76, 七倉さんと入り江
「楽しみですね。きっと綺麗なところですよ」
七倉さんは鍵を大事そうに握りしめながら、ニコニコ笑いながら僕に言った。そんなことを言われても、僕の心配は七倉さんと一緒に泳ぐのかどうかということだった。
京香さんが僕の耳元で囁いた。
「司様、夕方までにお戻りになれば結構ですので、ご遠慮なくお遊びください」
「京香さんは来ないんですか!」
「私は所用がございまして」
なんでそういつも都合良く所用が入るんですか!
京香さんは完全に僕のことを見て面白がっていた。七倉さんと海岸で何をどうすればいいのか、冷静に判断できるひとがいるなら僕が聞きたい。
でも、ぱっと見ると全然楽しそうに見えないけれど楽しんでいる京香さんに、いつの間にか楓さんが近づいて、にこにこ顔で話しかけた。
「京香さん、京香さん」
「はい」
珍しいことに京香さんはちょっと驚いたみたいだった。楓さんは面倒見の良いお姉さんのような口調で京香さんに言った。
「せっかくですから、京香さんも一緒に浜辺で遊んでいらっしゃい」
「いえ、私は本土に報告に参ろうと思っているのですが……」
「でも京香さんは休暇中なのでしょう?」
「名目上は。しかしお嬢様のお側にいる以上は仕事のようなものです」
京香さんはいつもの口振りで言い切った。でも、楓さんは顔色ひとつ変えずに「そうですか」とだけ言った。それから少し考えて式島さんを呼んだ。
「式島さん、京香さんはお仕事が心配なのだそうです」
「分かりました」
式島さんは楓さんに深々と頭を下げた。それだけのやりとりで、僕たちは京香さんの仕事が全部どうにかなってしまうのだと分かってしまった。
「これで心配は要りませんね。せっかく島までいらしたのですから、菜摘と一緒に遊んであげてください」
「は……」
京香さんはなんだか少し納得いかないような様子で頷いた。
「楓さんはいらっしゃらないのですか?」
「ええ。私もしなければならないことがありますからね」
七倉さんは残念そうだったけれど、無理に誘うつもりで言ったつもりではないみたいだった。……どうしよう。
入り江までの道のりは京香さんが聞いていたらしい。ということは楓さんは最初から京香さんを僕たちと一緒に入り江に行かせるつもりだったらしい。もっとも、京香さんはいつも七倉さんと一緒に行動していて休みもないみたいだったから、今日くらいはのんびりすればいいと思うんだけど。
僕たちはほとんど手ぶらで、館の裏手側の森に入り込んだ。もっとも、森といっても小さくて雨の少ない島のことだから、鬱蒼とした植生ではなかった。すぐに木々の隙間は広くなって、虫に噛まれるようなこともなかった。だからこそ、この辺鄙な場所にあるこの館は別荘として好まれていたんだろうなと思う。
そこから原野を下って、海のそばにある人の手の入った階段を降りた。もう僕たちの目の前には浸食された岩に囲まれた大きな潮だまりのような入り江があった。
水は濁りがなく、南の海の色をしていた。波打ち際はちゃぷちゃぷと静かなさざ波が立つだけで、辺りは僕が知っている海水浴場よりもずっと静かだった。
外海とは天然の防波堤になった岩が遮られていて、潮が満ちた時間だけ海と繋がっているみたいだ。波の音が小さいのは潮の満ち引きがほとんどないかららしい。
七倉さんは砂浜を何歩か進むと、入り江を見回して何度も頷いた。
「美しい入り江とはお聞きしていましたけれど、こんなに綺麗なところが残っているんですね!」
これは当然のことなんだけれど、いま目に見えるものは全て七倉さんの所有物だった。京香さんや楓さんの持ち物でもあるかもしれない。とにかく、いま胸の前で手を組んで祈りを捧げる聖女みたいな七倉さんが、この島の現在の主に違いなかった。
その七倉さんのために、浜辺の片隅の岩場の陰に、小さな更衣室が設置されていた。でも、それは七倉さんのために設置されたものなんだから、僕は遠慮させてもらうなんて選択肢もあるんじゃないだろうか。
でも、京香さんが僕が見ているのとは別の方向を指さして言った。笑顔だった。
「司様はあちら側に。では後ほど」
なんで男女別に更衣室が設置されているんだ!
ちなみに、その更衣室は簡易なプレハブ造りだった。自動車用の道路はもちろん、歩道すらない入り江のことだから、きっとこれを設置するだけでもちょっとした一軒家を建てるくらいのお金がかかっているんじゃないだろうか。
更衣室の中にはいくつか荷物が運び込まれていた。もちろん、僕の水着もそこに……。
アロハ、トランクス……ふだん競泳パンツと海水パンツしか履いたことがないような僕には、充分ハイクラスな水着だった。そもそも最近は海水浴なんて行っていなかったから、学校以外で水着なんて着たこともない。
履き心地の良さを思うと、安物ではないことはすぐに分かった。
しかもわざわざ複数のタイプが用意されている。どれか選ぶのは僕の好みらしい。
でも、それはいい。
問題はまず確実に七倉さんの更衣室には、この水着よりももっと上質なものが置かれているだろうということだった。きっと七倉さんの体のサイズに合わせた特注品だ。だいたい、僕がいま履いてしまった水着だって、僕の体のサイズにぴったり合わせている。いったいどこで僕の体のサイズを測ったのか……あまり深く考えないでおこう。
でも、これはまずい。このぶんだと七倉さんの水着は……
「司くん、私もお手伝いいたします!」
七倉さんが更衣室から出てきたのは、僕が出てきてから20分は時間が経ってからだった。僕はそれを待たされただなんて思っていない。僕の更衣室にだって、複数着のパンツがあって、それを選ぶようにさせられていた。
ちなみに、僕は浮き輪やボートを膨らませる作業にいそしんでいた。
七倉さんの水着姿を見る前に、全ての雑念を捨ててしまいたかった。潮騒を聞きながら、足踏み式の空気入れを足で連打していると、なんとなく七倉さんにごく自然に笑い返せるような気がしたので、僕は顔をあげた。
揺れていた。
たしかに、七倉さんのスタイルがとてもいいことは知っていた。七倉さんといえば、清楚で性格が良くて、いつでも誰にでも優しくて、高校では知らないひとがいないくらいの有名人だった。背は高くはないけれども低くもなくて、けれども、制服のスカートから覗く脚は長いし、出るところは出ていることも分かっていた。
そうはいっても、学校では七倉さんのきめ細やかな肌を見ることはできなかったし、へそ出しなんてするわけがなかった。七倉さんは旧家のお嬢様らしく、露出の多い服装は好きではなかったし。
でも……、まさかあんなにあるなんて思わなかった。
腰はモデルみたいに細いのに、胸は隣の京香さんに負けないくらい育ってた。ひょっとしたら京香さんよりもあるかもしれない。それを、下と上とで別々になった真っ白いビキニで支えている。