95, 久良川惣社夏祭り
高校生になった僕が初めて迎えたこの夏休みには、とてもたくさんの出来事があった。
そのうちのひとつ、僕のクラスメートである七倉さんの別荘に行ったことは八月の上旬の話で、それとそれにかかわるちょっとした事件を七倉さんとふたりで解決したのは先週の話になる。この間に、祖母の家に留まっている僕は、祖父・司聡一郎の初盆を迎えて、何人かのひとと出会った。祖母の家を尋ねたひとたち中には、きっと何人か不思議な能力を持ったひとが混じっていたのかもしれないけれど、その人たちにかかわる事件が何か起こったわけではなかった。
僕は久良川本町の祖母の家で、仕事を終えて盆休みに入った両親や、近隣から帰省してきた叔伯父、従兄弟たちと、いつもの年と同じように顔を合わせた。僕がこの夏までに出会ってきた能力者たちが、この盆の間には顔を見せなかったのは、もちろん僕たちと同じように家族と会っているからだっただろうけれど、異能の力のことを知らないひとたちが祖母の家におおぜい来たからかもしれなかった。
もっとも、僕の祖母は相変わらず鍵を掛けられる不思議な力を隠しながら、ときどき、僕だけが見ているときだけ使ってくれた。たとえば、祖母が雨戸を閉めるときに、ほんのすこしだけ戸を叩くと、それで雨戸は糊で固めたかのように動かなくなった。
それはまるで映りの悪くなったテレビを叩いて治すみたいな、おかしな行動ではあったけれど、きっと祖父がいなくなって祖母の能力を見せる相手がいなくなってしまったからだと僕は思った。
とはいえ祖母は元気で、僕が七倉さんの別荘から久良川本町に戻るのを、子供や孫のぶんまで食事を作って待っていてくれたんだけれど。
そういえば、七倉さんは8月の盆のあたりからしばらく忙しくなるらしかった。もともと、七倉さんはとても大きな家のお嬢様だったから、盆の時期には親族が集結するせいで、七倉さんは親族会議にはかならず出席しないといけないらしかったし、その行き先が久良川だけに限らなかったらしい。
だからこの期間の僕は、まるで能力者との関わりがなくとても平凡な日常を過ごしていたんだ。
盆を過ぎると、久良川本町は少しだけ暑さが和らいだようになった。
朝夕はわずかに風が出るようになったし、セミの鳴き声もヒグラシが混じるようになってきた。もっとも、それは人家の少ない、この久良川本町の山沿いの集落のことだけで、七倉さんの家のある久良川七倉のあたりや、人口の多い久良川全体では、まだまだアスファルトに照りつけた太陽の熱が、夏の暑さを増幅しつづけるばかりだった。
8月の暮れだった。
僕はいつもの年よりも長いこと久良川本町に留まっていたけれど、そろそろ久良川の家に戻ろうかと考えていた時期だった。もちろん、両親や従兄弟はもうUターンしていて、家の中には僕と祖母しかいなかった。
それでも、僕の手元にはケータイがあったから、友達や知り合いからの連絡が時々入ってくる。七倉さんはこういう電子機器の取り扱いが苦手だったから、よほどの用事でも無ければ電話をくれるなんてことはなかったけれど、河原崎くんや、相坂さん、御子神さん……、それからなぜか氷上桃子さんからもメールが届くことがあった。
この日の電話もそんな連絡のひとつだった。着信は相坂さん。
「もしもし、聡太ですか」
電話の向こうの声はとても明るかった。相坂さんはわりと不機嫌な口調のことが多いような気がするけれど、この頃はなぜか相坂さんの機嫌の良し悪しが分かるようになってきていた。悪い用件ではないみたいだ。そうだと分かると僕の声も自然と明るくなる。
「相坂さん、どうしたの?」
「お祭りなのです」
「お祭り?」
「そうなのです。久良川の惣社祭りなのです。行かなければならない、と言わざるをえないのです」
ちょうど僕がくつろいでいた居間の隣で、祖母が台所に立っていたので僕は尋ねた。
「今日、惣社祭りがあるの?」
包丁がまな板を叩く音が止まって、祖母は下ごしらえの手を止めて答えた。
「そうだよ、お昼に言おうと思っていたけどねぇ」
そうか、祖母はいつもせわしなく働いているせいで、僕に言うタイミングは食事のときがいちばん多かった。もし相坂さんが電話をくれなかったとしても、昼食のときに教えてくれただろう。きっと「今日のお祭りには行くのかい?」と聞いてきて、僕は考えてその気になれば行っただろう。うん、繋がった。
「そっか、夏祭りがあったんだね」
「そうなのです。そういえば聡太は久良川に引っ越してまだ何年にもならないのでしたね。毎年8月の下旬に久良川の惣社では夏祭りが開催されるのです。このあたりでは大きなお祭りですから、行かなければならないと思ったのです。聡太も……行かなければならないのです」
「うん、行くよ」
僕はすぐにその気になった。
「一昨年はまだ町に慣れていなかったし、去年もお祭りのことは知らなかったんだ。今年は行きたい」
「じゃあ決まりなのです。場所は分かりますか?」
「七倉だっけ?」
ちょっと言いづらい地名だった。まるで七倉さんを呼び捨てにしているみたいだったけれど、それは惣社の目の前にあるバス停だった。ちなみに七倉さんの家のほんの近所でもある。
それに、七倉のバス停は本数も多いしいくつかの方面のバスが停車するから、実は七倉家の力で置いたバス停なんじゃないかと思ったくらいだ。実際は惣社があるからなんだけれど、それを差し引いても便利すぎるので「あのお金持ちのお屋敷に行くために作られたバス停なんだ」という噂を聞いたことがある。
ただ、お金持ちのお屋敷に行くような人が、わざわざバスを使う必要があるとは思えなかったから、単なる噂に過ぎないんだろうけれど。
「バスで行かなければならないのです」
「相坂さんは遠くない? たしか相坂さんの家って、高校の向こう側の……」
僕は高校の東側の町名を思い出しながら言った。高校のあるあたりの、さらに隣の液だから……相坂さんの家の周辺が久良川町内なのかどうか自信が無かった。
「ぎりぎり久良川東町なのです。本町からは少し遠いと言わざるをえないです。でも、近くのバス停まで行けますから、それほど面倒な道のりではありません」
「じゃあ、バス停で待ち合わせたほうがいいかな?」
「いえ、着いたら連絡します。心配はしなくてもよいのです」
相坂さんは少し含みを持たせていった。それはきっと、相坂さんは背が低いことを心配しなくてもいいと言っているようにもとれたし、相坂さんがとても可愛いから不安になったほうがいいと行っているようにもとれた。たぶん両方。
「うん、なるべく早く行くよ。じゃあ」
「また夕方に」
電話を切って時計を見るとまだ昼食には早かった。僕は炬燵机の紙の束を手にとって探すと、惣社夏祭りのチラシを見つけた。5時ごろから始めるらしい。本庁の中心から外れたこの家からなら、4時半くらいに出ればいい。
「帰りはバスに乗っておいで」
夜道を心配した祖母が言った。もっとも、夜に治安が悪くなることの心配よりも、真っ暗な農道を歩いているうちに、道路脇の田んぼに転がり落ちることのほうを不安に思っているような口ぶりだったけれど。