91, 七倉さんと閉じた箱
「私が、気がつかないうちに扉を開けてしまっていた……」
それは、僕が初めて七倉さんの能力を目の当たりにした日のことだった。七倉さんは扉が閉じているとは気がつかずに教室の鍵を開けた。きっと、本当に何の手応えもなく鍵が開いてしまったんだろう。僕たちが侵入を拒まれるのと違って、七倉さんにとって鍵の掛かった部屋は、むしろ他の人が近寄らない落ち着ける場所なんだ。
「もし、七倉さんの目の前に鍵の掛かったものを置いても、あっさりと開けられるものなら何の疑問も持たずに開けてしまう。だって、鍵も掛かっていないものを警戒する必要なんてないんだから」
それは、鍵開けの能力なんて持っていない僕であっても同じことだった。僕は鍵の掛かっていない扉をいちいち鍵が開いていないかなんて考えない。そんなことを予想するのは、ほかに鍵が掛かっていないという情報を得ているときだけだった。
きっと、七倉さんは鍵に対して相性が良すぎるんだ。あまりにも強力な能力を持っていて、それは楓さんも認めている七倉の血を最も色濃く受け継いだ、七倉さんの天賦の才能に違いなかった。
七倉さんは無意識にでも能力を使うことができる。
もっとも、それは七倉さんの最大の長所だったけれど、同時に今の七倉さんにとっては短所でもあった。まさかとは思う。あまりにもすんなりと鍵を開けられるせいで、鍵を開けたことに気がつかないなんて!
「七倉さんが気づかないまま僕たちが結界内に入り込んでしまうと、もちろん、僕はそれから何をされても気がつかないことになる。僕に対して能力が使用されても、七倉さんが気がつかないことには僕自身が気がつくことはないんだから」
「司くん、その先を教えてください」
いつしか、七倉さんは手を膝の上にのせて、まるで楓さんを前にしたときのように畏まった様子で、僕のことを見つめていた。
「これは、私自身では絶対に気がつかなかったことです。いえ、楓さんが気づかないようにしているのだと思います。たしかに、私と楓さんの実力差を考えれば、私が気づかないことは仕方ないのかもしれません。でも、非現実的な空間に入り込んでしまっているのに気がつかないのは、異能の使い手として恥ずべきことです」
「僕だって能力のことは気がつかないよ。七倉さんがとても強い力を持っているから、かえっておかしいことが分かっただけなんだから」
「では、私と司くんは一緒です」
七倉さんは身を乗り出して、僕の目を覗き込んだ。
「司くんが異能の力を持たないことは、司くんにとっては最大の弱点です。でも、それは私たちが特殊なだけで、その欠点はいくらでも補うことができます。けれども、私が異能の力のことに気がつかないのは、私が力を使いこなしていないせいです。そして、楓さんは私たちふたりの弱点の重なりを衝いてきて、私はそれに気がついていませんでした。だから、教えてほしいんです」
僕は七倉さんが自分と一緒だなんて思っていなかった。いまこうしていても、僕は楓さんの能力に驚いているばかりだった。それなのに、七倉さんは楓さんに立ち向かおうとしていた。それは七倉さんの生まれながらにして持った力がなせるのか、七倉さんのときどき向こう見ずな性格がさせる行動なのか分からない。
けれども、あの楓さんに対抗できるのは、おそらくこの時代でたったひとり、この七倉さん以外にいないということだけは僕にも分かった。
「司くんのお話を聞いて分かりました。楓さんもこの結界を『開ける』能力を使っているのでしょう?」
「うん。元々、結界は出入りを制約する空間のことだから、開いていたら意味の無いものなんだ。それに、結界の中に七倉さんがいるんだから、結界の持ち主を抑えるだけの力を持ったひとじゃないといけない。それだけの能力をもつひとは、楓さんしかいないと思うんだ」
「楓さんでしたら可能なことだと思います」
七倉さんが手をぎゅっと握りしめた。それはたぶん、七倉さんにはまだできないことだった。
「楓さんが私たちの弱点を衝いてきたことは分かりました。それに、私の能力を抑えられる状況も分かります。では、次に問題になるのはその空間の仕組みです」
「うん、当然だけれどこの結界は館と和屋敷のあるこの敷地内一帯に広がっているはずだよね」
楓さんは七倉さんの弱点を狙ってくる。それは、前に僕たちが探し出した楓さんの手紙で学習済みだった。そうだ、あのときはインターネット回線を使っていたから、七倉さんが見つけられなかったんだ。
今回は、楓さんがインターネット回線の使用を封殺している。携帯電話も。
ひょっとして、これは意趣返しなのかな?
でも、もしそうだとすれば、連絡手段が途絶していること自体に意味があるという推測を補強することになる。僕は自分が描いた見取り図を、テーブルの上から取り寄せた。
「いま、この館はひとつの箱になっている。その箱は、四方を斜面でほぼ囲まれたこの館全体で構成されている。入り口は3カ所、ただし入り江は出入りが困難で、実質上は2カ所だよね。このうち、跳ね橋は降りたままになっている。
そして、楓さんが教えてくれたとおり、今朝、都さんが最後の一本の道を通ってこの館にたどり着いた後、さっきから激しい雨が降り出して、交通と連絡が途絶したからその箱が完成している。もっとも、昨日の夜までも、この箱はほとんど完成していたみたいなんだけどね」
「都さんは本当にこの道を歩いて来られたのでしょうか。楓さんがそのような状況を作り出したことを宣言したようにも思われますが」
「うん、たぶんこの悪路を登ってきたわけじゃないと思う。たしかに、全然歩けないほどの道ではないんだけど、早朝に海岸からここまで上がってくるのは難しいよ。だから、これは楓さんが箱を完成させたことを教えてくれたんだと思う」
「そうだとすると、都さんはもっと前からこの館にいたことになります。どこに隠れていらっしゃったかは……」
「僕たちは全部の部屋を廻ったわけではないし、ここが結界の中なら居場所を特定するのは簡単じゃないと思う」
これはさすがに今の段階では手の出しようがなかった。それにひきかえ、楓さんの作り出したこの空間は対象が大きかったし、理屈に合わない現象が起こっていたから、むしろ楓さんが何か仕掛けたのでなければ困るくらいだった。