過去2・"Who killed Cock Robin?"(side:フィリア)
R15
初めて彼を見たとき、心が震えた。
こんな人がこの世界にいるなんて、思いもしなかった。視線を浴びているだけで、体が熱をおびる。どうにもならない感情に心が震え、縫い止められたように彼から目が逸らせない。
――美しいだけの人ならば、たくさんいた。
実際、王女であるフィリアは、そんな者たちは見慣れている。
逆に、どんなにみすぼらしくとも、着飾っていればそれなりに見られる容姿になることも知っている。
(けれど、彼の美しさは違う)
きっと、内面からくるものだ。
筋のとおった鼻梁、夕暮れが迫る空のような紫紺色の瞳。それを縁どるのは、磨き上げた銅貨のような赤銅色。同じ色の髪は、後ろでひとつに束ねている。
外見は、10代後半だろう。将来を嘱望された、若き宮廷魔法使い。
ザオルグの瞳には、何かに情熱をささげた者特有の輝きがあった。そこに、フィリアはつよく惹かれてしまった。
「――フィリア王女様。私は、宮廷魔法使いのザオルグと申します。王女様は、これまで隣国にご遊学なさっていたとのこと。どうぞ、お見知りおき下さい」
青年はフィリアの前で膝をつき、騎士のように左胸に拳を押しあてていた。それは、心臓を捧げるという忠誠の証だ。
フィリアは、ザオルグが話す内容が、まったく耳に入ってこなかった。
ただ、麗しい声で鳴くのだと思っただけだ。かろうじて、彼の名前だけは聞き取ることができた。
「ザオルグ……?」
「はい、フィリア様」
彼はとても綺麗な笑みを浮かべる。
(ああ……。わたくしは……、美しいこの男が欲しい)
内側から湧いてくる激しい欲望だった。
それを人は、恋と呼ぶ。
◇ ◆ ◇
「さあ、綺麗に結い上げましたよ」
フィリアの腰まである金髪をまとめ終えると、その侍女は笑みを浮かべて言った。
鏡台についている大きめの鏡には、桃色のドレスをまとった10歳ほどの少女が映っている。
空を映したような青の瞳。さくらんぼのような熟れた色の唇。
うっすらと化粧をほどこされ、美しく着飾ったその少女は、もともとの端整な容貌も相まって、まるで人形のように見える。
「こんな子供っぽいドレスは、似合わないわ」
そう冷めた声でフィリアが言うと、侍女はびくりと身体を揺らした。
「申し訳ありません! すぐに、別のドレスをご用意いたします」
新しく用意された青いドレスは、女性らしい体のラインを強調するものだった。パニエでふくらませたスカートは、精緻なレースが重ねてある。
まだ胸元が心もとないフィリアでも、コルセットを締めれば、年齢以上に大人びて見えた。少しヒールのある靴を履くと、印象もがらりと変わる。
フィリアが人払いをすると、侍女たちは深く頭を下げて出て行く。
生まれた頃から、周りは彼女の言うことを聞く者ばかりだった。欲しいものは何でも手に入る生活。
「ああ……なんて、退屈なの」
そう呟くと、ふいに、背後から声が聞こえた。しかし、振り返ってみても、誰もいない。フィリアは眉根をよせて、天井や壁を睨みつける。
「そこにいるんでしょう? 影」
『――私はいつでも、王女様のおそばに』
抑揚のない男の声が、そう答えた。
フィルディル王は、代々、『影』という隠密集団を抱えている。けれど彼らの存在を知るのは、フィルディルの王族でも限られた者だけだ。
――この『影』の頭領は、何故か、幼少の頃からフィリアに付き従っている。王の命令でフィリアの警護をしているのか、それとも個人的な理由でついているのかも、フィリアは知らなかったが。
「ねえ、ザオルグのことを調べてちょうだい。何でもいいわ」
そう命じると、やや間を置いてから、影は『……承知しました』と答えた。
ザオルグは、何故、自分が呼び出されたのか、わかっていないようすだった。
当惑めいた表情で、フィリアの前に膝をついている。
ザオルグの肩にそっと手をおいて、彼の耳元でフィリアは微笑んだ。
「ねえ、ザオルグ。貴方は私の側付きになったの」
「――俺……いや、私が、王女様の?」
困惑した顔つきで、彼はフィリアを見上げた。
――当然だ。王女が、これほど馴れ馴れしい態度をしているのだから。
宮廷魔法使いは、基本的に特定の王族に仕えるものではなく、王家に仕えるものだ。
側付きになるのは騎士が多かったが、歴代の王族のなかには宮廷魔法使いを側付きにする者もいたから、不自然なことではなかったが。
父であるフィルディル王も、フィリアの希望に反対はしなかった。
「そうよ、これはお父様も承知のことなの。だからザオルグは、これからずっと、私のそばにいなきゃ駄目。私がきてって言ったら、すぐに駆けつけて。もちろん、宮廷魔法使いなのだから、別の仕事をすることも特別に許してあげるわ。でも、私の命令が最優先よ」
ザオルグは、ぽかんとした表情で、フィリアを見上げている。
「フィリア様……」
「貴方は、私の犬なの。もしも、命令に背くようなら、宮廷魔法使いの称号を……いいえ、魔法使いとしての資格も剥奪するわ」
ザオルグは、未だに何を言われているのか、理解できていないようだ。
(ああ……私は、彼が傷つくところが見たい)
綺麗なものは、壊したい。
新雪を靴で初めて踏みつける時は、胸が躍るものだ。欲しいものは、支配していたい。完璧に、いっそ、絶望的なまでに。
「ねえ、ザオルグ」
彼の頬に指でふれると、びくりと大きく肩を震わせた。青ざめた顔色が、彼をさらに美しく見せている。
「返事をして」
そう言うと、ザオルグはかすれた声で「……はい」と答えた。
フィリアは満面の笑みで、彼の股間をヒールで踏みつけた。呻き声を発して、ザオルグは床に手をつく。
丸まったその背中を、遠慮なく踏みつける。
「――違うでしょう?」
「な、にを……っ」
ザオルグは呆然としている。
何が起こっているのか、まるでわかっていない。
部屋にいるのは、ふたりだけだ。誰も、助けになんてこない。
フィリアは、したり顔で笑う。
「わん、って言いなさい。犬なんだから」
それから、フィリアはザオルグを好き勝手にもてあそんだ。
気が向いた時に呼びつけ、ただ純粋にお茶をするだけの時もあれば、気まぐれに身体を叩いたりする時もあった。
初潮を迎えて間もない頃は、性的なことにとても興味があったので、ザオルグに彼自身を慰める行為を強要させたこともある。
フィリアは椅子に腰かけたまま、地面に膝をついたザオルグの頬を足蹴にした。
「……っ」
「舐めて」
痛みで顔をゆがめるザオルグの頬を、素足の先でもてあそびながらフィリアはそう言った。
ザオルグが憎悪に染まった瞳で睨みつけてくる。
けれど、彼はフィリアに逆らうことはできない。結局は、フィリアに命じられた通りに、彼女の足を舐めはじめた。
「ほんとうに、犬みたいね」
いくら嫌いで憎んでいる相手でも、刺激されたら反応してしまう。それは、腹立たしいことだろう。女のフィリアだったら、とても耐えられそうにない。
◇ ◆ ◇
そんな日々が、数年続いた。
いつしか、フィリアは社交界の華と呼ばれるまでに成長していた。
14歳の誕生日は、各国から使者が招かれ、盛大に祝われる。
王族にとって、誕生日は祝い事の日ではなく、政の日だ。
慌ただしい数日間がすぎ、その最終日――フィリアの誕生日に、わずかに自由になれる時間ができた。
そのとき、何故か、無性にザオルグに会いたくなった。
だから、『影』を使って、彼の居場所を尋ねた。『影』は、ザオルグは城下町にいると答えた。
普通の魔法使いならまだしも、王女付きになったのだから、ずっとフィリアのそばにいるべきだ。
こんな大事な日なら、なおさらのこと。
フィリアは腹が立ち、突如、気まぐれを起こして、彼の元へ向かうことを決めた。
いつものように呼びつけなかったのは、ザオルグにとって、王女であるフィリア以上に大事なものが何なのか、見てやりたくなったからだ。
影に護衛されながら、容姿を隠して、フィリアは城下を歩いていた。
そして、フィリアは見てしまった。
雑踏の中で、仲睦まじく寄りそっている男女のすがたを。
――彼が、見知らぬ女と歩いている。
胡桃色の髪をした、青白い肌の少女だった。その顔色は明らかに、日のあたらない場所にいる者のそれだ。病弱なのか、骨と皮だけしかないほど貧相に見える。
――でも、彼は。
ザオルグが、フィリアが見たことのないような顔で笑っていた。
(私は、4年間も、そばにいたのに……)
フィリアは、彼のあんな表情を見たことがなかった。
しばしのあいだ、呆然としてしまう。自分らしくもなく、まったく声をかけることができない。ただ、じっと、ふたりが人垣の中に消えていく後ろ姿を見ていた。
いつの間に雨が降っていたのか、ぽつぽつと霧雨が頬をたたく。
人々は「雨だ」と曇天を見上げて、足早に家路についていた。屋台の下では、雨を避けようと人が集まっている。
石畳を打ち付ける雨の音だけが、響いていた。
『――王女様』
普段は目の前に現れない『影』が、気遣うような口調で、彼女の肩にふれた。
『――城に、戻りましょう』
気づけば、フィリアは自室に戻っていた。室内用のドレスを、侍女の手で着替えさせられていた。
昼間みた光景が、フィリアの頭から離れていかない。
苛立つような感情も、もちろんある。
(――だって、あれは、私のものだった……)
それを、他人に奪われたのだ。――いや、頭の中では、それは違うことがわかっている。最初から、自分のものではなかっただけだ。
だが、それを認めたくない。
彼が情熱をささげたのは、あの胡桃色の少女。そして、魔法にだけ。
彼がきらきらと輝いて見えたのは、とっくに他人のものだったからだ。
フィリアは気力を失い、大きなベッドに倒れ込んだ。
豪奢な刺繍がされた天蓋つきのベッド。人が5、6人は横になれそうなほどの広さがある。
横目で室内を見まわせば、部屋は奥に何室も続いていた。
全てに、豪華な装飾がされている。
この寝室の天井に描かれているのは、有名な画家が描いた天の御遣い。朝に切り取ったばかりの薔薇が飾られた花瓶。衣装だけしか置いていない部屋まである。
いつもなら胸をときめかせる――それらの全てが、灰色に沈んで見えた。
「……何で、私ではなかったの……?」
ザオルグの隣にいるのは、自分であるべきだと思っていた。
自らをおごり高ぶっているわけではなく、客観的に見ても、自分の方が魅力あると思っていた。容姿だって、権力だって、フィリアの方が上だ。
――王女がそばにいるのに、何故、彼が何のとりえもないような少女を選ぶのか、理解できない。
長い間じっと横になっていると、ふいに、寝室に飾られていた燭台の火が揺らいだ。
ベッドの天蓋に、大きな人の影が映り込む。
「影……?」
だが、フィリアが振り返ってみても、そこにはすでに誰のすがたもなかった。
それから、数日後に、城内に火急の知らせが入った。
王都から遠く離れた、とある町が焼け落ちたのだという。
フィリアは、そのときにザオルグと一緒にいた。彼は、その町の名前を聞くなり、顔色を失い、走り去っていった。
――そのただならぬ様子に、フィリアもしばし唖然としてしまったくらいだ。
「物騒ね。いったい何事かしら……」
酔っ払いの喧嘩であるなら、誰かが気づいて火を消すだろう。どこの町にだって、井戸くらいはあるのだから。
町を飲みこむほどの大火事なら、夜盗のしわざか。あるいは、隣国が動いたのか。戦争の前触れの可能性もある。
フィリアが黙したまま思案していると、どこかから、ちいさく笑う男の声が聞こえた。
「……影? 何故、笑っているの?」
『――ご安心を、王女様。証拠は、いっさい残しておりませんから』
「何を……言っているの……?」
フィリアはうすら寒くなり、思わず、ドレスの裾をつかんだ。
周囲を見渡しても、どこにも男のすがたはない。
少し開いた窓辺で、レースのカーテンだけが波打っていた。
――それから、二週間ほども経ってから、ようやくザオルグは戻ってきた。
まるで幽霊のようだった。
足取りはふらついており、体も薄汚れている。衣服が、破れている箇所すらあった。
「ザオルグ……! いったい、どこまで行って……っ」
フィリアは彼の元まで駆け寄り、その胸元をつかんだ。再会したら、手ひどく罵ってやるつもりだった。
だが、彼の憔悴した顔を見て、フィリアは二の句が継げなくなる。
ザオルグの頬には、幾筋もの涙がつたっていた。
「……ぜんぶ、燃えて、いた……。みんな……ひとりも、生き残りがいなくて……」
その発せられた内容に、フィリアは愕然とする。
――ベインズブルグ。
彼の生まれ故郷。
そして、その瞬間、フィリアは理解してしまった。
彼の故郷を燃やしたのは『影』だ。
――フィルディル王の御為に。
自らが信じる主のために、『影』はどんな非道なことでも行う。
証拠を残さないために、町人すべてを殺し、火を放ったのだ。
らしくもなく、フィリアは衝撃を受けていた。
フィリアは、自分自身を純粋だとは思っていない。
欲しいものがあるなら、どうやってでも奪うべきだ。相手を囲い込みたいなら、自分なしではいられないような境遇に追いやればいい。――そう考えることができる非道さを、確かに持っている。
(けれど、こんなことは……)
こんな大それたことまで、望んでいるわけではなかった。
――相手が欲しいから、相手の大事なものを壊そう。
そんなことを考え付くのは、無邪気な子供くらいだ。そして、それを実行できるのは、それだけの力を持つ大人くらいだろう。
フィリアは、そのどちらにもなれない半端な存在だった。
大人ではなく、子供でもない。
けれど欲しいものがあったら、我慢できなかった。これまで、フィリアは我慢を強いられない身分だった。周りは彼女に、全てを好きにさせていたのだ。
――自分の持っている権力で相手を自分のものにできると知っていて、どうしてそれを躊躇う?
それを、言い訳にして。
「あ……、わ、わた、くし……」
うまく喋ることができない。
青ざめて、震えているフィリアを見て、さすがに不審に思ったらしい。
ザオルグは何かに気付いたように、目を剥いた。そして、次第に彼の表情が歪んでいく。
「……お前が、やったんだな? フィリア」
人間は、こんなにも誰かに憎悪の眼差しを向けることができるのだ、と。
フィリアは、初めてそれを知った。
途中から、意識を失っていた。
気づいたときには、床に上半身を押しつけられていた。
激しい痛みが、下半身を襲い続けている。濡れたような音が、辺りに響いていた。内股に何かがつたっていく感触がする。膝が痛い。
「――俺と、こういうことがしたかったんだろう? だから、俺にあんなことを強要させていたんだ」
耳の後ろで、男の声が聞こえた。
「……なあ。犬と蔑んでいた男に、犯される気分はどうだ?」
いつその行為が終わったのか、フィリアには記憶がない。
目覚めたときには、ベッドの上にいた。
最低限の身支度は整えたのか、寝衣をまとっている。
さすがにあれだけのことをしておいて、誰にも気づかれていないというのはないだろう。そうフィリアは思っていたが、侍女たちは誰も気付いていないようだった。
(何か、魔法を使ったの……?)
けれど、もう、どうでも良いことだった。
かなり長い時間、身体を良いようにされていたのか、色んな箇所がにぶい痛みをおぼえる。
(……殺されなかった)
ずっと、最中は、そう思っていた。女性としての尊厳を踏みにじり、最後には考え付く限り残酷な方法で殺されてしまうのだろう、と。
そうされても仕方ないだけのことをしたのだという自覚が、フィリアにもある。
――けれど、彼は殺さなかった。
それがどういう意図があってなのかは、わからない。
ただ、利用するために生かしているだけなのかもしれない。
痛みの残る箇所から垂れてきた残滓を、指ですくいとる。そのまま、それに口づけを落とした。
「ザオルグ……」
――けれど、彼が世界のすべてに絶望した瞬間。
確かに、フィリアは、喜びを感じた。
これで、彼はもう、ひとりだ。
彼のそばにいるのは、自分だけ。
影がした行為に怖気立ちながらも、心の奥底では隠しきれない愉悦を感じていたのだ。
――それが、フィリアの罪。
誰にも言えない、王女の罪。




