87, 七倉さんと閉じた扉
僕はまるで感情の読めない楓さんに怖じ気づきながらも尋ねた。
「さっきのたとえ話はどう思いましたか?」
「人を殺めたことはございません、残念ながら。けれども、菜摘よりはそうした世界に近いのかもしれませんね」
ぞっとしない。七倉さんはどこからどう見ても荒事とは無縁な女の子だけれど、楓さんは底知れないところがあるから、僕たちの目のつかないところで能力者同士の戦いに身を投じていても僕はちっとも驚かない。
「そうでした。それはいいのです。それとは別に司様に申し上げようと思ったことがあるのでした」
「なんですか?」
「菜摘が起きてきて身支度を調えるのを待っていらっしゃると、お昼になってしまいますでしょう。よろしければテレビゲーム機のたぐいをお貸しいたしましょうか。それとも、読み物がよろしいでしょうか。菜摘が起きてきましたら式島にお知らせさせますから、ご遠慮なくお申し付けください」
「そんなに遅くまで七倉さんは起きていたんですか?」
「ええ。菜摘はあまり夜遅くまで起きないようですからね。それに、電子機器にもほとんど手を触れませんから、いくら館の中にゲーム機のたぐいを運び込んでも無駄になってしまいます。ですから、司様に遊んで頂ければむしろありがたいのですけれど」
「いえ、七倉さんが起きるまでテレビでも視ています」
「そうですか、残念です」
楓さんはそれを伝えに来ただけだった。どうやら雨が降ることは確実みたいだ。楓さん自身が降らせているわけじゃないと分かっていても、僕はといえば、ふたりの七倉さんの判別すらつかないのに……。
けれども、楓さんの後ろ姿を見ながら考えているうちに、僕はちょっとしたアイディアを思いついた。考えてみたら簡単なことだ。
「あ、すみません、やっぱり式島さんにお願いして、ゲーム機とヘッドホンを持ってきてもらえませんか。ゲームの音で七倉さんを起こしたら悪いですから」
楓さんは見返り、僕のことを見てその目を細めた。
「ええ、司様のお望みのとおりにいたします」
楓さんは上機嫌だった。どうしてそれが分かったのかといえば、楓さんが鼻歌を歌っていたからだ。もっとも、何の歌なのかは分からない。ただ、流行歌ではなくて、とても古い歌だということだけは分かった。
――貴方のために鍵を掛けました、気づいてください、見てください。その鍵の掛かった部屋の中で、私はお待ちしておりますから。
綺麗な歌声。でも、きっとその歌声を聞けることは滅多にないのだろう。後で七倉さんに聞いてみよう。七倉さんなら何か手がかりになるようなことを知っているかもしれない。
歌っていたように、楓さんは鍵開けの能力だ。これは七倉さんと同じだから間違いない。ただ、単純に鍵を開けられるというだけのものでもないみたいだった。それは七倉さんも同じだ。七倉さんは能力のことに詳しかったし、誰かが能力を使用すればある程度はそれを察知することができる。
それから……、僕はこの前、七倉さんが少し違った能力の使い方をしたところを見たことがある。ええと、あれはどこだったっけ……。
「式島です」
「はい、いま開けます」
僕は自室に戻ってくつろごうとしていたところだった。楓さんにゲーム機のレンタルを頼んだけれど、部屋に戻って10分と経たずに式島さんが訪ねてくるとは思わなかった。
扉を開けると、そこには最新ゲームハードとソフトを山のように積み上げた台車があった。傍らには無表情の式島さんが立っている。式島さんは恋ヶ奥さんよりも冷たい容貌をしていて、式島さんは極力僕たちに関わらないようにしていることがわかる。
恋ヶ奥さんによれば、式島さんは能力を持っていないということらしいけれど、むしろ異能の力を持っているひとのほうが、こういうそっけない態度を取ることが多い。楓さんが何の能力も持っていないひとを側につけているとも思えないし。
ただ、今のところ僕には判別がつけられなかった。大量の荷物を運び込む式島さんを手伝おうとすると、式島さんは「お任せください」とだけ言って、部屋の中に段ボールやクリアケースをどんどん運んでゆく。一礼だけして出て行ってしまうので、危うくお願いすることを忘れそうになった。
「七倉さんにこの手紙を渡してくれませんか。七倉さんが起きてからで構わないので」
「承知しました」
小さく頭を下げて、肩に垂れた髪がわずかに揺れた。
ところで、七倉さんへの手紙にはこう書いてた。
『七倉さんへ。昼から雨になるそうなので、僕は自分の部屋にいます。午後に七倉さんと話したいことがあるので、僕の部屋に来てくれませんか。ただ、僕はヘッドホンを付けてゲームをしていると思うので、七倉さんが尋ねてきても気がつかないかもしれません。だから、もし返事が無かったら勝手に入ってきて構いません』
***
昼前から激しい雨になった。
それはヘッドホンを装着した僕の耳にも届くくらいに激しい雨脚だった。時計を見ると11時半。予想していたよりも早いような気はするけれど、僕がテレビ画面に集中しているうちに急に天気が崩れたみたいだった。そうなると、僕はもう少し注意深く天気の様子を観察しておけば良かったと後悔した。もっとも、ずっと空を見上げていたところで分かることなんて殆どないだろうけれど。
それから12時前になって、七倉さんが僕の部屋の扉をノックした。僕のことを読んだことも気がついた。けれども、僕は七倉さんが扉を開けるまで返事をしなかった。
やがて、その扉は、鍵の外れる音を立ててわずかに開いた。
「司くん、いらっしゃいますか……?」
「七倉さん」
七倉さんの顔が見える頃になって、僕はようやく立ち上がって、扉に近づいた。
「すみません、お呼びしたのですが」
「ううん、いいんだ」
僕は急いで七倉さんに駆け寄った。たぶん、驚かせたんだろう。
七倉さんはたじろいだ。
「ど、どうしましたかっ?」
「七倉さんの偽物がいる」
僕は扉を開けて、廊下に誰もいないことを確認した。この七倉さんを疑っているわけではないけれど、この七倉さんの他に誰もいなければ、この部屋の鍵を開けたのは確実にこの七倉さんということになる。
「だから部屋の鍵を掛けておいたんだ。この鍵は、七倉さんか楓さんしか開けることができなくて、姿を真似るだけの能力なら鍵を開けられないはずだよ。姿も能力も真似ることができる能力者の可能性も考えたけれど、いないよね」
「はい。そんな使い手がいらっしゃれば素晴らしいとは思いますけれど、いないと思います」
もしそんな能力者がいたら、きっと楓さんや七倉さんがここまで尊敬を集めることはないと思う。もちろん、楓さんや七倉さんは名門・七倉家の出で、能力者としての経験もあるから尊敬されているけれど、どんなことでもできるわけじゃない。ただ、ほんの一部であっても、僕みたいなフツーの人間ができないことをやってのけてしまうんだけど。
「わざわざ試すような真似をしてごめん。本物の七倉さんなら、きっと扉の鍵を開けられると思って、手紙を渡したんだ」
「はい、少し迷いましたけれど、司くんがお手紙をくださいましたので鍵を開けました」