じた。




