88, 七倉さんとの推論
七倉さんはローテーブルを挟んで向かいにあるソファに腰掛けた。さっきは七倉さんを疑うような行動をしてしまった僕だけれど、七倉さんは気を悪くした様子も見せなかった。
「ごく簡単な鍵ですので、触っただけで開いてしまったのですけど……」
「そのほうがいいよ。もし時間が掛かったら、扉の向こうで小道具を使って鍵を開けているのか分からなくなるところだよ。それにしても遅かったよね」
「はい、寝坊してしまいました。昨晩は夜更かしをしすぎてしまったのかもしれません」
「昨日、七倉さんと楓さんはあの和屋敷の地下室に行ったんだよね?」
確認の意味で僕は尋ねた。もしこれで七倉さんが首を横に振ったら、謎の変装名人が2人に増えてしまうことになる。ただ、七倉さんは予想外なことにひどく動揺しながら首をかくかく縦に振った。
「えっ、は、はい。実は、そうなんです」
僕はその態度がちょっとだけ気になったけれど、たとえ七倉さんが嘘をついてもとても分かりやすいような気がしたので、無視して説明を続けた。
「そのとき、僕も楓さんと七倉さんが話をしている部屋の外にいたんだ。もうひとりの七倉さんにその部屋まで連れて行かれた」
「あ、あの、それで、何かお聞きしましたか?」
「ううん、七倉さんたちに気づかれそうになったから、その七倉さんに引っ張られてすぐに屋敷を出たんだ。暗かったから、偽物の七倉さんの顔や仕草を見ることはできなかった」
「そ、そうですか。よかったです……」
「うん、良かったよ。でも、たぶんそれは、楓さんが意図的にふたりの七倉さんを見せつけたんだと思う」
「そうですね、私もそう思います」
七倉さんはほっとしたように息をついた。たしかに、ふたりの自分がいたということは期が落ち着かないかもしれない。僕だって、もうひとり見目形が全く同じような自分がいたとして、もうひとりの自分が勝手に行動していたら、心配で仕方ないと思う。
「ということは、この館にいるひとのなかで、他人の姿に似せることができる能力を持っている方がいらっしゃるということでしょうか?」
「七倉さんは心当たりがある?」
「いえ、久良川本町にはその手の能力をお使いになる方はいらっしゃいません。瓜二つというほどでしたら、擬態専門の能力者でないと難しいと思いますし、小手先の能力ではないと思います。ひょっとして、他のひとにも?」
「ううん、今のところは七倉さんだけ。けれど、もしかしたら他の人とも入れ替わっていたかもしれない」
もちろん、あのときの七倉さんといま目の前にいる七倉さんが全く同じだとは思わないけれど、あの偽物の七倉さんは見分けがつけられなかった。しかも、たぶん誰にだって化けることができる。
「全部を疑ってかからないといけないかもしれないんだ。でも、七倉さんだけは本物かどうか確かめることができる」
「はい!」
僕はソファに座り直した。七倉さんも起きてから身支度を済ませるだけの時間を経ているので、考え事をするのに苦痛ではないみたいだった。昼食はこの話が終わってからにしよう。
「まず、この島のことなんだ。この御影島に明治時代から残る館と屋敷は、両方とも七倉さんの家の持ち物で、太平洋上に浮かぶ孤島でいいのかな。いくつか無人島や小さな群島はあるけれど、連絡手段はほとんどない」
「はい、それは間違いありません。そのような島に別荘を持っていることは確かです。もっとも、実際に来たことはなかったのですけれど……」
「でも携帯電話も、インターネットも通じない島なんて今時ほとんどないよ」
「はい、びっくりです。ただ、それは楓さんが選んだわけですから……あっ! だから、携帯電話もインターネットも通じないことに意味があるというわけですね!」
「もちろん、偶然そうだったというだけかもしれないけど、楓さんは大抵のことに意味を持たせているよね。だからこそ行動のひとつひとつを監視されているみたいで怖いんだけどさ」
「舞台を選んだということなのかもしれません」
「うん、そして僕たちにそれを気づいてほしいと思っている」
七倉さんは頷いた。楓さんは、むしろ僕たちに謎を解かせたいと思っている。ただ、その謎の準備がいったいどこから行われていたのか分からないし、それに異能の力にかけては今の楓さんに敵うひとは僕たちのなかにいなかった。だから、僕たちは力を合わせないといけないわけだけど、僕は単純に七倉さんとちょっと変わった肝試しをして、こんなふうに話をするのが楽しいだけなのかもしれない。
「では、情報が乏しいことに理由があると見るべきでしょうか?」
「調べ物ができないからじゃないかな。僕たちは恋ヶ奥さんのことも、式島さんのことも僕たちにはよく分からないけれど、もしインターネットがあればメールで七倉さんの会社に尋ねることもできるし、情報を検索すれば何かひっかかるかもしれない」
「テレビだけは視ることができます。でも、私はあまり見ないので、部屋では本を読んでいるだけです。司くんはテレビは視ましたか?」
「うん、でもこの島に来てからほとんど視れていないんだ。七倉さんは天気が崩れるということは知ってた?」
七倉さんは慎重に考えてから、確信をもって否定した。
「いえ、嵐が来るという情報は聞いたことがありませんでした。なんとなくですが、この雨はどこかおかしいような気がします」
「そのことなんだけど、この館の周りだけ雨を降らせることはできるの?」
「相坂さんの能力なら可能です」
間髪を容れず僕の知っている名前が挙がって、僕はすこし驚いた。七倉さんは神妙な顔をしている。それは、掛け値なしの事実だということだった。
「……たしかに、近いものを体験したことはあるけど……、できるの?」
「できるみたいです、かなり大変だとは思いますが」
僕たちのクラスメートの相坂さんは、暗示に近い能力を持っている。その能力を簡単に説明すると、相坂さんのことを可愛いと考える男性を、相坂さんの思いのままにできてしまうというものだ。もし、相坂さんがその気になれば、人ひとりを自らの作り出した仮想空間に取り込んでしまうこともできる。
この館の敷地は決して狭くない。でも、この状況を再現することができれば、雨を降らせることはできる。僕も経験したことがある。
「ただ、相坂さんは姿を見せずに能力を使うことができないから、相坂さんがこの島に来ていることはないみたいだけどね」
「似た能力だとは思います。ただ、難しい能力ですから、カギとなるものがどこかにあるはずです」
「もし今見えているものが全て幻だとしたら……」