78, 七倉さんとお姫様
それから、シュノーケルとゴーグルを装着して、七倉さんは水の中に沈んだ。水の流れは弱いとはいっても、足がつくかというくらいの深さだったから、七倉さんは僕の手をしっかりと握った。
僕はボートを腕で抑えながら、七倉さんが顔を上げるのを待った。シュノーケルをしているけれど、なんだか楽しそうな声をあげていることは分かった。
七倉さんは顔を上げると、肌に張りついた髪をよけながら言った。
「とても綺麗な魚がいます。熱帯魚の部類に入るのでしょうか?」
僕は七倉さんからゴーグルを受け取った。ボートを流される心配をしたので、シュノーケルは断った。
水の中から見ると、そこには今まで見たことがないようなカラフルな魚が泳いでいた。つい触りたくなってしまうけれど、僕たちの側には寄ってくるようなことはなかった。人に慣れているわけじゃない、もしかすると人の姿を見たことがないのかもしれない。
島の近くを流れている暖流のおかげかもしれない。この島は緯度のわりにはずっと南国風の海
「珊瑚礁はないのかな」
「この入り江にはないでしょうけれど、この近海にはあるかもしれません」
「もう少し沖まで出てみようよ」
僕は顔を上げると七倉さんに提案した。七倉さんは笑顔で頷いた。もちろん、外海に出るつもりはなかったから珊瑚礁を泳げるわけではなかったけれど、もしかしたら遠目にそれを見られるかもしれなかった。
七倉さんをボートに乗せて、僕がボートを後ろから押して泳いだ。
べつに水泳に自信があるわけではないけれど、七倉さんのからだを間近で見ることができてしまうと、僕はなんだってできそうな気持ちになってしまう。実際僕と同じことを考えている男子は多いんだろうけれど。
ボートの上の七倉さんは、入り江の一カ所を指さして声をあげた。
「あの小高い岩場から飛び込んでみたいです」
小さくない入り江のことだったから、周囲は浸食されていて崖になっていた。七倉さんが指さしていたのはその中のひとつの飛び込み台のようになった場所だった。つまり、七倉さんはぎょっとするようなことを言って、僕をちょっとだけ困らせたんだ。
でも、当然だけど七倉さんは飛び込むつもりで言ったわけじゃない。七倉さんは口元を手で押さえながらくすくす笑った。
ただ、七倉さんの冗談を本気にとるひとが七倉さんの側にはひとりいて、その人は七倉さんのためならどんなことでもやってしまうようなひとだったんだ。
「お嬢様」
京香さんは手を挙げていた。当然のように七倉さんが指さした小さな崖の上に立っている。さっきまで浜辺にいたと思ったのに、まるで七倉さんの心を先読みしたみたいだった。
いったい何をするつもりなんだろう……と思っていたら、京香さんはそのしなやかな体を翻して、頭から真っ逆さまに飛び込んでしまった。
『あっ!』
僕と七倉さんが同時に声を上げたけれども、それはもう何もかもが手遅れで、京香さんは空中に綺麗な放物線を描いて、水しぶきをあげながら水中に消えていくところだった。
僕たちは息をのんで京香さんが水の中から浮かび上がってくるのを待っていたけれど、京香さんは僕たちが耐えきれなくなる前に浮き上がってきてくれた。
そのときの京香さんは、やっぱり何事もなかったかのように涼しい顔をしていて、七倉さんに頭を下げて、近くの岩場まで泳いでから大きく何度か息を吸ったり吐いたりをして休むみたいにしていた。
七倉さんは手を叩いた。
「素晴らしいです! 京香さんはやっぱりなんでもできる方です」
「だ、大丈夫なの……?」
「はい、目が良いですから」
京香さんの目が僕や七倉さんとは比べものにならないほど良くて、見えていないものすらも見ることができることは知っている。けれども、それは七倉さんのためだけに発動する能力だったから、まさかこんな時にまでお目にかかれるとは思えなくて僕はびっくりしたんだ。
たぶん、単純にこの入り江で崖になっている場所は、海の深さもそれなりにあることを知っていたか、京香さんの直感みたいなものを働かせたんだと思うけど。
七倉さんは京香さんのことをじっと見つめていた。その視線には憧れのような感情が含まれていた。
「人魚姫みたいです」
京香さんは長い髪をかきあげるところだった。たしかに、さっき飛び込むときも、京香さんはまるで本物の人魚みたいにしなやかな体を海に踊らせていた。京香さんは泳ぐのも速かった。僕たちが沖を離れる間に、水遊びをするみたいに海に潜ると、体をくねらせてあっという間に岩場から海の浅いところまで泳いで行ってしまった。
でも、こうして僕が押すボートの上で、ちょこんと行儀良く座っている七倉さんだってお姫様みたいだった。僕はそれを言うつもりはなかったけれど、七倉さんのこと艶めかしい姿を見たら誰だってそう言うと思う。
ただ、七倉さんは自分のことにはあまり頓着していないみたいだった。
「楓さんもお姫様みたいだったでしょう?」
僕は頷いた。
「楓さんと再会してからすこし調べました。20年も前のことですが……私が生まれる前は、楓さんが本家の養子になるお話もあったそうです」
「そうなの?」
「はい、楓さんはいつも着物を着ていらっしゃるでしょう? 楓さんは本家にいつもいらして、大叔母さまから厳しく躾けられたそうなんです。その頃の大叔母さまはまだお元気でしたから、私のときよりもずっと厳しかったそうです」
「でも、楓さんはものすごく遠い親戚なんだよね?」
僕は楓さんと七倉さんの血縁関係を知らなかったけれど、たしか全く関係がなかったはずだ。親戚関係ですらなくて、苗字が一緒だということしか共通点がないみたいだった。
僕は泳ぐのをやめて、浮き輪とボートにしがみついた。七倉さんが引っ張り上げてくれたけれど、僕は勢い余って七倉さんの体に手を触れてしまわないかのほうが心配だった。
ボートの上だと、入り江の中の静けさがとても心地よかった。これが海水浴場だったら波も高くて人も多いから、のんびり話なんてできないはずだ。七倉さんはまるで陸の上にいるみちたいにマイペースに話を続けた。
「それでも、大叔母さまは楓さんを跡継ぎとして見ていたみたいだったんです。その話は私が生まれたので流れてしまったのですが、それでも大叔母さまはずっと楓さんを側に置かれていて、いつも楓さんを頼られていました。司くんもすぐに分かったと思いますが、楓さんは七倉家の、ふるい雰囲気を身に纏って、受け継いでいるんです。たぶん、私よりもずっと本家のこともよく分かっています。それから、楓さんの血も、七倉家のとてもふるい流れを汲んでいます」
「楓さんの血?」
七倉さんはちょっと驚いたみたいにおどけて、自分の言葉を取り消した。
「あっ、べつに楓さんの血になにかあるというわけではありません。ただ、楓さんの家は七倉家のなかでもとても古くからある系統なんです。以前、お話しした戦国時代のお姫様よりもずっと前に枝分かれしているんです」
「どれくらい前なの?」
「正確には資料が残っていないのですが……だいたい平安末期だそうです」
僕は吹き出した。
「楓さんの家は、昔から力の強い能力者が多かったそうです。それは私のご先祖さまと肩を並べるほどでした。ただ、生まれてくる能力者が少なかったので、私の家が本家になったというだけのことです。だから……、楓さんはとても強い能力者です。間違いなく」