89, 司聡太の見る世界
それは僕の考え出した、くだらない思いつきだった。
一瞬だけ、時間が止まったように僕は何もかもを考えることができなかった。
その一瞬が過ぎた後、僕の頭の中にはいくつもの思考の断片が浮かんでは消えて、僕は開いたまま口を自分の手でふさがなくてはならなかったんだ。
転回だと思った。
それは普段なら絶対にありえないことだった。僕は今まで、自分が目にしていることを絶対の事象だと思っていたし、それが外れたことは錯覚を別にすれば全くなかった。だって、目の前にあるものが幻だとしたら、僕は何もかもを信じることができない人間になってしまう。
でも、今は違う。
「この世界が幻だとしたら」
その一言がとてつもなく重い事実のように思えた。
まさか、とは思った。自分自身が見ているものが全て偽物だったなんてありえない。そんなことがあれば、僕が理屈だとか推理だとか思っていたものは、全て無駄になってしまうじゃないか!
けれど、僕には瞬時に、自分が正しい考え方の道筋にたどり着くことができたということが分かった。それは突拍子もない思いつきにほかならなかったけれど、楓さんはきっと、僕がこれに気がつくかどうかを試していたんだと理解した。
「七倉さん……、僕が見ている世界は確かにホンモノなのかな?」
「どういう意味でしょうか?」
「僕だけがひとりだけ違う世界を見てる。比喩じゃなくて、たぶん現実に」
僕は自分の気を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返した。心拍数が上がり始めている。でも、きっと僕と同じことに気づいたひとは同じように冷静ではいられなくなると思う。
そして、こんな話は七倉さん以外にすることはできないと思った。いや、むしろ七倉さん以外に言ったとしても、きっと信じられることではないと思ったんだ。
それは、これ以上もなく当然の事実の確認から始まった。
「この館には能力者が6人いる。楓さん、七倉さん、京香さん、恋ヶ奥さん、式島さん、都さん。確実かどうかは定かではないけれど、この館にいる人間を分けるとしたらこの組み合わせになるはずだよ。つまり、この館には何の能力も持たない仲間はずれの人間がひとりいる――僕だ」
七倉さんは首を傾げた。それはとても魅力的な所作だったけれど、たぶん自然にそうしてしまったんだろう。七倉さんには理解できなかったんだ。もっとも、それは僕が陥った状況の裏返しでもあった。
「6人が分かっていて、1人が分かっていない。そんな状況下で、楓さんは僕に問題を出す……それがこの島に来てから起こった『事件』のすべてだ。館と屋敷以外の空間と隔絶されて、他にヒントを求めることはできない。僕がこの『事件』を解くためにできることは、僕自身が気がつくか、七倉さんに頼ることだけなんだ。でも、この島では殺人事件も、隠された秘宝の探索も、表だった確執も起こらない。ただ、6人の能力者がいるということで、非日常を垣間見ることができるだけ」
「私がふたりいるみたいだということは、事件ではありませんか?」
僕は首を横に振った。
「それは楓さんのヒントなんだ。楓さんがそう言ってた。つまり、事件はもうとっくに起こっているということなんだ」
思い出してみると、楓さんはいつも僕たちに対してヒントだと言っていた。それは単なる楓さんの余裕なのではなくて、事実だったんだ。
僕たちはまだ何も起こっていないと思っていたけれど、それがもう起こっていたとすれば、楓さんの言ったことは筋が通る。楓さんはもうとっくに僕たちを試すための策を実行に移していて、ただ笑顔で僕たちの行動を見守っているだけだった。
「起こるべきことは全て起こっていたんだ。それに僕が気がついていなかった。ううん、僕はずっと気がついていたんだ。あまりにも不自然なシチュエーション、出来過ぎた構図、当然のように在る違和感。おかしいと思っていた、それこそが起こっていたことなんだから。ふたりの七倉さんも、天気予報にない嵐も、僕たちへのヒントにすぎなかったんだ」
胸の高鳴りが抑えられない。いつしか、自分自身の体がとても熱くなっていることに気がついた。七倉さんは真剣な表情をしているけれど、僕とはまるで違う、冷静な姿だった。
それで、僕は不安になってしまう。七倉さんは分かってくれるだろうか。
でも、僕はこのとき七倉さんにだけは分かってほしいと思ったんだ。それで、僕はゆっくりとでも、七倉さんのとても綺麗な瞳に吸い込まれるように、少しずつ話し出すことができたんだ。
「6人全員がルールを決めて、全員がそれに従って行動する。演技なんていうレベルじゃない。6人にとってはそれが『常識』なんだ。1人には感じ取れない予兆、理解できないやりとり、何気ない習慣、これを6人が共有していて1人だけが分からないんだよ。僕だけが言葉の分からない異国に来たみたいな、圧倒的なハンデをつける。これなら6人は1人に負けることはない。絶対に」
七倉さんが立ち上がった。顔を紅潮させて、珍しく叫ぶような声をあげた。
「私は司くんを騙してなんていません!」
それは当然の抗議だった。失礼なことを言ったとも思う。
けれども、僕は引き下がることはなかった。七倉さんは僕の知らないことをたくさん知っているけれど、僕には七倉さんにとって盲点となっている部分が見えていたんだ。
「もちろん分かってる。七倉さんは僕を騙してなんかいない。それは分かっているんだ。けれど、ここで大切なことは、6人のなかに七倉さんさえ引き込めてしまえば、誰にも気づかれずに事を進められるということなんだ。そして、それは楓さんにすれば決して難しいことじゃないと思う」
「たしかに、私は楓さんには敵いませんけれど……」
「ううん、能力の強さの問題というよりも、もっと根本的な問題なんだ。そもそも、七倉さんは異能の使い手なんだ。僕とは違って当然なんだ」
「京香さんもいます」
それにはかぶりを振るしかなかった。
「僕は京香さんを本物かどうかを確かめることができない。僕は京香さんが本当に京香さんなのかどうかを判別できないんだ。たしかに、七倉さんが危機に陥れば京香さんは大慌てで駆けつけてくるとは思う。でも、僕は七倉さんを危ない目に遭わせることなんてできない。だから、京香さんが本物かどうかを見極める簡単な方法は、今のところ何もないようなものなんだ」
「私以外の全員を疑うということですか……?」