脱走の果てに
ここまでくれば大丈夫だろうと、壁に設置されている燭台のひとつを借りることにした。こういう燭台は取り外しがきくものだ。
さすがに地下に降りるのに明かりがないのは心もとない。
階段下にある扉は、ドルシアの腰ほどの高さしかなかった。扉のなかは薄暗く、石階段がずっと下まで続いている。
どこかに換気口があるのか、肌寒い空気が扉の奥から流れてきていた。
ドルシアは気を引き締めて、石階段を一歩ずつ降りていく。
邸内の豪奢な造りに比べると、地下はとてもひっそりとしている。
上部には梁がめぐらされ、階段の途中の踊り場には麻袋がつまれている箇所もあった。人に見せるような場所ではないことは一目瞭然だ。
とうとう、最後の一段を降りると、左手にひらけた空間があった。
燭台を掲げて、周囲を見まわす。少し広めの物置のような場所だった。壁には本棚のようなものや、甲冑がおいてある。
――そして、とうとう目的のものを見つけた。
「あった……!」
部屋の中央に、石の台座が備えつけられている。
魔法文字が刻まれた石版――魔具だ。
ドルシアが近づき、手でふれると石版に刻まれていた魔法文字が光り輝いた。
部屋いっぱいに魔法陣の光が満ちているので、もはや燭台は必要ない。ドルシアは石床の上に燭台をおいて、魔法文字を読み解いていく。
「これで、王都にもどれる……っ」
興奮で、顔が熱くなるのを感じた。
たしかに目的地は王都を指している。しかも、座標だと王城の一室だ。
はっきりとした到着地点までは、今は細かい計算ができないのでわからなかったが、地下になるのかもしれない。
(順調すぎて怖いほどだわ……)
ドルシアは魔法陣の欠けた一文を見つけることができた。
石版の上に立つと、魔法陣がまばゆく輝く。肌を撫でていく魔力の感覚に酔いしれた。
大きな魔法をつかうときは、いつもそうだ。目には見えない精霊たちが騒ぎ出す。
周囲に集まってきた精霊たちが、魔法を行使するのだ。魔法使いは魔力を差し出し、魔法文字で道をしめし、精霊を使役する。
『目指す地は、フィルディル王国の……』
転移呪文を唱えはじめる。
だが、急に魔法の力が掻き消えた。
「え……?」
『それは悪魔の囁き 全てを闇へ 聖者は地に堕ち 奈落と果てる』
その声の主の存在に、ドルシアの身が凍りついた。
彼が唱えたのは、魔法を無効化するための反意呪文だ。それで、ドルシアが唱えた呪文が無効化されてしまった。
おそるおそる背後を振り返ると、いつの間にそこにいたのだろうか――エルドワードが、階段の下に立っていた。
彼の顔に浮かんでいるのは、悠然とした微笑みだ。けれど、その瞳はまったく笑っていない。
「ねえ、どこに行こうとしていたの? ティナ」
「……っ」
息を飲み、その場から逃げようとした。
けれど、唯一の出入り口である階段の前に、エルドワードがいる。
急いで転移呪文を唱えるのも、分が悪い。これは彼がつくった魔法陣だ。即興で呪文を解読しながら唱えているドルシアより、はやく詠唱されてしまう。
「エ、エルド……」
一歩だけ後ずさりしたが、そのまま恐怖で腰が抜けてしまった。
エルドワードがどんどん近づいてくる。
彼はドルシアの目の前に立つと、そっと手を伸ばしてきた。その指が、ドルシアの首筋から肩までを撫で降ろす。
びくりと震えるドルシアの耳元で、エルドワードは猫撫で声で笑う。
「――逃げたりしないよね?」
呆然として頷くことも首をふることもできない。
何だか、目の前にいるのがまったく知らない男のように見えて、恐ろしかった。ドルシアの知っている幼なじみの彼は、こんな雰囲気の男ではなかった。
無抵抗のドルシアに気をよくしたのか、エルドワードはドルシアを抱き上げる。
「きゃ……っ」
とっさに、彼の肩に手をまわした。
エルドワードが笑うような気配が伝わってきて、理由のわからない羞恥心が込みあげてきた。
思考を混乱させたまま、ドルシアは言う。
「わ、わたしは……もどらないと」
急に、首筋にかるい痛みを感じて、ドルシアはうめいた。エルドワードに噛みつかれたのだ。
放心していると、じくじく痛む喉を舐めあげられる。
若葉色の瞳は獣じみていた。
「これでもね、僕はきみに対してすごく手加減しているんだ。鎖につないでも駄目、軽い自白剤でも駄目なら……どうしたらいいかな? どうすれば、きみを閉じ込めておけるだろう」
「や、やだ……」
「きみが逃げようとしなければ、ひどいことはしないから」
逆に、逃げたら容赦しないということだ。
ドルシアは首を振った。その拍子に、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
エルドワードはドルシアを抱き上げたまま、階段をのぼっていく。
夜明けが近づいているらしく、玄関ホールの窓からはうっすらと明るい光が差し込みはじめていた。藍色と橙色のまざった、夕焼けにも似た色だ。
ふいに、ホールの壁際に置き物のように控えていた召使いの少女が近づいてくる。
黒色のワンピースに、スカートと同じ丈の白いエプロンをまとっている。頭髪はすべてまとめられて、ボンネットに入れられていた。
彼女は、エルドワードに向かって深く腰を折った。
「ご主人様、お食事と湯の用意ができております。どちらになさいますか?」
「そうだな。まずは、食事を部屋まで運んでもらえるかな?」
「承知いたしました」
ふたりのやり取りに、ドルシアは目を丸くする。
エルドワードは地下にやってきてから一度も離れていなかったというのに、召使いの少女は食事と湯の用意を済ませていた。
それはつまり、エルドワードがドルシアを監禁していることが使用人たちに――いや、少なくとも、この目の前の少女には知られているということだ。
考えてみれば、誰かを監禁することは簡単なことじゃない。
エルドワードは貴族の例にもれず、炊事や洗濯といった細々としたことは召使いに任せている。
彼自身がドルシアを隠すために彼女に関わることをすべて一人で行おうとしたら、かならず邸の誰かに不審に思われてしまうだろう。
(協力者がいたのね……)
エルドワードの発言から、彼がひとりでしているのかと思い込んでしまっていた。
もしかしたら、油断させるためにそういうふうに言っただけなのかもしれない。一度は泳がせてから捕まえ、脱走する気力を失わせるために。
ドルシアは歯噛みして、エルドワードを睨みつける。
彼は蕩けるような笑みを浮かべた。
「どうしたの、ティナ? 可愛いなぁ。じっと見つめられると困る、可愛すぎて」
……睨みの効果はなかった。
ドルシアは恥ずかしいような情けないような気持ちになり、彼から顔を背ける。
ふと、視線を感じて顔を向けると、そこには先ほどからドルシアたちを見つめている召使いの少女がいた。
ドルシアはまだエルドワードに抱き上げられている状態だ。
淑女ならば、ドレスから足首が見えるだけでもはしたないとされるというのに。
色んな感情で込みあげてきて、ドルシアの顔が紅潮していく。
それを見た召使いの少女が、すっと頭を下げた。
「お嬢様、発言をお許しください。我々、召使いのことは、お気になさらずとも大丈夫ですよ。主に関わる秘密は口外いたしません」
ドルシアに犯罪者の容疑がかかっていることを、彼女は知っているらしい。
その上で、誰かに広められないか心配しているのではないか、と考えて、そう言ってくれたのだろう。
ドルシアは慌てて首をふる。
「……い、いえ、違うんです。そのことじゃなくて、ただ……恥ずかしかっただけで」
そう返すと、召使いの少女はきょとんとした顔をする。
「恥ずかしい、ですか……? 我々は、使用人ですよ」
そのふたりのやり取りに、エルドワードが噴きだした。
「ティナ。きみって、本当に変わっているよね。誰に対しても公平で、貴族らしくないというのか……。使用人に何を見られても恥じる主なんていないよ」
どこか暗い瞳で、エルドワードはこぼした。
確かに貴族の中には、平民をしゃべる家畜のように扱う者もいる。
寝室で夫婦が夜の営みをするときも、使用人たちは壁際で置き物のように控えているのがふつうのことだった。
少し前までは、貴族が平民を殺したとしても罪に問われることはなかった。
彼らの人権をとなえられはじめたのは、最近になってのことだ。
いまでも貴族は、やはり大なり小なり身分差というものは意識している部分がある。
「でも、そんなきみだからこそ、僕は……」
エルドワードはそう言いかけて、言葉を詰まらせた。顔色が悪い。昔を思い出したのかもしれない。
召使いの少女が丁寧な礼をして、その場から去っていく。
エルドワードは気を取り直すように深く息を吐くと、ドルシアにむかって言った。
「部屋にもどろうか」
――脱走は、失敗してしまったのだ。
それをまざまざと感じとり、ドルシアは顔を俯かせた。




