93, 恋ヶ奥深雪の結界
楓さんが首を傾げたので、絨毯まで流れ落ちるほどの髪がさらさらと横に流れた。
「菜摘は私が七倉の能力を正しく使わなかったと思っているのですか?」
「……楓お姉さまが誤って力を使ったことはなかったですけれど」
七倉さんは拗ねたような口調だった。納得していないみたいだけれど、いつもよりも子供っぽい態度が可愛かった。それは楓さんにとっても同じだったらしいくて、くすくす笑った。今度は、なんだかとても自然な笑い方だった。
「いいえ、もちろん謝らせて頂きます。もし司様がお望みならば、今すぐに館の外へ連れ出して差し上げ、菜摘がこの館から出られるまでお好きな場所に観光などされるなどされても構いません。お望みでしたら、お詫びにこの楓が案内いたします」
「そっ、それは菜摘がいたしますっ!」
正直に言うと楓さんに案内されても後が怖いような気がするので、七倉さんが慌てて止めてくれて助かった。いつの間にか僕が弱点を探し当てるまで脱出不可能の異空間に閉じ込められかねない。
「約束は守ってください。七倉菜摘は、精一杯挑みます」
「……ええ、それでは精進してください、十六代様」
あれ……?
一瞬だけ、僕はとても懐かしい気持ちを覚えた。どうしてだろう。それはほんのわずかな重なりだったけれど、まだ元気だった頃の祖父を思い出したんだ。古い、物語の中にだけ残る強力な能力者の残り香みたいな……。
でも、その楓さんに挑もうとする七倉さんのことを、僕は意識してしまって頭から離れることがなかった。
「開けられます」
七倉さんは自分自身に言い聞かせるように言った。食堂の中に楓さんはもういなくて、隣の調理室では恋ヶ奥さんと式島さんが片付けをしている。珍しいことに、京香さんもいなかった。楓さんに呼び出されたみたいだった。
そして、僕と七倉さんだけがこの食堂に残っていて、おあつらえむきに七倉さんは僕以外のどの能力者を頼ることもできなくなったし……おそらく、させてもらえなかった。
「恋ヶ奥さん、式島さん、京香さん、そして楓さんまでは分かりました。司くんのお陰です。決して自信が無いわけではありません。それは、今の楓さんとの会話で確信しました。やっぱり、司くんの考えは正しいです。
箱は、一方が開けられるものです。そして、この館も出入り口がひとつだけです。とても大きな館なのに、三方が閉じていて一方だけが開けられます。そもそも、この館と屋敷のある敷地は箱に見立てることができますが、実際には何にも囲まれていません。それに比べると、館そのものは『箱形』ですからもっと頑強な箱です」
でも、と七倉さんは俯いた。七倉さんは全くこの鍵を開ける自信がないのではなかった。だから楓さんのとても上品な挑発に乗ったのだった。
けれども、僕たちはどうしても姿を変えられる人を追い詰めることができなかった。それは、七倉さんの能力が強力だけれども融通の利かない力だったからだ。それでも、僕はどこか七倉さんの力に不思議な安心感のようなものを抱いていた。
たしかに、七倉さんの力は楓さんよりも弱いと思う。七倉さんはあまり自信がなさそうにも見える。けれども、僕にとっての七倉さんは、七倉さんが思っているよりもずっと強力な、異能の力の使い手だったんだ。
「都さんはきっと姿を現すよ。――七倉さんが鍵を開けるなら」
七倉さんは決心したような目をして僕を見上げた。
僕たちは館のエントランスホールに足を運んだ。見取り図を見ると、ここは食堂から近く、楓さんの部屋からもほど近い。特に、楓さんの部屋からは渡り廊下の様子を見渡すことができるので、もし僕たちが玄関へと来れば、この館の中にいる全員が目にするはずだった。
恋ヶ奥さん、式島さん、京香さん、楓さん……。
いま、全員が視界の中に入っているその中心で、七倉さんは玄関の大きな扉の前に立ち尽くしていた。でも、すぐにはその手を扉に掛けることはできなかった。胸の前で手を組んで、呼吸を整えていた。
まず、この空間を作り出した能力者のこと。これは恋ヶ奥さんと式島さんのどちらかだった。式島さんとは殆ど話すことができなかったけれど、恋ヶ奥さんからは何度か話を聞いている。
もし恋ヶ奥さんが本当のことを言っているのだとすれば、式島さんは能力者ではなく、恋ヶ奥さんはこの空間を作り出しながら能力者の力を抑えていることになる。
でも、僕たちは覚えているんだ。
たしかに、この屋敷の中は結界の中だ。完全に完成するまでも、七倉さんの能力を押さえつけるくらいの効果を持っていた。でも、いま全ての能力者が勢揃いして、その能力の正体も分かっていた。
この結界……箱を作り出す能力は、敷地を出てしまえば効果を失うはずだ。
恋ヶ奥さんじゃない。
僕たちを港まで出迎えた恋ヶ奥さんは、何の能力も持っていない。僕と同じく、ただ異能の力のことを知っているだけのふつうの人だ。本当に能力を持っているのは――式島さん。
でも、それなら恋ヶ奥さんは嘘をついたことになる。本当にそうなんだろうか?
たしかに、恋ヶ奥さんは本当のことを言っているとは限らない。でも、もし僕と七倉さんが興味本位で楓さんや式島さん、都さんに色々なことを聞き回ったとしたら?
いちいち口裏を合わせる、なんてことはできない。逆に、デタラメばかりを並べているとしたら僕たちはとうに恋ヶ奥さんの言葉を信じていないはずだった。
結局、今日に至るまで、この館の中で七倉さんに対して嘘をついている人はいないんだ。七倉さんは七倉本家の長女で、きっと、楓さんは失礼になることを避けてむやみな嘘をつくことは許さなかった。ただ、能力者としての上下関係だけははっきりさせた。
――きっと、七倉さんが能力を使おうとするために。
だとしたら、誰もが嘘をつかない方法がある。それでいて、僕たちの推理を攪乱させるための方法があるんだ。
「恋ヶ奥さん」
七倉さんは式島さんに向けて一礼した。
「見事な『箱』です。私の力ではとても気づきませんでした。偽りなく、私は楓さんには及びません」
式島さん――いや、恋ヶ奥深雪さんは相変わらずとても冷たい目をしていた。もちろん、このひとは初めから不思議な雰囲気を漂わせているひとだった。相坂さんと似ていて、人を寄せつけない。ほとんど話もしていない。いつの間にか楓さんの側にいて、また姿を消してしまう。
けれども、恋ヶ奥さんの能力はいくつかの特徴を併せ持っていた。おそらく、どこでも発動できるものではないだろうけれど、恋ヶ奥さんの名前にその特徴は全て含まれている。
「奥深い雪のなかでは音も聞こえない」
「電波もでしょうか?」
七倉さんがぱちぱちと瞬きをすると、恋ヶ奥さんは黙って頷いた。無口な人だった。まるで口を開くと吐息が凍えてしまうかのように、話をすること自体を拒んでいるみたいだった。
「雪国のご出身でしたら、また雪の降る真冬の時期にお目にかかりたいです。今は真夏で、全力ではなかったでしょうから」
「雪が融けて雨になっただけのことです」
それが答えだった。恋ヶ奥さんの能力は雨を降らせる能力なのではなくて、ただその名前にもある白い綿雪が融けて、ひとつの雪室が綻んでいただけだった。だからその空間は決して完璧な結界などではなくて、たぶん計算ずくめの、手加減された結界だった。
恋ヶ奥深雪さんは口数少ないまま頭だけを下げた。