84, ふたりの七倉さん
奥の扉の前で七倉さんは立ち止まった。その部屋からは光が漏れている。そこはまるで僕たちが来ることを分かっていたかのように、扉がわずかに開けられていたのだった。
その部屋は和室のようだった。その中に楓さんがいるみたいなのだけれど、僕の目からはその姿はほとんど見えなかった。わずかに正座した楓さんの後ろ姿が見えているだけ。
「司様はお部屋でお休みですか?」
楓さんが尋ねた。
「はい、こちらにいらしてからもきちんとお休みになっているみたいです」
誰かが答えた。あまり扉に近づくわけにはいかないので聞こえにくい。
「そう、せっかく遠方からこの辺鄙な島までいらしたのですから、おくつろぎになって頂かないといけませんね」
「はい」
誰だろう。こんな時間に、というほど遅くはないけれど、わざわざこの和屋敷に来てまで話をするなんて。けれども、話の内容は僕についてのことだったから、僕が起きている時間帯には話しにくかったことなのかもしれない。
「司様は私たちの力についての謎を解き明かしていらっしゃると聞いたわ。司様は謙遜されてお話にならないけれど、お祖父様と同じように私たちのことを分かっていらっしゃるのでしょう」
「はい。お祖父様と同じように私たちのことを理解することを目標にしてくださっているみたいです。聡一郎さまに何か教わられていたのかもしれませんが、ふつうなら、私たちのような能力のことなんて信じられないはずなのに、司様だけは特別みたいです。たとえば、私が教室の扉を開けてしまったとき、ふつうの方なら気がつかないはずなんです。でも、司様はすぐに気がついてくださったんです」
僕は楓さんに見つからないように身を乗り出さず様子をうかがっていたつもりだったけれど、実際にはそうではなかった。楓さんと話している相手が誰なのか気になって、僕はだんだんと身を乗り出していたんだ。
「私たちのような能力を持たない方は、私たちのような力を目にしても気がつかないものね。少しくらい矛盾したことも何の問題にもせずに通り過ぎてしまう。だからこそ私たちは一般的に決められているルールの、すこし外側を通り過ぎることができるのですけどね」
「はい、私にもそれは分かります」
楓さんは少しだけ哀しげな口調になった。
「でも、分かっていることでも私たちは時々寂しくなってしまうこともある。私たちは鍵を開けられてしまうから、そうでない方は、たとえ鍵を持っていたとしても鍵を開けられないともいえる。ひとの言う密室が、私たちにとってはそうではないから、たくさんの死角ができてしまうのね。けれども、私たちだって鍵の掛かったこちら側にいると、誰かが鍵を開けて入ってきてくれないかと思ってしまう」
僕はもう楓さんの話し相手を見られるほどになっていた。彼女は僕のことに気づいていないようだった。楓さんとの話に夢中になっていた。
「あっ……!」
それは当然だったんだ。そこには、僕のすぐ隣にいるはずの七倉さんがいた。遠目でも見間違えることもない。七倉さんは浴衣を着ていて、とてもよく似合っていた。でも、それならいま僕のすぐ隣で部屋の中の様子を伺っているのはいったい誰なんだ?
僕は混乱しながらも、すぐに何かを行動に移すことはできなかった。
部屋の中では、ふたりの会話が続いていた。
「楓お姉さまもそんなふうに思うことがあるのですか?」
「もちろんです。菖子様が亡くなられてからは特にね。でも、覚悟していたことでもありましたから」
「覚悟……ですか?」
「ええ。でもそれは10年も前の話ですし、菜摘のこととはまた別の問題なのですよ」
七倉さんは楓さんのその微妙な言い回しが気になったみたいだった。なんとなくもういちど尋ねてみようとしたみたいだけれど、七倉さんはこんなとき感情を抑えることができるひとだった。
「ところで、菜摘は司様のことをどのように思っているのかしら?」
思わず物音を立ててしまいそうになった。ふたりの話が途切れたところに、僕の隣にいた「七倉さん」が僕の袖を引っ張った。
「気づかれます」
僕は七倉さんの顔をできる限り注意深く観察したけれど、どこからどう見てもそれは七倉さんの姿に違いなかった。滑らかな肌にある小さなほくろの位置が違うなんてこともない。もちろん、左右反転しているなんてこともない。
だけど、とりあえず僕にはその七倉さんのあとについて屋敷を跡にするしかなかった。
「さっき、司くんの様子がおかしかったですが……楓さんが何かされていましたか?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
そりゃおかしくもなるに決まっている。
当然だけれど、ふたりの七倉さんは片方が本物で片方が偽物だった。常識的に考えれば、僕と一緒にいたほうが偽物で、楓さんと話をしていたのが本物の七倉さんだ。でも、この七倉さんの姿からは判別できない。この暗い屋敷の前でこの七倉さんが偽物だということをすぐに確認できたとしても、この七倉さんは逃げ出してしまうだけだろう。
結局、いま僕にできることは、ただ尋ねることだけだった。
「七倉さんは……七倉さんだよね」
「はい、どうかいたしましたか?」
薄暗がりでは、ほんのわずかな表情の変化すらも分からなかった。
当然ではあるけれど、七倉さんとは部屋の前で別れた。下手な肝試しよりもよほどドキドキして、ベッドに寝転がっても眠れなかった。
起こったことはシンプルだ。結論だってすぐに分かる。つまり、この館の中にいるひとの誰かが他人の姿形を似せる能力を持っているということになる。あの楓さんのことだから、それは決して意外なことではないと思う。
もちろん、僕たちは別れる前にさっき屋敷の地下で見たことを話し合い、楓さんともうひとりのふたりの七倉さんを対峙させる選択肢もあった。
ただ――、それで何かが解決するわけじゃない。僕が見たのは、ドッペルゲンガーがいるという事実だけだった。誰かのドッペルゲンガーが現れた後に、その姿の持ち主が不自然な死を遂げたわけじゃない。まだ、何かが起こったわけじゃないんだ。
たぶん、僕の身の回りで起こっている変化はこれだけじゃない。七倉さんがふたりいたことは、この館と屋敷で起こることのうちのひとつに過ぎないのだろう。
「もしこれだけなら、楓さんはきっと犯人を見つけるように言うと思う。でも、楓さんはそうは言わなかった。この島での謎を解くように言った。だから謎はきっとこれひとつじゃない。それに、島から出られないかもしれないんだ」
次の変化は翌日に起こった。