77, 七倉さんの水着姿
それに、見かけだけのことじゃない。七倉さんはとても不思議な力を持つ一族の末裔だった。その七倉さんの手に魔法がかかっているだけではなくて、七倉さんの全身がひとつの宝物にちがいなかった。そのことを知っている僕にとって、七倉さんが衣服を解いた姿は他の誰にも見せたくないくらいに清らかなものに思えたんだ。
その七倉さんはふだんのとおりに僕に声を掛けて、僕の足元にある膨らみかけの浮き輪を見つけてこっちに駆け寄ってきた。いま、七倉さんは僕の手が届くほどの距離まで近づいていた。
「浮き輪に……それにボートも! 私も膨らませたいです」
髪が風に揺れた。七倉さんの大きな瞳はただ愉しそうなだけで、何にだって期待していなかった。期待していたのは僕のほうだ。もし、七倉さんのことを褒めたら、七倉さんはきっとお礼を言ってくれるに違いないんだから。
僕は下を向きたかったんだけれど、それはやめておいた。七倉さんの大きな胸が視界に入ってしまいそうだったから。脇を向いたら京香さんと目が合ってしまいそうで、それもできなかった。
だから、僕ははからずも七倉さんと向かって言ってしまったんだ。
「に、似合ってるね……。すごく」
失敗したかと思った。七倉さんは一瞬ものすごくびっくりしたような顔をして、その優しい目を見開いたんだ。でも、七倉さんは僕がどうしてこんな突拍子もないことを言ったのかすぐに理解してくれて、僕に恥をかかせるようなことはしなかった。
「ありがとうございます!」
七倉さんがはにかんだ。僕はそれで充分だった。
「気に入っていただけましたようで幸いです」
隣から僕に声を掛けたのは京香さんだった。
京香さんは七倉さんよりも手足の長くて、無駄をそぎ落とした姿をしていた。けれどもそれは不健康なスタイルなのではなくて、きっと鍛えているからに違いなかった。それでも、僕たちよりも年上の、本物の大人の女性らしい体つき。
ふだんは意図的に隠していて、そのうえスーツを来ているせいで全然分からないけれど、京香さんも相当な器量の持ち主だった。
「私は海水浴は久々ですので、準備には自信がありませんでしたが、東京の者もきちんと仕事をしていたということでしょう」
「いい水着です。司くんも褒めてくださいました。京香さんももっと泳ぎに行ったらいいのに」
僕は水着を褒めたわけではなかったけれど、それは黙っておいた。
「人の多い海水浴場はお嬢様を見づらいのです」
たぶんそれは言い訳だったと思う。なんとなくだけど、京香さんが海水浴に行かないのは男の人に声を掛けられるからなんじゃないかと思う。
京香さんは言いながら、砂浜に置いてあったパラソルを広げ始めた。他に人がいない中で広げるパラソルは、なんだかとっても不自然だったけれど、日陰を作り出すそれはやっぱり海水浴にはなくてはならないものだった。
「司様、なにを見ていらっしゃるのですか」
僕は京香さんの姿を見ながらビーチボールに空気を入れていた。人数が少ないから使うかどうか分からないけれど、七倉さんも浮き輪に空気を入れている。
京香さんはといえば、折りたたみ式の椅子を抱えていた。これもどこかに保管してあったものらしい。
「ビーチチェアというものです。海水浴といえば欠かせないものでしょう。設置いたします」
僕は京香さんが抱えていたビーチチェアを持とうとした。
「それなら手伝います」
「結構です。お嬢様とお遊びください。私は適当に過ごしておりますので」
「京香さんは泳がないんですか」
「そのうちに。とりあえずは浜辺から拝見しております。危険は少ないと思いますが、海との境目には近づきすぎないようにしてください。不用意に外に出なければ安全な入り江です」
京香さんはそれだけ言ってビーチチェアを組み立てると、長い脚を投げ出して腰掛けた。つま先まで白くて、京香さんの普段のイメージよりもずっと繊細に見えた。京香さんはこれまたどこから取り出したのかサングラスを着けた。
「これでも私は楽しんでおりますので」
「なんで笑うんですか」
「笑ってはおりませんが」
「……絶対笑ってます」
「ご冗談を」
京香さんは胸元の膨らみに手を触れて、指をさした。黒を基調とした包み込むような水着が京香さんの胸を押し上げた。僕は直視していられないので目をそらした。絶対に面白がってる。
「お嬢様の水着姿は見事だったでしょう」
僕は否定しなかった。七倉さんは綺麗だった。たしかに。テレビや雑誌の中で見る、七倉さんよりももっとプロポーションがいい女の子なんて勝負にならなかった。
でも、僕は腹が立ったので京香さんに言い返した。
「京香さんだって自信あるくせに」
「年増です。それにお嬢様の前では霞むでしょう?」
そんなことはなかった。京香さんの姿だって人であふれかえった浜辺ですら、たくさんの人が目をつけるに違いない。それでも、京香さんは不敵に笑った。
「後で私も泳ぎますので、お構いなく」
京香さんはそう言って、小さく欠伸をした。そういうふうな態度を取られると、僕だって気を遣ってしまう。僕は七倉さんのもとへと戻った。
七倉さんは大きなボートを膨らませていた。もっとも、足踏み式のポンプでは膨らませられないから、電動ポンプを使って膨らませた。空気も漏れないし、頑丈な樹脂で出来た立派なボートだった。この静かな入り江では、どんなことがあってもひっくり返りそうにない。
七倉さんは確かめるようにボートを叩きながら僕に提案した。
「司くん、私、今日は少し深いところに行ってみたいと思うんです」
「うん、どうして?」
「この海はとても透明度が高いです。なので、もっと深いところから海の底を見ても、きっと綺麗だと思うんです」
僕にもそれはとても魅力的な提案に思えた。僕はこんなに透き通った海を見たことがなかった。
「じゃあ、ボートを持って行こう」
「はい」
僕と七倉さんはボートの前方のロープを持って、波打ち際まで引っ張った。波打ち際までたどり着くと、七倉さんはおっかなびっくり水に足先をつけた。
「思ったよりも温かいです。南の海というのはこういうものなのでしょうか?」
波が弱いので、着水までが大変だったけれど、寄せる波がないおかげでボートが砂浜に戻されることはなかった。僕と七倉さんはふたりで少しずつ沖のほうへと泳ぎ始めた。
ボートの中にはゴーグルが積み込んであった。七倉さんはそれを使うのを楽しみにしていたみたいで、時々目元にゴーグルを持って行っては少しだけ海の中を見るのを繰り返していた。
僕たちの胸の辺りまでの深さになって、七倉さんがボートを止めた。
「少しよろしいですか?」
「うん、どうしたの?」
七倉さんはボートから手を離して、僕のすぐとなりまで泳いできて僕の手を握った。