過去5・エルドワードの暴走と、雨後の霧(前編)
ザオルグ先生に、「お前ら、ちょっとこっちにこい」と命じられ、ティナとエルドワードは無言で師の後ろをついて歩いて行く。
向かう先は、教員棟の一室のようだ。
ティナはけっしてエルドワードの方に顔を向けようとはしなかったが、隣を歩く彼の視線を、痛いほど肌に感じていた。
まるで、見えない手で触れられているような気がする。
ティナは落ち着かなくなって、長衣の下のワンピースのスカートを握りしめた。
自分が悪いはずがない。そう言い聞かせたようとしたが、喉の奥がひどく苦くて、なぜか息が詰まる。
足取りは重く、床から一歩動かすのも、億劫に感じられた。
ザオルグに促されて入ったところは、初めてエルドワードと会った場所でもある応接室だった。
ザオルグは長椅子の背もたれに後ろ手をついて、ティナたちに向きなおる。
「……で?」
それは、彼なりの何が起こったかどうか、説明しろという意味なのだろう。
だが、ティナもエルドワードも押し黙っていた。
ザオルグは深くため息を落とすと、ぼりぼりと首の後ろを搔く。そのまま視線をあさっての方角に向けて、どこか困ったようにこぼした。
「まあ、言いたくないんならいいけどさぁ。……一応、俺はお前らの師で、監督責任があるわけよ。それに常勤じゃないとはいっても、ここの講師でもあるからな。お前らが起こした揉め事を、このまま見過ごすわけにはいかない」
(私は、なんてことをしてしまったのだろう……)
やっと頭が冷えてきた。
この学院は、規則が厳しいことで有名だ。
最悪の場合は、退学になってしまうだろう。
一度、口喧嘩を見られたくらいで、そこまで重い処分がくだるとは考えたくないが、恐ろしい想像に手足が震える。
「――7日間の自宅謹慎を命じる。そのあいだ、しっかり頭を冷やしておけ」
ザオルグはそう言うと、そのまま応接室を出て行った。
ザオルグがいなくなると、室内に沈黙が落ちる。
「……ティナ」
エルドワードが何か言いたげに、声をかけてきた。
ティナはいちど彼に視線を向けたが、そのままザオルグの影を追うように部屋から出ようとする。
樫の扉を押し開くと、廊下の角から走ってくる生徒たちが見えた。エルドワードと近頃、親しくしていた男子たちだ。その先頭に、ギイザがいる。
彼らはみんな心配げな表情をしていた。彼らはティナを一瞥し、そのあと、扉の奥にいるエルドワードをじっと見つめた。
ティナが身体をずらして彼らの通り道をつくった。
全員が、ティナの目の前を通りすぎていく。ティナに声をかけてくる者はいない。
ギイザが、エルドワードに近づいた。
「エルドワード、どうだった?」
「7日間の自宅謹慎」
「ええ……っ、そんなの重すぎるだろ! このくらいだったら、せいぜい晩めし抜きとか、寮の掃除とかが妥当じゃん」
ギイザの非難まじりの言葉に、他の生徒たちも追従する。
「そうだよ、先生やりすぎだよ……!」
エルドワードは肩をすくめた。
「そうだね。ちょっと厳しめかな。でも、ザオルグ先生は自分の弟子だからこそ、厳しくしたんだと思うよ」
どこか師を庇うようなエルドワードの言葉に、他の生徒たちが黙り込む。
わざとではなかったが、彼らの会話を盗み聞ぎしているようで、ティナは居心地が悪くなった。
急いで扉を閉めて出て行こうとしたが、次の彼らの会話に動きが止まる。
「エルド。これから、どうするんだ。実家に戻るのか?」
「――いや、寮の自室にこもっているよ」
「自宅謹慎なのに? あっ……公爵領って、王都から遠いんだっけ?」
「……ここの寮が、僕の家だよ。帰る場所なんてない」
「え……? だって、お前……」
ギイザは当惑したような表情を浮かべている。
エルドワードはどこか冷えた笑みを広げた。
「僕の家族は、僕を拾ってくれたおばあさんだけだよ。でも、もう彼女も亡くなってしまった。フレイユ公爵家は確かに僕の血筋だけど、両親とは血がつながっているだけの赤の他人だよ」
ティナが視線を送ると、エルドワードと目があう。彼はずっと、ティナを見つめていたらしい。ティナは、さっと視線を逸らした。
エルドワードは静かな口調で続ける。
「……両親は、僕を育ててくれたおばあさんを悪しざまに罵ったんだ。僕が保護されたときに着ていた衣を、ぼろきれだ、とも言った。そんなひもじい生活をしていたなんて、可哀想だ、と。――でも、僕はまったく不幸なんかじゃなかった。たとえ両親から見たらぼろきれにしか見えないものでも、おばあさんが大事につくろってくれたものだ。あの両親と血の繋がりがあるだなんて、思いたくはない。……でも、利用できるものなら、何でも利用してやろうと思った。だって、僕が馬鹿にされたら、悲しいって泣く女の子がいたから。……だから、僕は公爵家の嫡子であることを認めた」
ティナは息を飲んだ。
唇が戦慄き、思わず口元を両手で押さえる。
「あ……」
わけがわからない感情にかき乱された。
エルドワードが手を伸ばし、ティナに一歩、近づこうとする。
「ティナ、僕は……」
「やめて……っ」
絹を裂くような悲鳴が、己の口から発される。耐えがたい恐怖が襲いかかってきて、ティナは怯えた。両手で頭を押さえて、必死に首をふる。
「私は、貴方を憎んでいたいの……!」
彼の言葉の続きを待たず、ティナは駆け出していた。
◇ ◆ ◇
伯爵家の印がおされた封蝋が寮の自室に届いた。
そしてティナは謹慎期間、王都にある伯爵家の別邸に戻ることを余儀なくさせられた。
貴族の多くは、領地にある城館の他にも王都に別邸を持っている。1年の半分程度しか自らの領地で過ごさないという貴族も多い。
ティナの父親も、王城での夜会に出席するために、現在は王都にいるのだという。その父親から別邸に戻るように、と命じられたのだ。
それぞれの学期の成績は、生家に知らされてしまう。当然、罰則を受ければ、保護者にも知らされる。
ヴァリエス伯爵家の紋章がついた箱馬車が、学院の正面口に停まった。
馭者に手をひかれ、ステップを踏んで車内に乗り込み、ティナは浅く息を吐く。
小さな窓にかけられた天鵞絨のカーテンをずらすと、見慣れた学院の赤煉瓦造りの建物が見える。
(私、ここに戻ってこられるのかしら……?)
そう思うと、ティナの心がちくりと痛む。
これまでに取ったことがないような悪い成績を取ってしまったし、さらに自宅謹慎という不名誉な処分まで受けてしまった。
伯爵家の名に傷をつけたようなものだ。
(お父様に、もう見捨てられるかもしれない……。魔法使いになることはもういいからって、どこかの貴族と婚約させられてしまうのかも)
そう自らの将来について考えてみることはできても、それはどこか現実感を伴わない想像だった。
心の一部が麻痺してしまったかのようだ。
お前は死んだのだ、と言われても、納得してしまいそうなほど、ティナの心は凍えていた。
(――私は、いったい、どうしたいんだろう……)
窓硝子を、ぽつりと水滴が叩く。
切り取られた車窓から見上げると、曇天から細やかな雨が降り始めていた。
食堂の長机の上を飾るのは、軽めの食事だった。
まだ日の入りには早かったが、その時間にしては薄暗いこともあり、燭台の蝋燭には火が灯されている。
父親であるヴァリエス伯爵は、娘が帰ってきたからといって、夕食を午前中の正餐ほど豪華にしたりはしない。
沈黙に怯えながら、ティナはスープをスプーンですくって食べていた。
そっと、向かいの机に腰かけた父親のすがたを窺いみる。けれど、その雰囲気から怒気は感じられず、彼はいつもと同じ無感動な顔つきだった。
まだ帰ってから一度も、会話はなかった。
もともと話すことは少なかったが、今回は起きたことがことだけに、この静寂が逆に恐ろしかった。
ひととおりの食事を終えると、伯爵は口元を布でぬぐいながら、おもむろにティナに向かって言った。
「クリスティーナ、今回の成績の報告は届いている。散々な結果だったようだな。それに揉め事までおこして謹慎処分になったと」
ティナの肩が大きく震える。
「は、はい……。ご期待に添えず、申し訳ありませんでした……」
「このようなこと、2度はないと思え」
「え……?」
ティナは、己の耳を疑った。
聞き間違えたのかと思い、父親の顔をぶしつけに見つめてしまう。
「もうお前には罰を与えた。今回に限り、寛大な処置で許してやる」
「罰を……?」
けれど、ティナは何もされてはいない。何のことかわからずティナが目を瞬いていると、ヴァリエス伯爵が口元をゆがめた。
「……アンと言ったか? お前の乳母の名は」
その名前に、ティナの思考が真っ白に染まる。
何故ここで、彼女の名前が出てくるのか、わからなかった。
(そういえば、まだ……アンを、見かけていない……?)
ティナは先ほど帰宅したばかりだ。
普段は領地にある城館で働く使用人たちも、主が王都の別邸にいるあいだは、わずかな使用人を残して大半が一緒に王都へやってくる。
アンは使用人の中でも長く伯爵家に仕えているため、ここにきているとティナは思い込んでいた。
だが、まだ彼女のすがたを見かけていない。
もちろん、領地に残っている使用人も多いので、アンがここにいないことは不思議ではないのだが……ティナは急に不安に駆られた。
「解雇した」
「え……」
「聞こえなかったのか? あの使用人に暇を与えた、と言ったんだ」
ティナの頭の中で、父親の言葉が幾度も繰り返される。
その言葉を理解するまで、時間がかかった。
(解雇……? 辞めさせたということ……?)
「ど、どうして……ですかっ?」
混乱して、らしくもなく口調が乱れる。
ティナの様子を、ヴァリエス伯爵は冷ややかに見つめていた。
「あの使用人が、お前に私的な手紙を送っていることには気づいていた。だが、目をつぶってやっていたんだ。――お前が成績を落とさないうちは、多少のことは好きにさせても良かろう、と」
「あ……」
ティナの指から、スプーンがすべり落ちた。
硬質な音をたてて、スープ皿の下にある平たい受け皿にぶつかった。
叱責されても仕方ないような不作法だったが、ティナは動くことができない。
食堂の大窓を、水滴が叩いている。
馬車の中ではまだわずかだった雨音が、激しくなっていた。本降りになったのだろう。
雫が斜めに硝子をかすめていく。外が真っ暗なせいか、硝子窓にティナとヴァリエス伯爵が映り込んでいた。顔色を失った自分自身と視線が交わる。
「お前が、悪い成績を取ったからだ。クリスティーナ、お前の責任だ」
「私のせい……?」
(私が悪い成績を取ったから? 謹慎処分まで受けたから……?)
あまりの衝撃に、ただ呆然としてすることしかできない。
それでも、次に伯爵に言われた台詞に、さらなる衝撃を受けた。
「――ああ、そうだ。お前に縁談がきている。もしもこれを受けるなら、お前は魔法使いにならなくてもいいぞ。どうやら、お前は私が期待していたよりも、ずっと無能のようだからな」
ティナがじっと見返すと、伯爵はどこか皮肉げに口の端をあげた。
「なんと、フレイユ公爵家からだ。エルドワード・ヴィル・フレイユ……その名前は知っているだろう? どうやら彼は、お前と同じ魔法学院に通っているそうじゃないか」
「あ……」
(エルドワード、が……?)
さまざまなことが起きりすぎていて、ティナの思考はまったくついていけない。
ずきずきと痛みはじめたこめかみを押さえた。
フレイユ公爵家との縁談?
「どうして……?」
ティナは、そう呟く。
それは、色んな意味をふくんだ問いかけだった。父親に対してだけ放ったものではない。
だが、ヴァリエス伯爵は答える。
「お前がたらしこんだんだろう? どうやら、彼はお前を熱望しているらしい。お前の貞操観念は母親に似てゆるいようだが、そのおかげで公爵家に取り入ることができそうだ。調べてみれば、公爵夫妻は息子のエルドワードの言いなりらしいぞ。彼自身もなかなか将来有望だと聞く。宮廷魔法使いになれないなら、せいぜい彼の機嫌を損ねないようにすることだな。そのあばずれの血も、跡継ぎを生むまでは隠しておけ」
心をナイフで切り裂かれたような気分だった。
父親が想像しているようなふしだらなことはしていない、と声を張って否定したかった。
だが、このヴァリエス伯爵相手に、何を言っても、もはや無駄な気がした。何より疲弊した心が、否定の言葉を発する気力さえ奪っている。
(私は、父親の道具……)
意思を持たない玩具。
盤上の駒。
このまま、こうして一生、生きていくのだろうか。
そうして大事なものを奪われても、あるのかないのかわからないような、父親の愛情にすがって生きていくのだろうか。
そう考えたとき、心が霧の中に捕らわれるのを感じた。
そのまま身動きがとれず、想像の中の自分自身が朽ちていく。
それから、どうやって自室まで戻ったのか、記憶がない。
アンの痕跡を探ろうとして、使用人たちに聞いてまわったが、誰もが硬い表情で首を振るばかりだった。伯爵から口止めされているのかもしれない。
窓の外を、雷光が走っている。
火も灯していない室内は薄暗く、時折、雷が室内を明るく照らした。
ティナは呆然としたまま椅子を引き、机にうつ伏せになった。
そのまましばらくその状態で身動きできなかった。
どれくらい経ったころか。手持ちぶさたになり、机上の蝋燭に火をつける。いつもの癖で、一番近くにあった魔法書を手に取った。
魔法文字を目で追っていると、心が安らぐかと思ったのだ。
――そのとき、ふと、違和感をおぼえた。
使い込んだ本の隙間に、何か紙のようなものが挟まっていた。慌てて確認すると、それは手紙だった。見覚えのある筆跡に、指が震える。
「……アン?」
それは乳母のアンが残した手紙だった。
『親愛なる、クリスティーナお嬢様
突然、一言の断りもなく、すがたを消してしまうことをお許しください。
急いで書きつけたので、いつもよりも荒い文章になっていることと思います。けれど、どうしても、お嬢様にお伝えしたいことがありました。
この度のことは、お嬢様が気に病まれる必要はありません。
伯爵からお叱りを受けることを覚悟の上で、私はすべてのことを行って参りました。
身分不相応な行為だ、と詰られれば、否定できないことです。実際に、伯爵にもそう言われました。
お嬢様のご厚意に甘えているのだ、と。
けれど私は、お嬢様のご負担を少しでも軽くできていたのだ、と自惚れてしまっています。
きっと、お嬢様は、私のことを心配してくださって、心を痛めてくださっているのではないでしょうか。
ずっとお嬢様のお傍で仕えさせて頂いた私は、そうではないかと思っているのです。
クリスティーナお嬢様は、誰より努力家でいらっしゃる。
その勤勉で不器用さゆえに、いつか誰かと衝突するかもしれない。乳母の私は、それが心配でなりません。
思うようにならず、ご自分を責めてしまわれるかもしれない、と。
――けれど、忘れないでください。
クリスティーナお嬢様は、あの有名な魔法学院に自力で入ったのです。そして、ずっと学年首位を保ち続けてこられた。
これは、伯爵家の力ではなく、お嬢様自身の努力の結果なのですから。誇るべきことです。伯爵家は関係がないことです。
これから私の行く先のことを、お伝えできず、申し訳ありません。
万が一にも伯爵の耳に入り、お嬢様がお咎めを受けたらと思うと、恐ろしくて申し上げることができないのです。
私のことは、どうか心配なさらないで。
おそばにいることはできませんが、ずっとお嬢様のことを心配して、見守り続けています』
その文面を、幾度も目で追った。
(伯爵家の力ではなく、私の力……)
その言葉が、ティナの心を強く揺さぶる。
魔法学院は、誰に対しても門戸を開いている。貴族でなくたっていい。ティナが貴族である必要はないのだ。貴族でないティナだって、あの学院は受け入れるだろう。
そう思うと、ティナは戻らなければ、という気持ちに急き立てられた。
初めて魔法という存在を知った学徒のような気持ちで、学院に思いを馳せる。
(私がしたいことは……)
大義がなくたっていい。
エルドワードを実力で打ち負かし、宮廷魔法使いになってみたい。
そして何より、もう一度、『魔法』という存在と、あらためて向き合ってみたかった。
――父親のためなんかじゃなく、自分自身のために、何かを選び、つかみ取ってみたい、と。




