81, 七倉さんの来訪
なんだか僕は楓さんのことを怖がってばかりいるけれど、実際のところは、楓さんは決して怖がるような様子を見せるわけじゃない。時々、七倉さんを見る視線に厳しいものが混じったりもするけれど、それは楓さんが遠い昔に七倉さんの師匠だったことを思えば、決して特別な態度でもなかった。
それは、七倉さんが楓さんにとる態度を見るとすぐに分かる。
フルコースのお皿を全て並べてもまだ余裕のある食卓で、ふたりの座る席はとても離れている。けれども、楓さんを見つめる七倉さんの目つきは、まるで古いお伽噺で活躍するお姫様を見るかのようだった。
それは僕にも分かる。
けれども、七倉さんが楓さんに勝てないなんて、僕が認めたくなかっただけなのかもしれない。
こんなことを考えていたのは、僕たちが夕食をとってそれぞれの個室に別れてからのことだった。時間はもう11時を過ぎていて、僕がちょうどテレビと部屋の明かりを消して横になったところだった。
小さく扉をノックする音が聞こえた。その音が一度だけではないことを確認すると、起き上がってスリッパを突っかけ扉に近寄った。
「どなたですか?」
「菜摘です。司くん、起きていらっしゃいますか?」
僕は部屋の明かりを点けてから、できる限り髪の乱れがないようにして扉を開けた。もちろん、鍵を外したのは僕だ。でも、七倉さんは手を触れるだけでこんな鍵を外すことができてしまうんだよなあ、と思いながら。
七倉さんはなぜか外出用の服装だった。僕はもちろん寝間着なので、少しばつの悪い気分になった。
「どうしたの? こんな時間に」
「お休みだったと思います。申し訳ありません。ただ、気になることがありまして」
七倉さんは努めて声を落としているようだった。それは、たぶん京香さんへの配慮だったんだろうなと思う。もちろん、僕もできる限り小さな声で話をした。
「さっき、私は少し外に涼みに行こうと思って、玄関に向けてを歩いていました。あまり冷房に体を晒すのもよくありませんから。2階の廊下を抜けて奥の階段から1階のエントランスへ降りるつもりだったんです。渡り廊下に差し掛かったところです。外に小さな明かりが見えました」
「誰かが外に出ていたってことだよね。ひょっとして、誰か不審な人が出入りしていたの?」
「いいえ、それはないと思います。跳ね橋は上がっているみたいですし、今日は昼間も来客はなかったみたいです。それに、その明かりはこの館から離れるように動いていました。ほかに明かりのない中です。もし不審者ならわざと見つかるような動きをするはずがありません」
それは七倉さんの言うとおりだった。もしその明かりの主がこの館の敷地に侵入した不審者だとしたら、明かりを持ってわざわざ館の側まで近づいてから、改めて和屋敷に接近するなんて動きをすることはないだろう。
「明かりをじっと見ていましたが、その明かりはもうひとつのお屋敷に向かったんです」
「もうひとつのお屋敷って……、あの使われていない和屋敷のこと?」
「そうみたいです」
それは、昨日、使われていないと聞かされた、この館から少しだけ離れた屋敷のことだった。洋館と和屋敷、それぞれの雰囲気を壊さないように、それぞれの敷地は背の低い垣根や木で遮られている。もっとも、遮られているといっても、館の渡り廊下から中庭と逆側の窓を見れば、その様子はすぐに見通すことができた。
「今から誰か確認することはできないかな」
「いえ、遅い時間のことですから、確認するのは憚られたんです。恋ヶ奥さんも式島さんも、明日のお仕事が早い方ですから。楓さんも夜は早くに床についてしまいますし、京香さんもいつも気を張っていますから」
七倉さんは首を横に振った。もっとも、七倉さんがその気になれば今すぐにでも全員を集めることができただろう。あの七倉さんよりも楓さんに丁寧な態度をとっている恋ヶ奥さんや式島さんだって、七倉さんが呟くだけでその言葉通りに動かなければならないはずだ。楓さんだって、正当な理由があれば七倉さんの意向を何よりも重視するに違いない。
ただ、七倉さんはいつだって自分の言動には慎重だった。こういうふうに、迂闊な行動をしないというのが、七倉さんらしさなのかもしれない。それでも、自分のできる範囲内で七倉さんは積極的だった。
すこし申し訳なさそうに俯きながら、七倉さんは言った。
「それで、深夜ではあるのですが、あの和屋敷の様子を見てみたいと思ったんです。ちょっとした肝試しみたいなものになってしまいますが……」
僕は小さく笑った。たしかに、それはちょっとした肝試しみたいなものだった。深夜に現れた謎の光、絶海の孤島の、周囲から隔絶された館の中で持ち上がったちょっとした謎。
なにより、七倉さんの言った肝試しというのも僕は面白かった。お化け屋敷ではないから、急にホラーなものが出てきて驚いた七倉さんが僕に抱きついてくる……なんて妄想のような展開はないだろうけれど、夏の夜のスリルが僕を惹きつけた。
「それに正直に言いますと、あの古いお屋敷がどんなふうなのか、ちょっとだけ興味があります」
「分かったよ。準備するから少しだけ待っていてもらえるかな」
「はい」
僕は七倉さんを待たせないように、速やかに外出用の服装に着替える。部屋の中にあったペンライトを持ち出した。
たった6人しかいない館の中は、静まりかえっている。
最低限の明かりだけが灯された廊下からは、七倉さんが見たという明かりを見つけることはできなかった。途中、食堂や調理場を覗いてみたけれど、恋ヶ奥さんの姿も式島さんの姿も見えなかった。
僕たちは館の脇にある和屋敷に歩いた。館からはわずかだけれど光が漏れるようにしていてくれたので、外は真っ暗闇というわけではなかった。虫の音がとても大きい。光に誘われるようにして虫が集まっていたけれど、それはあまり見ないようにしておいた。蚊は多くないからあまり心配しなくても済みそうだ。
暗がりの中にうっすらと見える人けのない屋敷は、その古い外見も相まって暗がりの中でも威容を晒していた。
僕はペンライトを点けた。光量は最低限。なるべく音が立たないように戸を引いたのは七倉さんだった。おそらく鍵がかかっていたはずだけれど、七倉さんは難なく扉を開けてしまう。