96, 七倉さんの行方
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「夜はバスに乗っていこう」
お祖母ちゃんが言っていた言葉を繰り返して僕は頷いた。
高校野球の決勝戦はもう終わっていたので、夕方までの僕は手持ちぶさただった。もう1週間もすれば休みが終わってしまうので、せっつかれるようにこなした夏休みの宿題をひとつだけ完成することができた。
日はまだ高くて明るかったけれど、僕は祖母が箪笥から出してくれた浴衣を着ると家を出た。なぜか片手には内輪を持っていた。
祖母に手を振りながら、僕は久良川本町の、山際の奥深いところにひっそりと建っている、祖父母の家を後にした。周りは田んぼばかりだった。民家は殆どなくて、里山の裾野ににょろにょろと伸びる細い道が、車がわずかに通る市道まで続いていた。
「七倉」
僕はバスの経路図を思い出して、指折り数えて降りるバス停を確認した。ひい、ふう、みい、よっつめのバス停だ。この集落から久良川本町の中心まではそれほど離れていないけれど、七倉の手前からバス停が増えてくる。
「そうだよ、七倉」
僕は手に持った内輪を見た。それはお祭りのために近隣に住むひとたちに配られた内輪で、そこには細かい文字でいくつもの会社の名前が書いてあった。会社の名前には何カ所にもわたって「七倉」の文字があった。
惣社は七倉のすぐ側だった。
でも、以前は七倉にバスは通っていなくて、交差点を3つ西側の市道を走っていた。
「便利になったなあ。きっと七倉さんのお陰だね」
僕は小さく頷いた。
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『七倉』
バス停にはそう書いてあった。もちろん、七倉本町の中心部にあたるこの近辺は、前に何度か訪れたことがあるので、道に迷う心配はあまりなかった。それでも、祖母の家から惣社に向かって歩くのは初めてだったから、バス停を目指して歩いていたわけだった。
それに、僕はすこし早めにバス停にたどり着けば、相坂さんを出迎えることができるだろうと思っていた。相坂さんは電車とバスを乗り継ぐことになるので、きっと僕よりも早く神社にたどり着くことはないと思った。
それでも、30分も経たないうちに相坂さんが現れたときにはびっくりしたんだけれど。
相坂さんの姿はすぐに分かった。背は低くて小柄だけれど、相坂さんはとてもよく目立つ風貌をしている。ひとよりもちょっとだけツリ目だけれど、印象に残る強い目つき。いつも引き結んでいるけれど、それがどこか他の人とは違うミステリアスな魅力のある、無口なクラスメート。
でも、相坂さんは笑うととても可愛らしい女の子で、気を抜いているとあっという間に好きになってしまいそうになるくらいに可憐だった。しかも、今夜は相坂さんも浴衣を着ていて、げた履きだった。
「聡太、待っていてくれたのですか?」
「うん、僕はお祖母ちゃんの家にいるから歩いて来られるからね」
僕は相坂さんの着物を観察した。白地に鮮やかな朱が散っていて、とっても華やかだった。相坂さんにはとても似合っていると思う。
「鮮やかで可愛いけど……目立ちすぎない? ただでさえ相坂さんは可愛いから目立つのに……」
僕が心配したのは相坂さんの能力が、お祭りに来ているひとたちに影響を及ぼさないかということだった。相坂さんの能力は、相坂さんのことを可愛いと思うひとに対して命令することができる……暗示に近い能力だった。相坂さんのために何かをしなければならない、せずにいられない、というとても強い感情を植え付けてしまう。
それで僕は気にしたのだけれど、相坂さんはなぜかとても上機嫌になったのか、普段は絶対見せないような、歯を見せる笑顔をして言った。
「そう長い時間ではないですし、暗くなるから心配しなくてもいいですよ」
暗くなるといっても、きっと神社の境内のなかは明るいだろう。けれども、相坂さんは立派な能力の使い手だったから、ある程度なら能力そのものを抑えることができる。相坂さんは今夜をそれで乗り切るみたいだった。
「そういえば、しばらく前にメールができない時期があったみたいですが、何かあったのですか?」
惣社に向けて歩きながら相坂さんは尋ねてきた。もう10日以上前になるけれど、僕はしばらくの間、ケータイに来た電話やメールを返信することができない場所にいた。それで、相坂さんから貰ったメールを返信することができなかった。詳しく説明するとかなり大変だったから、僕は次に会ったときにこの話をするつもりだった。
「実は七倉さんのお姉さん――あ、お姉さんと言っても本物の姉妹じゃなくて、能力の師匠みたいなひとなんだけれど、そのひとに孤島に呼び出されたんだ。その島には七倉さんの家が持っている館や屋敷があって、そこで七倉さんを試すために、不思議な能力者を集めてテストをしたんだ」
「そこに聡太も呼ばれたということなのですね」
「うん、七倉さんと一緒に島の中の謎を解かないといけなくなって、ずいぶん苦労したよ」
相坂さんはこくこく頷きながら僕の話を聞いて、けれども、それで僕たちが謎を解けたのかどうかを聞くことはなかった。相坂さんもまた楓さん――七倉さんの師匠でとても強力な能力を持っている女性――と、どこか似たような雰囲気を持っていた。威圧感のようなものを。
「で、その七倉菜摘の先生は聡太を試したわけですね」
「うーん、試したのかなぁ……」
「そうに違いないのです。とても失礼なことなのです」
「あ、やっぱりそう感じるんだ」
そういえば、あの島で七倉さんが楓さんに対していちどだけ真っ向から反論したことがあった。僕に対して謝るように言ったんだ。ちなみに、楓さんは僕に対して謝ることを約束したし、七倉さんもそのために館全体にかけられた魔法のような力を解いた。
「それで、ちゃんとお詫びもして貰ったんだけど……」
「当然だと言わなければならないのです。でも、何をして貰ったんですか?」
「まあ、うん……内緒」
僕は言葉を濁した。それは相坂さんに話すような内容でもなかったし、直に目にしなければあの不思議な島での出来事は分からないと思ったからだ。もっとも、相坂さんには手短にその島で起こったことを説明して、それで相坂さんも理解してしまったんだけど。
相坂さんはちょっとだけ不満そうな表情をしたけれど、呆れたように息をついてそれ以上は追及しなかった。
「まあいいです。能力のことについて嗅ぎ回るのは、あまり行儀の良いことではないに違いないのです。でも、七倉菜摘はこのお祭りの時期にどこへ行ったのですか」
「お盆の間はこっちにいたみたいなんだけど、それが過ぎたら避暑に行くんだって。それはそれで七倉家のつきあいのために必要らしいんだ。いつもの年なら暑い盛りの8月上旬に行くんだけど、今年は楓さんと会っていたから時期をずらしたらしいよ。もう2学期も始まるし、そろそろ戻ってくるはずだけれど」
「お嬢様ですからね。でもなんとなく、面倒くさいから逃げ出したような気がします。きっと、お祭りにも顔を出さなければならなかったはずです」
「そうかなあ。七倉さんは与えられた役割はキッチリこなしそうだけど」
「しっかりしているからなのですよ。きっと今日、七倉菜摘がここにいたとしても、私たちとのんびり露店巡りをする……なんてわけにはいかなかったに違いないのです」
たしかに、今日の夏祭りは七倉さんの家にほど近い久良川惣社で催される祭事だったから、このあたりきっての名家の七倉さんは、きっと付き合いのようなものがあるはずだった。