82, 月夜の屋敷
和屋敷の玄関は広くて、僕は旅館を思い起こすほどだった。10人が一斉に靴を脱げそうなほどに幅のある三和土。百足も置けそうなほどの大きな靴箱。もしかすると、久良川にある七倉さんの家の玄関も、これくらい広いのかもしれない。
僕はそんな想像をしていたのだけれど、七倉さんはきょろきょろと左右を見渡して呟いた。
「造りがそっくりです。私の家にとてもよく似ています」
「えっ……。それは、七倉さんの家に似せたってこと?」
この島に来たときに話を聞いたけれど、この屋敷は七倉家が建てたものではなかったけれども、七倉家が所有するようになってから半世紀以上が経過していた。だから、その長い時間のうちに改装や修復をしていることもたぶん確実だろう。
「七倉の本邸にわざと似せたのかもしれません。別荘でも、本邸に似せて造らせることはあるんです。でも、少なくとも私は知りません。もしかすると、大叔母さまかこういうふうに造らせたのかもしれません。このお屋敷はずっと昔からあるそうですから」
「でも、そんなに似ているの?」
「はい、特に鍵の作りが……」
七倉さんは今しがた開けた鍵を横目に言った。僕には鍵のことは分からない。ペンライトで照らしてはみたけれど、僕の祖父の家にもある、ごくふつうの引き戸がそこにあるだけだった。
七倉さんは引き戸に近づくと、その白い手で鍵をなぞった。
「かなり複雑に作っています。それに、二重鍵です。私の家もふたつの鍵を掛ける構造なんです」
七倉さんの指さす場所を追っていると、扉の下部にもうひとつの鍵穴があるのを見つけた。ただ、こんな辺鄙な場所にある屋敷ではあるけれど、外観はとても立派だから鍵をふたつかけておくこと自体はごく常識的だった。
「それにしても、このお屋敷、思ったよりもずっと綺麗だよね。もっと、埃にまみれているか、使われていない荷物でいっぱいになっているかと思った。それに、玄関だけ見ただけでも、手入れされているように見えるし」
「日常的に使用されている形跡があるように思えます。私たちが来るので掃除したのかもしれませんが、そのわりにはどこも片付いています」
「たしか、この屋敷は使われていないし、片付いていないって言っていたよね?」
そのことを僕たちに教えたのは、たしか恋ヶ奥さんだったはずだ。そういえば、恋ヶ奥さんはこの屋敷に近づかないように言っていた。使用されていないとも。つまり、七倉さんの目の前で恋ヶ奥さんは嘘をついたことになる。
もっとも、七倉さんは恋ヶ奥さんからすれば、もてなすべき主人にあたるわけだから、わざわざ普段は足を踏み入れない和屋敷のことを説明するよりも、単純に使用されていないことにして、不用意に立ち入られないようにしただけかもしれない。むしろ、そうするほうが自然なくらいだ。
「でも、誰かがこんな深夜にこの屋敷に入ったんだよね」
「はい、何かこのお屋敷に保管してある物でもあったのでしょうか」
七倉さんは靴を脱ぐと、脱いだ靴を靴箱の奥深くに隠してしまった。それから、僕にも靴を脱ぐように言った。
「どきどきしますね」
どうやら、七倉さんの心は中を探索する気分で満ちていたみたいだった。もちろん、僕だってこんな時間に古いお屋敷の中を、ひとりで入り込んだ誰かのことが気にならないわけじゃない。でも、ペンライトで照らし出される柱や鴨居の不気味な木目を見ていると、なんだか底知れない何かがこの屋敷にはいそうに思えて、躊躇してしまう気持ちも生まれてしまう。
もっとも、そんな弱気を押さえつけて歩き出してしまうのは、隣を歩いている七倉さんのせいでもあった。七倉さんの側にいると、僕はいつもよりもほんの少しだけ背伸びをしたくなってしまう。
もちろん、七倉さんは誰かに何かを押しつけるようなことを望むような女の子ではなかったけれど、ちょっとした肝試しくらいはいいところを見せたいと思ってしまうんだ。
「やっぱり、似ています」
七倉さんが廊下の角で確認するように言った。僕たちはちょっとしたスパイ気分で、廊下の角では立ち止まったり、足音を立てないようにそうっと歩いていた。もちろん、話すときもほとんど相手に聞こえるかどうかというほどの小さな声で、顔を寄せている。
「外観は全く違いますし、内装も同じというわけではありません。部屋の配置も違います。余分であったり、不足があったりしています。けれども、どこか久良川の本邸を連想させる造りになっているんです」
「たとえば、どんなところがそうなっているの?」
廊下の奥に、僕の言葉が吸い込まれていった。軋むことのない、つるつるとした廊下が静寂の中にどこまでも続いていて、僕と七倉さんだけがこの世界に取り残されたかのようだ。その中で、七倉さんが考え込んでいたので、僕はペンライトの明かりを落とした。あとには暗闇が広がっているだけだった。
「私の家では、中庭に向けて広くて見通しの良い部屋があります。その部屋は、親族が集まる部屋というように決められています」
声のトーンは低かった。
「その部屋からは倉が見えるようになっています。七倉の家で最も古くて、大きな倉です。その倉は部屋の中から様子が窺えるようになっていて、七倉の家で最も貴重なものを入れる決まりになっているんです」
「最も大切なもの?」
「はい、七倉の力の使い手です」
七倉さんが暗闇の中を幽霊のようなふらふらとした歩みで進み出したので、慌ててペンライトの明かりを点けた。けれども、七倉さんは明かりを頼りにしなくても、何かに取り憑かれたか、導かれるかのようにしてどこかに向かっているようだった。
「あの部屋では、七倉の力を使いこなせる、一族の女の子を見守ります。その日になると、一族の主立った男性や、能力者の女性が集められるんです。私のときもそうでした。あの日、私は楓さんと大叔母さまに手を引かれて倉に連れて行かれました」
七倉さんの足は遅くなかった。ふだんの明るさならゆっくりと歩いているのかもしれないけれど、足元すら見えないようなこの暗闇では、七倉さんの早さはまるで小走りでいるかのようだった。
「あのとき、楓さんはあの部屋の中心にいました。いえ、中央に座していたのは大叔母さまです。十五代の、七十年もの長きを支えた大叔母さま。
でも、そのときにはもう、楓さんの力は大叔母さまを上回り、この七倉の家を覆うまでになっていました。そして、なぜか私にはそれが分かっていたんです。私は楓さんに連れられて、あの倉の中に入りました」
「七倉さん!」
僕が呼びかけても、七倉さんは答えなかった。まるで何かに呼ばれているかのようだった。僕は七倉さんに遅れてしまいそうになるけれど、どうにかそのすぐ後ろを追いかけた。
ある襖の前で、七倉さんは足を止めた。七倉さんはその襖を躊躇せずに開けた。
七倉さんの真っ白な顔が見える。それは能力者の顔だった。あの、楓さんがほんの一瞬だけ見せる冷徹な表情。今の七倉さんの顔は、あの顔にとても近くて、けれども、僕はその月明かりに照らし出された七倉さんの青白い顔が、まるで彫像のように美しいと思った。
七倉さんは太陽でもあったけれど、今は月だった。
その和室は雨戸が開いていた。障子と硝子でできた戸だけが外と部屋の中を遮っていて、まぶしいくらいに明るい月明かりが部屋の中を照らし出した。七倉さんの顔が見えたのは、そのせいだった。
七倉さんはゆっくりと障子戸に近づいて、一息にその戸を開け放った。
僕は思わず息をのんだ。
「倉だ……」
「はい、七倉の倉です」
七倉さんは静かに言った。