プロローグ
クリスティーナ・ヴァリエスは、彼の視線で肌が粟立つのを感じた。
(まただ……)
いつもそうだ。
エルドワードは責めるような眼差しで、ティナを見ている。
意識していると知られたくなくて、ティナは彼から意識を追い払うように、かるく頭を払った。
そうすると、黒曜石のような髪が胸元でゆらめく。
「ザオルグ先生は、いったい僕らに何の用事なんだろうね? 学院じゃなくて、わざわざ王城に呼びつけるなんて……どう思う、ティナ」
隣を歩くエルドワードが、ティナに向かってそう聞いた。
「……知らないわ」
ティナは、つれない返事をする。
実際、たくさんいる弟子のなかで、なぜ自分たちだけが呼び出されたのかわからない。
(先生は、修行といって城下町に買い物に行かせたり、ペアで魔法課題をさせることがあるから、そのため?)
考え込んでいたティナは、エルドワードの歩みが遅れていることに気づくのに時間がかかった。
「ティナ」
エルドワードが、何かを言いたげな声音でそう呼びかけた。
ティナは仕方なく足を止めて、彼の方を振り返る。
ふたりは、赤い絨毯が敷かれた廊下の真ん中に立っていた。
エルドワードの隣の壁には、聖母と神の遣いが描かれた絵画が飾られている。
彼は、まるでその中から抜け出てきたかのような麗しい容貌をしていた。
蜂蜜色の髪が窓から差し込む陽光をあびてきらきらと輝き、彼の瞳の若葉色を際立たせている。
まとう長衣にはフードがついており、胸元には魔法学院の紋章が刺繍されていた。ティナも同じ衣装をまとっている。
彼をじっと見つめているのがつらくなり、ティナはいつものように顔を俯かせた。
それが、ティナの癖だった。血のように真っ赤な己の瞳を、誰にも見せたくない。
「また、下を向いてる」
エルドワードが、ティナの頬にそっと触れようとした。ティナはその手を振り払う。
「――さわらないで、ここは王宮よ」
廊下のいたるところには衛兵が立っており、ティナたちを興味深げに見つめていた。それに気づいて、ティナの頬が熱くなる。
エルドワードは払われた手を振って、自嘲のこもった笑みをこぼした。
「王宮だろうが、学院の寮だろうが、一切さわらせようとしないくせに」
「……っ」
ティナは耐えられなくなり、エルドワードから顔を背けた。
彼から離れたい一心で、ひとりで廊下を進んでいく。
エルドワードは無言でティナの後ろをついてくる。
すぐそばの窓から外を眺めれば、眼下にフィルディル王国の町並みを見下ろすことができた。紅い煉瓦の屋根が小さく見える。
丘の上に建てられた白亜の城の中に、ザオルグは国王から居室を賜っていた。
魔法使いを重用するこの国においては、高名な魔法使いに部屋を下賜することは珍しくはない。
重厚な樫の扉の前で、ティナは足を止めた。
扉をノックすると、中から男性の声がする。
「おう、入れ」
その気安い声に安堵を覚えながら、ティナは扉を押し開いた。そこは、本棚や机がある書斎のような部屋だ。
「うわ……相変わらず、ザオルグ先生の部屋は散らかっているなぁ」
エルドワードは呆れたような口調で言う。
床に積み上げられた蔵書や書きつけた紙が散らばっているせいで、ほとんど足の踏み場がない。
一番奥の机の上に長い足を投げ出して、ザオルグはボリボリと頭を掻いていた。
「そんなに掃除したいなら、よろこんで掃除させてやろう」
「嫌です。何の罰ですか」
ザオルグの軽口に、エルドワードが半眼になる。
床の踏める場所を探すのに苦労しながらティナたちが近づいていくと、ザオルグは机から足をおろして立ち上がった。
ひとつに束ねた赤銅色の髪を後ろに払って、ザオルグはティナたちに向き直る。
ザオルグの見た目は十代後半だが、魔法使いはある一定の能力を越えると外見年齢が止まってしまう。彼の実年齢は、ティナたちも知らない。
ザオルグが常にない真面目な表情をしているのを見て、ティナは落ち着かない気持ちになる。
「今日、俺がお前たちを呼んだ理由はわかるか?」
「……いえ」
ティナは首を振り、エルドワードは肩をすくめた。
ザオルグは机の上にあった一冊の本を手にとる。その表紙には『宮廷料理本』と刻まれていた。
不思議とその本に惹きつけられるものを感じて、ティナは目を眇める。
どうやらエルドワードもその本に違和感を覚えているらしく、ティナと同じように凝視していた。
ふいに題名が光り輝き、文字が浮き出てくる。
「魔法文字!?」
ティナは驚きの声をあげた。
ザオルグが「正解だ」と言って、笑みを浮かべる。
エルドワードが眉をひそめた。
「何故、本当の書名が隠してあるんです? 禁書のたぐいですか?」
かつて、魔法使いたちが禁書と呼ばれる魔法書を作ったことがある。
魔力を持つ者しか見ることができないように、普通の文字の下に本当の言葉が隠されているのだ。
だが、昔とは違い、今は禁書をつくるような危険な時代でもない。
「これに何と書いてあるか読めるか?」
ザオルグの言葉に、ティナとエルドワードは顔を見合わせた。ティナが代表して答える。
「『智の書』です……」
ザオルグが頷いてから、その本の表紙をふたりに向かって差し出した。
「これから、お前たちに『最後の試練』を与える。これに合格すれば、お前たちは晴れて魔法使いの称号を得る」
ティナは目を見開く。
隣にいたエルドワードでさえ、驚いたように目を丸くしていた。
それもそのはず、エルドワードは、ザオルグの弟子になってからまだ4年しか経っていない。ティナでさえ、たったの5年だ。そんなことは、魔法使いの歴史上でもほとんど例がない。
「お前たちにならできると、俺は信じている。――もちろん、試練はそれに見合うほど大変なものだ。まだ自信がないというなら、受けるのは覚悟が決まってからでもいい。……どうする? やるか?」
ザオルグに挑戦的な笑みを向けられて、ティナは一拍おいてから答えた。
「……やります。やらせてください! 私は、早く魔法使いになりたいんです」
ティナがそう答えた。
ザオルグが、エルドワードに視線をむける。
「お前は?」
「――やりますよ」
エルドワードは硬い表情をしていた。いつもならば自信満々な態度で了承していただろう。
ティナは、彼の態度に違和感を覚えた。
そう感じたのは、ザオルグも同様だったらしい。
「どうした、エルド? お前にしては珍しいな」
「いえ……何だか、すごく変な感覚があるんです。その本に……」
エルドワードが見据えている本に、ティナも視線を向ける。魔法書としての力は感じるが、それ以外におかしな部分はないように思えた。
だが、エルドワードは『稀代の天才』と呼ばれるほど、魔法使いとしての素質がある。ティナには察知できない些細な魔力を感じていても、おかしくはない。
――けれど、それは認めたくないことだった。
ティナはむきになって言った。
「私はやるわ。エルドは好きにしたらいい。私は貴方より先に、宮廷魔法使いになってやるんだから!」
「……ちょっと待って。やらないとは言ってないだろう。もちろん、僕もやるさ」
言い合うふたりに、ザオルグは苦笑している様子だ。
「この試練は、これまで何人もの魔法使いもやってきた。だから、そういった意味での心配はいらない。そして、試練はそれぞれ違う。その者にとって、最も難しい選択を迫られるだろう」
「なるほどね」
エルドワードが相づちを打った。
ティナはごくりと唾を飲み込む。
(最も難しい試練……はたして、突破できるかしら?)
けれど、宮廷魔法使いになるためには必要なことだ。
ティナは、人知れず拳を握りしめる。
「では、始めよう。手を出せ」
ザオルグに促されて、ティナとエルドワードはその本の表紙に手を伸ばした。
「これがお前たちの、最後の試練だ」
ザオルグがそう言った瞬間、本が光り輝いた。
誰も触れていないのに、ページがパラパラとめくられていく。




