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第5話




 朗らかな陽気の中、ガランサス伯爵家の広大な庭の一角。ブン、ブン、と一定のリズムで木剣が空気を切り裂く音が響く。私は今、剣術の稽古の真っ最中だ。


 お父様の言葉で心が軽くなった私は、翌日から馬術、剣術を学ぶため、我が家の馬丁兼剣士であるグラースに教えを請うた。馬術は兎も角として、令嬢が剣を振るうなんて反対されるかも、と最初こそ感じていていたがそんな心配は杞憂に終わり、二つ返事で了承してもらえた。


 何故私が剣を学ぶことに反対がなかったのかというと、それはガランサス家教育方針が特殊だったからだ。以前も述べた通り我が家の家訓は”足らぬなら自らで補う”だが、中でも特に武術に力を入れており、男は勿論のこと女にも鍛錬を薦めている。他家のことは知らないが、この家の子供に生まれて良かったと心底思った。


 因みに馬術の方はまだ私に見合う馬が無かったので、もう少し大きくなってからとのこと。確かに前世の記憶では、私くらいの子供はポニーとかに乗っていた。しかし我が家には大人が乗る馬しかいないのだ。なので現在私が出来ることは、魔法の勉強と体力作り、そして剣術くらいなものだった。そのため現在の服装は、シャツにパンツという令嬢としてはあり得ない、しかし機能的で楽な出で立ちであった。


「ーーよーし、今日はここまで」

「はい。グラース、ご指導ありがとうございました」


 乱れる息を整え、戦術の指導をしてくれた男に向かって頭を下げる。相手が自分より身分が下でも教えを受けている以上、礼を示すことは大事だと思う。以前の私であれば抵抗したであろう行為も、自然と受け入れられる。記憶が甦って良かったと思えることの一つだ。


「お嬢様、 こちらで汗をお拭きください」

「ありがとう、リタ」


 少し離れた所で訓練を見守っていたリタからタオルを受け取り、代わりに木剣を渡す。タオルは少し濡れていて、冷たくて気持ち良かった。


「にしても嬢ちゃん、稽古を始めてから約一ヶ月か。だいぶ上達したなぁ」

「本当? ウチの最強剣士にそう言ってもらえて光栄だわ」

「だっはっは! そう言うならもうちょい給金上げてくれよ」

「それはお父様に言って頂戴」

「ツレねぇなぁ」


 燻んだ灰色の髪を無造作に束ねた見た目三十代の男・グラースは、言葉程残念がることもなく楽しげに笑っている。

 しかしこれでも優秀な剣の使い手で、昔はお父様にも指南していたくらいの実力者でもあるのだ。なのでかなり教え方が上手い。彼が魔法も教えられたらどんなに良いか。


 ……正直、今の状況に限界を感じていた。独学で行うには、魔法という分野は複雑で難解過ぎる。最近なんかは魔法に関する本を読んでも、理解が出来ないことが多くなってきている。なので優秀な指導者が欲しいと考えているのだが、まあ貴重な魔法師を雇う程のお金は我が家にはないし。最近は、欲しいな〜でも無理だよな〜の繰り返しばかりしている。


「グラース……お嬢様に対し失礼でしょう。何度言えばわかるのです」


 思考の海に浸っていると、真面目なリタがグラースの言葉遣いに苦言を呈していた。しかし注意された男は気にする様子もなく、緩い笑みを浮かべたまま、肩を竦め飄々としている。


「リタ、私は気にしてないわ」

「ほら、嬢ちゃんもこう言ってるしよー」

「あなたが威張ることではないでしょう」


 大人二人のやり取りに、思わず溜息が出た。

 リタはともかく、この男、記憶が戻る前までは礼儀正しく従順な態度を取っていたのだが、記憶が戻ってからは現在の、気怠げなやる気の無い態度を表すようになった。こちらが素なのだろうが、ある時、何故猫被りをやめたのか問い正すと、「前より気安くなったから」などと返してきた。

 別にこの程度のことで怒らないが(寧ろ嬉しいし)、そのあまりにもダラけきった姿には時々もうちょっとシャキッとしろや、と文句を言いたくなることもある。

 まったく、私が馬に舐められた時は泡食った顔をしていた癖にねぇ。


 このやり取りはこれまで何度も行われてきたため、リタもこれ以上続ける気は無いらしい。まあ、無礼な態度を取られてる私が許してしまっているから仕方がないんだけども。


「お嬢様、お部屋に戻って着替えましょう。それと冷たいお飲み物もお持ちしますね」

「助かるわ。とても喉が渇いていたから」


 タオルを返して、私は未だ離れた所で大人しくしている子犬を呼ぶ。


「オズ。戻りましょう」

「ワンッ」


 元気良く駆け寄ってくるオズを撫でて、私はリタを引き連れて屋敷に戻ろうとした。


「お嬢様ッ!」


 背後からリタの、鋭く私を呼ぶ声に驚いて振り返った。しかしそこにいた筈のリタが消え去り、代わりにどこか靄の掛かった様な空間が広がっていた。よく見れば我が家の庭であることは変わりない。だがリタの存在は勿論、風が草木を揺らす音も鳥の囀りも、一切消え去ってしまっていた。

 突然の状況に呆然とするしかない。ドクドクと心臓の音だけが聴覚を刺激する。


 すると音も無く、地面から黒い影がゆっくりと伸びた。

 影は空中で形を変え、大きな黒い鳥になった。鳥はカアッ、と一鳴きして黒い羽を撒き散らしながら羽をバタつかせた。

 烏だ。物凄く大きいが、私の(前世が)大の苦手な烏が目の前にいる。

 真っ黒な目が私を見下ろし、獲物を見つけた様に細まった。一瞬で血の気が引いた気がした。


「ほぎゃああああああっ!!」


 情けない声を上げて、伯爵令嬢は逃げ出した。





*****





 米神に伝う汗を乱暴に手の甲で拭う。鍛錬の時とは違うじっとりとした汗が不快で、はしたないが首に近いボタンを二つ外すと、幾分か緊張が解れた気がした。

 にしても、ドレスを着てなくて良かった。もしドレスなんか着ていたら、あの怪物烏の餌食にされていた。


 怪物烏から逃走した私は厩舎小屋に隠れていた。本当は屋敷の中に逃げたかったが、どんなに押しても引いても扉枠にくっ付いてしまったかのように、ビクともしなかったのだ。咄嗟に扉が無い厩舎のことを思い出せて本当に良かった。厩舎の入口は、怪物烏が通るには小さいため、奴は入っては来れない。しかし、このままで良い訳がないことも同時に理解していた。


 小屋の中を見回す。普段は馬が二頭いる筈なのだが、その存在はぽっかりと消え失せていた。というか私以外の生き物の気配を全く感じられない。


「『幻』かしら。それもかなり高等の」


 以前書庫で読んだ本の中に幻術に関する一節があった。曰く、幻術とは対象の視覚、聴覚などの感覚器に作用する魔法で、その効果は単なる属性魔法よりも術者の力量による所が大きい。幻覚が現実とより遜色がなければない程、その術者の実力は高いと言っていい。


「さて、いつまでも隠れているわけにはいかないわよねぇ」


 例え格上の魔法師であっても、無敵の魔法などそうそう無い。幻覚もまた然り。特にこういった持続性を持つ魔法は、どこかに支点というか核のようなものが必ず存在する。今回は十中八九、あの怪物烏だろう。


 私はコソッと出入口に近付く。地面に影が見えた。

 こいつ、屋根に乗ってやがる。


「飛び出したところを狙い撃ちってこと。執念深い烏ねぇ」


 思わず舌打ちしそうになったが、令嬢のプライドで押し留める。

 視線を移せば、馬用の干草が積まれているのが目に入った。これを使おう。右手をそれに翳し、意識を集中させる。

 幻覚の世界だからか、空気中の魔素の動きが緩慢だが、そんなことは関係ない。体内の魔力を練り上げて、腕を振った。


 干草は物凄い勢いで宙を舞い上がり、小屋の中をぐるりと一周した後、もっと広い場所を求めるかのように出入口に突撃した。


「けほっ、ちょっとやり過ぎたかも」


 服にくっ付いた干草を払い落としながら、私は前に翳したままの右手に集中する。この手が生み出した突風は、小屋の周りをぐるぐる回っている。外から烏の慄いたような鳴き声が聞こえた。

 チャンスだと私は小屋から飛び出した。屋根の上では怪物烏が己を取り囲む旋風から逃れようと暴れているが、風相手に無駄な抵抗である。


 吹き飛ばしてやる! と腕を振り上げたその時、私はもう勝ったと油断してしまった。風を頭上に集中させた時、愚かにも奴を拘束していた旋風すらも戻してしまったのだ。


 案の定、自由になった怪物烏が私に向かって一直線に突撃してきた。しまったと思った時にはもう遅い。羽音と迫ってくる姿に身体が竦んで、腕を振り下ろすのが遅れた。眼前に迫る影に為す術なく、反射的に目を瞑った。


「ワンッ!」


 いつまでも衝撃が襲ってこないのと、聞き慣れた咆哮に恐る恐る瞼を開けると、怪物烏と睨み合う小さな黒犬の後姿があった。


「オ、オズ!? どうして……?」


 幻覚の世界に何故オズが? ……いやそれよりも、このままではオズが危ない。オズは小さいから、すばしっこく小回りが利くけれど、怪物烏に一撃でも喰らったら致命傷だ。早く倒さないと。そして何より、オズがくれたこのチャンスを無駄にしてはいけない。


 深呼吸をして、頭上の風の塊を見る。歪んで空気の抜けた風船のようにヘニャヘニャになったそれを、意識を集中して凝縮する。ついでににもっと疾く、もっと鋭くと、イメージを研ぎ澄ましていく。


「オズ、下がって!」


 オズが飛び退いたのを確認して、思い切り腕を振り下ろす。小さな竜巻となったそれは、突き上げるようにして怪物烏の腹部に直撃した。


 怪物烏は白い煙を立たせながらボロボロに崩れ、砂となって消えた。

 コン、と砂に紛れ薄い紫色の鉱物が地面に転がったのに気付いて、上から覗き込んでみる。

 まだ研磨されていないそれは、私の掌で覆えるくらいの大きさだ。それに恐る恐る触れてみるとヒビが入り鉱物は呆気なく粉々に砕け散ってしまった。すると同時にこの空間が歪み始め、私はあの鉱物がこの幻覚の核であったことを察した。


 靄が濃くなり、空間が白に染まっていく。私はそれをぼんやり見つめながら徐々に降りてくる瞼に逆らうことなく意識を手放した。






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