囚われた花
霧雨が頬を撫でる感覚に、ドルシアは顔をあげた。
うっすらとかかっていた雲はすでに天を覆い、城下町を闇に沈めていた。
ひっそりした街路に響くのは、石畳を叩くドルシアの靴音だけだ。
すべての店が扉を閉ざし、中から蝋燭の明かりも漏れていない。
ドルシアは足首まである黒い外套をまとっていた。そのフードで顔を隠しながら、歩き慣れた大通りを進んでいく。
等間隔に並んだ街路灯には小さな魔法陣が敷かれており、魔法灯となっていた。
(宮廷魔法使いの誰かが、火の精霊をつかっているのね……)
ふいにドルシアは立ち止まり、魔法灯を見上げた。
細い柱の上部は杯のようになっており、魔法陣が宙に浮かんでいる。
「エルド……」
そこに、かつて幼なじみだった少年の気配を感じて、ドルシアはそっと息を吐いた。
呪文や魔法陣にはその魔法使いの癖のようなものが出る。よく見知った相手ならば、誰か行使している術なのかわかってしまう。
ドルシアはその魔法灯を避けるように、目深にフードを下ろした。
「行かなきゃ……」
迷わない、と4年前から決めていた。
名を変え、身分を捨て、級友を捨て、エルドワードに2度と会えないとしても。
ローブの下で拳を握りしめて、ぐっとドルシアは顔をあげた。
足早に、街路を歩いていく。
大通りから1本脇道に入ったところに、目的の酒場はあった。
店の看板もしまわれ、周囲に明かりはない。しかし闇夜に慣れたドルシアの目は、しっかりとドアノブを探りあてた。
ここが、いつもの待ち合わせ場所だ。
ドルシアが頼りにしている仲介人は、表の仕事として酒場も経営している。
彼は憲兵に睨まれないよう、魔法律に反するような仕事を魔女たちに振ることはしない。だからこそ、ドルシアも信を置いていた。
扉を押し開くと、ぎい、と金属がこすれるような音をたてる。明かりをつけていない室内に、人の気配はない。
数席のテーブル席と、カウンターにいくつか座る場所がある程度の、小さな酒場だ。
「誰か、いないの……?」
約束の時間通りにきたはずだった。
仲介人は適当な男ではない。ちゃんと時間はまもる男だ。
ドルシアは湿ったフードを払い落とし、奥へと足を進める。
人が隠れそうなところは、カウンターの影くらいしかない。
(それとも、奥の部屋にいるの?)
用心のために、いったん足を止めて、呪文を詠唱する。
いつでも発動できるように、防護魔法を準備しようとしたのだ。
『精霊の盾よ 我に力を』
輝く魔法文字が空中に現れる。それが正しい魔法陣の形をなしたとき、威力を発揮するのだ。
だが、浮いた魔法文字が、ふいに掻き消える。
「え……?」
ドルシアは詠唱を止めたわけではない。それなのに、呪文が消えてしまった。
急に、後ろから何者かに羽交い締めにされる。
「な……っ」
「久しぶり、ティナ」
耳元で、くすくすと笑うような声が聞こえた。
その声音に、ドルシアは覚えがあった。そして理解した途端、全身から血の気がひく。
(エルドワード……)
痛いほどの力で、背後から抱きしめられていた。
ようやく我にかえり、身をよじって逃げようとする。
「――会いたかった」
切なげにこぼされて、ドルシアは息を飲む。
一瞬、力が抜けそうになった己を叱咤して、手足を大きく振り回して彼を突き飛ばした。
エルドワードから距離をとる。
かつて少年だった頃の面影はなく、彼は青年として美しく成長していた。
蜂蜜色の髪と若葉色の瞳だけが、あの頃と変わらない。宮廷魔法使いの胸章がついた、仕立ての良いローブに身を包んでいる。
「……いきなり見ず知らずの女性にこんなことをなさるなんて、失礼ではなくて?」
ドルシアは、そう居丈高に言った。
人好きのする容色に笑みを浮かべて、エルドワードは肩をすくめる。
「幼なじみに何も言わず姿を消すのは、失礼じゃないんだろうか」
「――何のことをおっしゃっているのか、わからないわ」
ドルシアはそっけなく言う。
さりげなく視線を扉の方に向けた。
扉の前には彼がいる。逃げるためには、彼を振り払わなければならない。
エルドワードは自嘲のこもった笑みを漏らした。
「ひどいなぁ。僕のことを、もう忘れちゃったの? 僕は忘れたことなんて、なかったのに」
(……またこの視線だ)
息苦しくなる。
いつもエルドワードの視線が痛かった。
呼吸が難しくなって、その場から逃げ出したいような気持ちになる。
「……誰かと勘違いしているようだわ」
「思い出せないなら、思い出させてあげようか?」
エルドワードが距離を詰めてきた。
ドルシアは怖気づきそうになる衝動をこらえて、その場で彼を睨みつける。
(かつては、まったく彼に敵わなかった……)
それでも、ドルシアも4年の間に危険な仕事もこなしてきた。
もしかしたら実戦経験だって、ドルシアの方が多いかもしれない。
(……逃げ出すチャンスは、きっとある)
「きみは、本当に上手に逃げていた。痕跡は残さないし、仲介人は口が堅いし……苦労させられたよ。でも、もう終わりだ」
エルドワードが手を掲げると、魔法文字が宙に描かれはじめた。
魔法詠唱は、呪文を唱え終えるまで発動しない。
ドルシアはその隙を見逃さず、扉にむかって駆け出した。
しかし、ドアノブに手をかけた瞬間――。
「……っ!」
全身が痺れた。
その場に崩れ落ちる。
すぐには発動しない魔法が、扉に仕掛けられていたのだ。
(油断した……)
最初から、この依頼は罠だった。
ドルシアは床に倒れ込み、痺れる手足をどうにか動かして、扉の外に這い出ようとした。
エルドワードが近づいてくる。
彼は恍惚とした眼差しでドルシアを見下ろし、「……ようやく捕まえた」と、つぶやいた。




