86, 僕の事情聴取
まずいと思った。僕は能力に詳しいひと……たとえば、相坂さんに相談したかった。けれども、携帯電話はやっぱり圏外になっていることを確認した。たぶん、これも計算のうちだ。僕が島の外に連絡を取ることはできなくなっているんだ。
「いや、京香さんだ」
食堂を通りがかったときに京香さんを見つけた。朝食を口に運んでいるところだったので、僕は食事を終えるまで待つつもりだったけれど、不審な様子に気づいたみたいだ。それで、僕はいくらかの事情を京香さんに話すと昨日あったことについてこう尋ねた。
「昨晩、七倉さんはどこかに出て行きましたか?」
「存じ上げておりませんが」
「屋敷に行ったんです。僕と一緒に」
本当は楓さんと一緒かもしれないけれど。だけど、京香さんはどちらにも心当たりがないような様子だった。
「……申し訳ございません。私は気がつきませんでした」
「気がつかない? そんなことありえるんですか?」
京香さんは口元に手を当てて、目を逸らして考え事をしているようだった。鋭い視線のせいもあるけれど、京香さんは相当に優秀なひとらしいから、こうして黙考しているときは格好良いとさえ思ってしまう。
「ないでしょう。たしかに、私はこの館にいる能力者のなかでは大きく劣る力しか持ちません。お嬢様、楓様の足元にも及びません。ただし、僭越ながら私も、眠っている間にお嬢様の身に異変があれば跳び起きる程度の能力は持っております」
要するに、たとえ京香さんが眠っていても七倉さんにもしものことがあれば気がつくということだった。それなら、昨晩、もうひとりの七倉さんが現れたときに何にも気がつかないのはおかしい。それは、京香さんに詳しく伝えたわけではないけれど、京香さんは察したみたいだった。
「誰かが私の能力を抑えているのではないでしょうか。もちろん、危険の度合いが低かったから気づかなかったのかもしれません。もしも、お嬢様に身の危険が迫っていれば、よほどの能力者が私の能力を抑えていたとしても、私はお嬢様の異変に気づくでしょう。そうでなければ、私の能力の存在意義がありませんから。ですが、楓様はお嬢様を試そうとはしているでしょうが、危害を加えるわけではありません。意図的に私の行動を封じているのなら説明はつきます。能力者の人数が足りないようにも思えますが」
「朝早くに都さんが戻ってきたみたいです」
「楓様のご友人が。存じ上げておりませんでしたが、それなら私の能力を抑え込める人間がいるとお考えになるのが良いのではないかと」
「楓さんが抑え込んでいる可能性はありますか?」
「無関係ではないでしょうが、鍵開けそれ自体ではできないでしょう」
京香さんの能力を抑え込む、今日の午後に雨を降らす、他人に姿を変える、そして鍵開けの能力……これで4人だ。人数がぴったり合う。そういえば、恋ヶ奥さんはこのまえ式島さんは能力を持っていないと言っていたけれど、恋ヶ奥さんは嘘をついているということになるんだ。
もちろん、今日の午後に雨が降ることはまだ確実ではないし、それが誰かの能力に拠るものかどうかは分からない。でも、あの言い方からすると九分九厘まで楓さんの仕業だ。
「あれ、そういえば七倉さんはまだ起きていないんですか?」
「珍しく夜更かしをされましたので、起きられるのは遅くなるかと存じます」
たしかに珍しいかもしれない。もっとも、そのわりには楓さんは就寝時間に関係なく起きていたから、七倉さんはわりと朝に弱いのかもしれない。
京香さんがすぐに食事を終えて自室に戻る頃になって、僕の食事が運ばれてきた。給仕は恋ヶ奥さんだった。
「司様、お早うございます」
恋ヶ奥さんはスクランブルエッグを差し出す前に一礼した。それはとても事務的なお辞儀だったけれど、恋ヶ奥さんは楓さんの部下だという意識が強いみたいだった。そういえば殆ど話をしていない。
「楓さんの能力の強さについて、恋ヶ奥さんはどう思っていますか?」
「能力などお持ちでない司様には理解できないでしょう」
それは小馬鹿にしたような言い方だったので、僕は少しだけむっとした。僕自身が馬鹿にされたというよりも、七倉さんのことを笑われたようで悔しかった。でも、七倉さん自身が何も言っていない以上、僕が腹を立てるのも筋違いのように思えたので黙っていた。
短い髪の向こうで、恋ヶ奥さんの目が笑ったような気がした。
「たとえ話です。あるところに、暗殺を生業とする殺し屋の一族がいたとしましょう。どのようなものを想像されても構いません。むしろ、アニメや小説、映画のたぐいでも構いませんから、そのような宿命を背負った家系を想像してください。そこにひとりの少女が生を受けたと」
僕はずっと前に読んだマンガを想像した。
「彼女は幼い頃から暗殺の技術だけを教え込まれます。英才教育で、1日の殆どをその技術を磨き抜くことだけを繰り返します。もちろん、一族の歴史、一部の者しか知らぬ暗部、門外不出の技術、秘伝とされる奥義なども教え込まれます。実際にその技をふるうことも多いでしょう。幼少の頃からそのように育てば、もはや考えることすらせずとも他人の首を刎ねることができるわけです。それは、甘やかされて育った令嬢などとは比較できないほど研ぎ澄まされた力です」
たしかに、それは七倉さんのイメージとは重ね合わせることができなかった。七倉さんは能力をつかうときに、考えたり悩んだりしている。それがきっと人を惹きつける七倉さんの魅力なんだと思うし、それが悪いとは思えなかった。
けれども、楓さんは七倉さんとはまるで違う。笑顔のままで能力を使いこなす達人だった。それに、七倉さんが知らない、七倉家の昔からの伝統を受け継いでいるともいっていた。
「もちろん、楓様は薄汚れた稼業に手を染めるような方ではありません。むしろ、楓様ほど澄んだ力をお持ちの方は、日本中を探しても何人といないでしょう。それが楓様でございます。幾らかでもご理解頂けましたなら幸いです」
恋ヶ奥さんは少しも幸いとは思っていないような様子で、朝食の準備を続けるために炊事場に向かった。言おうとしていたことはなんとなくではあるけれど理解することができた。それは怖がらせようとして言ったことではなくて、きっと真実の部分もあるんだ。
「お怒りになりましたでしょうか」
ぎょっとした。
いつの間にか楓さんが食堂に入ってきて、僕の目の前の席に座ったところだった。長い髪が絨毯に垂れ落ちそうになる。けれども、楓さんの席の周りだけは埃ひとつ落ちていないように見えた。
「恋ヶ奥さんは少し言葉が過ぎます。司様は私どものことをよく理解しておいでですのに」
ふふふ、と楓さんは口元を隠して笑った。