過去6・エルドワードの暴走と、雨後の霧(後編)
R15
ティナは、次の日には学院に戻ることを決めた。
両親からの反対の声もあがらないことを良いことに、夜が明けるなり家令に頼んで箱馬車を用意してもらう。
霧雨に包まれた学院は、建物の赤色が薄くみえるだけで、おぼろげな形をしている。
ティナは学院の正面の門扉を入ったところで、箱馬車を停めさせた。何故か、急に、寮まで歩いてみたくなったのだ。
「お嬢様、御髪が濡れてしまいます。いま、差すものを用意しますので……」
馭者が慌てたようすで下りてきて、そう声をかけてきたが、ティナは笑顔で首を振った。
「平気よ。もう、ほとんど降っていないもの。このままでいいわ」
ティナはそう言うと、馭者の方に手を振った。
別邸に帰るために身のまわりの物は持っていかなかったので、ティナがいま手にしているのは小さなポーチだけだ。誰かに荷物を運び入れてもらわなくても、身ひとつで戻ることができる。
ティナは馭者と別れて、歩き慣れた道を進んだ。
いつもと同じ場所のはずなのに、周囲にたちこめた濃霧に朝陽が反射して、ふしぎと違う世界にいるような感覚になる。
石畳を歩くたびに、己の革靴の足音だけが響いた。
時折、水たまりを踏んでしまい、水しぶきが上がりスカートの裾を濡らす。それでも構わなかった。まるで幼い子供のような気分で、跳ねるように駆けていく。
女子寮の扉が見えたところで、ティナは足を止めた。
その近くに人影があったのだ。
さすがに幼児のようにはしゃいでいるのが恥ずかしくなり、ティナは髪を手櫛で撫でつけて、何事もなかったかのようにコホンとひとつ咳をする。
その人がいるのは、ちょうど女子寮と男子寮をつなぐ渡り廊下がある場所だった。
ティナは、その人に挨拶はせず、そのまま女子寮の入り口から中に入っていこうとした。だが、ふいにかけられた声に、取っ手を握っていた指の動きが止まる。
「……ティナ?」
その声音は、聞きなれた相手のものだった。
ティナがそのまま身動きができず固まっていると、霧の中から現れたのは、困惑した表情のエルドワードだった。
「あ……」
それは、どちらの口から漏れた声だったのか。
ティナは、彼から目を逸らすことができなかった。
エルドワードは生徒がまとう外衣やローブではなく、シャツを身に着けていた。首元にはゆるくクラヴァットも締めている。普段着なのかもしれない。わずかにまくりあげた腕からは、少年らしい肢体が覗いていた。
霧のせいか、彼の蜂蜜色の髪はしっとりと濡れている。瞼が見開かれ、若葉色の瞳が大きくなっていた。
ふたりとも、言葉を探しあぐねているような空気が流れる。
先に口を開いたのは、ティナの方だった。
「……おはよう、エルドワード。朝早くから起きているのね」
そこまで言って、ティナは自分の発言に頭を抱えたくなった。
そんなふうに言われても、相手からしたら『そうだね』以外に返答のしようがない。明らかに、会話の受け渡し失敗例だった。
エルドワードはわずかに躊躇ったような様子を見せる。
「……一応は、謹慎期間だからね。出歩くことは自粛しているんだ。でも、ずっと部屋に閉じこもっていると鬱屈としてしまって、朝のこの時間なら、誰もいないだろうと思って出てきたんだ」
意外にも、エルドワードは話題に乗ってくれた。
けれど、会話はすぐに途切れてしまう。
妙な沈黙に落ち着かない気持ちになり、ティナは深く顔を俯かせた。
この霧雨に感謝したい気分だった。実際には数歩の距離しかなくても、この濃霧が、互いの輪郭を隠してくれている。表情や、感情すら。きっと。
己の本音を見せたくない。
自分自身の感情が汚すぎて、ひどく矮小な存在に思えてしまう。そんな自分を、高い場所にいる彼に見せたくない。
いまのティナの心は、数日前とは違っていた。
嫉妬や醜い感情を捨てて、正々堂々と彼と向き合いたくなっている。
たとえ天才と呼ばれる彼に追いつけないとしても、己の持ち得る能力の限界まで努力することが、目標となりつつあった。
(……たとえ劣った存在だとしても、心まで卑劣になりたくない)
「エルドワード、私……貴方に謝りたいの」
勇気を出してティナがそう言うと、彼はふしぎなものを見るような表情をした。
「何を謝るの……?」
寮から出て行く前にしたエルドワードとの会話が、ティナの脳裏をよぎる。
その途端、胸の奥をずきりとした痛みが走った。
「――だって、私は、エルドワードにひどいことを言ったでしょう? 憎んでいたいって。他にも冷たいことをたくさん言ったわ。ごめんなさい。……これからは、正々堂々と貴方と勝負したいの」
エルドワードは、「ああ……」と納得したように口の端をゆがめる。
そして、こう言った。
「きみが言いたかったのは、そんなこと?」
「そんなことって……」
ティナは、ぽかんとしてしまった。
そして、大した発言ではなかったのだろうか、と自問自答してしまう。
――いや、ティナの常識では、あんなことを言われたら傷つくものだ。それに、彼への態度も悪かった。
エルドワードが薄く笑う。
「好かれないのなら、いっそ憎まれていたいような気がするな……」
「エルドワード……?」
(なにか、おかしい……?)
ティナは、まるで見知らぬ人を相手にしているような感覚になった。
当惑して立ち尽くしていると、ふいに、彼が距離を詰めてくる。それは突然のことで、ティナはまったく抵抗できなかった。
「……っ」
肩と背中に、衝撃が走る。
気付けば、エルドワードに肩をつかまれ、寮の扉に押しつけられていた。したたかに背筋を打ちつけ、息が止まる。
「エルド……?」
至近距離から見上げられるほど、近い。
芽吹いたばかりの葉の色をした瞳。それが今は、その美しい色艶とは相反するような歪んだ感情を映している。
両手首をつよく握られ、壁に押しつけられると身動きができなくなる。
「ねえ、ティナ。僕は、もうてっきり、きみの家に連絡が行ったと思っていたんだけど。僕たちが婚約するって」
その言葉に、ティナは目を剥いた。
「あ……」
「きみって、本当に勝手だよね。自分で何もかも結論づけて。いつも成績のことしか考えてない。僕のことなんて、どうでもいい?」
エルドワードは、自分自身の言葉をあざけ笑うかのように、唇に弧をえがいた。
掴まれた手首に、ますます力を入れられる。その痛みに、ティナは顔を歪めた。
「エルド、痛い……っ」
「きみが喜ぶと思ってした行動が、ことごとく裏目にでる。――だったら、もう僕は、自分の思うままに行動してもいいんじゃないかな。まわりくどくて気づかれないなら、もっと直接的に、欲望をぶつけてしまっても」
目眩がする。
手首の痛みより、彼の視線の熱さの方が、心を焼いていくような気がした。
薄く開いた口から、細い吐息が漏れる。
うまく呼吸ができない。
手首から離れたエルドワードの指が、そっとティナの耳朶をかすめた。
その感覚にびくりと肩が震え、とっさに顔を背ける。顔面が彼女の意思を無視して紅潮する。
首筋に指が這わされ、そのまま優しく撫でるように、下へおりていく。鎖骨をなぞり、手のひらの部分で形をなぞるように確かめられる。
(どう、して……?)
きっちりと襟まで釦をかけたドレスの胸元。
貝の虹色の殻でつくったという釦に、エルドワードの指がかかる。ひとつ、ふたつ、と釦が外されていき、隠していた素肌があらわになる。
戒めが解かれて自由になったというのに、ティナは逃げることもできなかった。
起こっていることに理解が追いつかない。
初めて異性の欲望に晒されて、硬直していたのだ。これまで自分が、何も知らなかったのだ、と悟る。
(エルドワードが求めている関係と、私が望んでいる関係が違う……?)
もちろん、ティナも知識として男女の営みのことは知っている。
いつか結婚して、家庭を持つかもしれない。けれどそれは、今ではないはずだった。
エルドワードが他の人と仲良くなって、その関係に嫉妬もした。
けれど、それが男女の情ゆえなのか、それとも親しかった友人を誰かに取られたという女同士でもありえる嫉妬からなのか、その差がティナにはわからない。
「エルド、私は……」
「黙って。声を出したら、誰かがくるかもしれないよ」
耳の裏側を、彼のあたたかい呼気がふれる。
思考がこれ以上ないほど、混乱していた。息が荒くなり、目が潤んでいく。
誰かにこんなところを見られたら、今度こそ、完全に身の破滅だ。
貞淑であるべきという風潮の未婚の令嬢にとって、あまりにも痛手だった。学院を追い出され、家からも見捨てられるほどの悪事。きっと周囲からも、ふしだらな娘だ、と罵られる。
(けれど、それはエルドワードだって、同じことのはず……)
「やめて、誰かがくるわ……。こんなところ見られたら、エルドだって退学に……っ」
いまはひと気がなくても、突然、霧の中から誰かが姿を現すかもしれない。ティナの後ろにある扉が開くかもしれない。
危ない橋を渡ろうとしているのだ、と彼に伝えようとした。
「……誰かに見られたって、それなりに金を積めば相手も黙るよ」
その年で、彼はまるで世の中の裏も表も知り尽くしたかのような口ぶりだった。その瞳の冷淡さが、ティナには恐ろしくもあり、悲しくもある。
開いた襟口から入り込んできた指が、直接、肌にふれた。そのひんやりとした感触に、背筋が震える。
「あ……」
まださほど育っていないふくらみを撫でられる。頭が混乱して、ティナは目の前が真っ白になった。
湧き上がる感情に煽られて、ティナの目に涙がにじむ。
「こんなの、嫌……」
彼に対して嫌悪があるわけではない。けれど、どうしても今は受け入れがたかった。彼のことを崇高な目標として、とらえ始めていたせいかもしれない。
いっそ、不可侵の存在のように、感じていたのだ。
こんな行為をしてしまえば、正々堂々と戦いたいという純粋な思いまで、消えてしまう気がする。
結婚とか、男女の愛が欲しいわけではない。それがどれだけ儚いかは、両親を見ていればわかる。
紙の上での同意より、神に口だけで永遠を誓うよりも、絶対に離れることがない友情を築いていたかった。
「私は、エルドワードと友達でいたいの……」
ティナの言葉に、エルドワードが凍りついた。
しばらくのあいだ彼は固まっていたが、深くため息を吐く。
そして目元を覆い隠して、片手は腹部に押しあてて、耐えきれないというようにエルドワードは笑いだした。
「……友達だって?」
ティナは涙がこぼれないように、目に力を入れた。
「そうよ。婚約は、お断りします」
「そんなことが許されると思っているの? 公爵家からの縁談をはねのけるなんて」
貴族社会は階級にうるさいものだ。
上位の公爵家からの申し込みを、伯爵家が断れるわけがないとエルドワードはたかをくくっているのだろう。
実際に、正当な理由がなければ、下位の伯爵家から断ることはできない。そもそも、そんなことを、伯爵家当主が許すはずがない。
「――だから、私は家を出るわ」
はっきりと告げたティナの言葉に、エルドワードは唖然とした顔をした。
その表情に胸がすく思いがして、ティナは小さく笑う。
「もう決めたことなの。私は、すべてのしがらみを捨てて、魔法と向き合ってみたい」
「どうして……? そんなに、僕のことが嫌なの? 貴族としての身分を捨ててもいいと思えるほどに……?」
「エルド、違うの。婚約のことがなくたって、私は……」
ティナは、別邸に戻っているあいだに起こったことを、エルドワードに話して聞かせた。アンとのことや、これまで自分が感じてきたことを。そして自分の決断を。
しばらくのあいだ黙ってそれを聞いていたエルドワードだったが、ティナが話し終えると、顔色を暗くして吐き捨てるように言う。
「きみが言いたいことはわかったよ。でも、身分を捨ててどうするの? きみは宮廷魔法使いになるつもりのようだけど……結婚は? いつか、見知らぬ男とするつもりなのか」
「それは……まだわからないけれど」
そもそも、目に見える目標を立てただけで、それ以上のことはわからない。そう問われても、ティナも答えようがなかった。
「なるほど。きみは……僕には『良い友達でいましょう。結婚は別の人とするわ』って言っているわけだね」
「――エルド」
ティナがきつく睨みつけても、エルドワードの瞳は揺らがない。
会話のたびに何かがきしみ、歪んでいくような気がする。
「僕はそんなことは望んでない」
いきなり、噛みつくように口づけされた。
エルドワードの手がティナの下腹部をさまよう。彼の指がどこへ向かおうとしているか悟り、ティナは青ざめた。
「や……っ、やだ! やめて!」
けれど、いくら嫌だと思っても、彼にふれられると、己の意思とは無関係に身体が反応してしまう。
潔癖な思考をもつティナには、それが耐え難かった。自分がひどく汚い存在になってしまったような気がする。
何より、彼女の意思を無視するエルドワードが、父親の幻影と重なって見えた。
(貴方も、私の意思を無視するの……?)
それがひどく悲しくて、裏切られたような気持ちになる。
確かに、エルドワードの気持ちに反して、ティナもひどいことを言ってしまったかもしれない。けれど、こんなふうに好きに扱われていいはずがなかった。
「きらい……」
エルドワードの動きが止まった。
ティナはもう一度、はっきりと言った。
「エルドワードなんて、きらい……」
震える声で、涙まじりに、そうティナはこぼした。
エルドワードは驚愕の面持ちで、彼女を見返している。
彼の唇が引き結ばれ、その瞳が辛そうな色をおびる。
そして、そのまま背を向けて、エルドワードは去って行った。
霧に包まれた人影が完全に消える。
彼のすがたが見えなくなって、ようやくティナは腰が抜けたように、その場にずるずると腰を落とした。
背中の冷たい木の扉の感触が、今は心地が良い。
熱を持った顔を隠すように、ティナは両手で顔を覆った。
「エルドワード……」
その名を、口の中だけで呼ぶ。
何故、彼の名を呼んでしまうのか、わからない。憎いという感情も、尊敬も、嫉妬も、友愛も、嫌悪も、寂しさも――すべて彼から。彼が、ティナに与えた。
喪失感に涙してしまうのは、友情と思っていたものを失ってしまったからなのか。それとも、ただ幼いせいなのか。
それすらわからないまま、彼がここにいないことを寂しく感じるのは、身勝手だとわかるのに。
「……エルド、私は貴方を……」
そして、ティナの呟きは、霧に包まれて消えた。




