75, 2日目の朝
緊張した、というわけではないけれど、今日の夕食はなんだか時間の流れが変わったような気分にさせられた。僕たちは食堂をあとにして客室に戻るところだった。夜になると洋館の廊下は洋燈の光が独特の雰囲気を醸し出していた。
「楓さんは素敵なかたでしょう?」
七倉さんはきらきらとした目を僕に向けていった。
「うん、とっても不思議な感じのするひとだよね」
「優しくて、綺麗で……鍵開けの力もとても強いんです。歴代の使い手のなかでも、もっとも強いと言われるほど。私も、楓さんにはとても敵いません」
僕たちの後ろを歩いていた京香さんが、小さく咳き込んだ。
「お嬢様はいずれ楓様に追いつかなければならないのですから、あまり楓様のことを褒めすぎてはいけません」
「それはそうですけれど……。でも、楓さんだけは特別です。大叔母さまが生きていらっしゃった頃だって、楓さんだけは七倉家の皆が一目置いていましたから」
「それは存じ上げておりますが……」
京香さんはあまりいい顔をしなかった。でも、七倉さんにとって楓さんはまだ高い壁だと考えているみたいだった。それに、京香さんはドレス姿だったから、いつものような威厳のようなものはまるでなかった。
「いいんですっ。本当のことなんですから」
部屋の前で七倉さんとは別れた。僕は部屋に戻るとテレビを点けて、ベッドの上に寝転がった。そうすると、すぐに瞼が重くなってきてしまった。せめて着替えてからだと考えたのだけど、その後のことはよく覚えていない。
***
次の日もよく晴れた。僕は深夜に寝入ってしまったことに気づいたので、寝間着だけは来ていたけれど、体を綺麗にしておかなかったことを思い出した。だから、僕は部屋の中にあるシャワールームに入った。
時間はまだ7時にもなっていなくて、朝寝坊の心配はしなくても良さそうだった。スイッチひとつでカーテンを開けると、外はもう燦々と日が照っていて蝉の鳴き声もしていたので、それに誘われるように僕は部屋を出た。七倉さんか京香さんの部屋の扉を叩きたかったけれど、もし眠っていたら悪いから何もしなかった。
食堂には既に楓さんがいた。七倉さんと楓さんはいなくて、メイドの式島さんが楓さんから少し離れたところで立っていた。僕が席に着くと
「朝食は洋食でよろしいでしょうか。それとも、楓様と同じものを」
「あ、はい。洋食で」
楓さんが既に朝食をとっていた。楓さんは当然のように和食の朝食で、昨日と同じように着物姿だった。僕はそれが気になって、楓さんに尋ねた。
「あの……、楓さんはいつも和服なんですか」
「ええ、小さい頃から。似合っていませんか?」
僕は首を横に振った。むしろ、楓さんほど和服が似合うひとはいなかった。ただ、いつも和服姿のひとなんて見たことがなかったんだ。
「10年前からそうなんですか?」
「ええ。菜摘も幼い頃は着物を着ていましたし、今もときには着ているでしょう。七倉の家は旧いですからね」
楓さんの言うように、七倉さんも着物姿になることが多いのだろうか。僕はほとんど高校での制服姿しか見たことがないから分からなかった。
「今日は菜摘と一緒に入り江へ行かれるのかしら。菜摘は昨日そう言っていましたけれど」
「昨日ですか?」
「ええ、司様と一緒に行くと言っていましたけれど、約束はまだだったのかしら?」
僕は七倉さんと約束したわけではなかったけれど、七倉さんとこの島まで来て、七倉さんの誘いを断るつもりなんてなかったから、七倉さんが今日は海で泳ぎたいと言っていたのなら、それは約束したようなものだった。
だから、僕は楓さんの言葉をわざわざ訂正することはしなかった。
「いえ、行くつもりです」
「それなら良かったわ。司様は昨日はすぐに床に就かれてしまったみたいだから。司様はお湯は使われましたか」
「はい」
「せっかくですから、今夜からは大浴場をお使いになってください。個室にはシャワーしかありませんからね。私も昨晩は菜摘と久しぶりに湯浴みいたしました」
パンを喉に詰まらせそうになった。
いや、たしかに楓さんは10年前に七倉さんの家にいることが多かった。七倉さんとは歳が離れているけれど、本物の姉妹みたいに暮らしていたと聞いている。それに、もし七倉さんにお姉さんがいたとすれば、楓さんのような上品で謎めいた女の人でしかありえないと思う。そういう意味でも、楓さんは七倉さんのお姉さんだった。
楓さんは続けて言った。
「昔のことを思い出します。私が七倉の家にいたときにはほんの子供でしたけれど、随分と大人になったみたい」
僕は楓さんが七倉さんのいったいどこを指して大人になったのか、とても気になったけれど、できる限り何も考えないように努力してやりすごした。
それに、そう言う楓さんもたぶん大抵の男性の気が引けてしまうくらいの美人だった。それはフツーの人なら話しかけることすら躊躇してしまうほどだ。
「京香さんも菜摘のことを随分と可愛がってくださっているし、思っていたよりも力も伸びているみたいね……」
話の切れ目をうかがったみたいに、僕の朝食が運ばれてきた。いい香りのするクロワッサンやスクランブルエッグ、ウインナーが次々に並べられて、僕のお腹が小さく鳴った。味噌汁に口をつけている楓さんには申し訳なかったけれど、僕は珍しい本格的な洋定食が食べたくて仕方なかったんだ。
そのうちに、七倉さんが京香さんと一緒に現れた。
「おはようございます、司くん、昨晩はよく眠れましたか?」
七倉さんは僕の隣の椅子に腰掛けた。それは昨日と同じ席だというだけのことだったんだけれど、僕は妙に意識して困ってしまった。
「菜摘、今日は入り江へ行くのでしょう? あまり遅くならないように気をつけてね」
七倉さんは「はい」と頷いた。僕はますます七倉さんのことが気になって仕方なくなった。やっぱり一緒に泳がないといけないのだろうか。でも、入り江に行くとだけ言っているから、ひょっとしたら水着にはならないのかもしれない。
「お嬢様、司様」
朝食をとりおえると、椅子を引く前に恋ヶ奥さんに声を掛けられた。昨日と同じような無表情で頭だけ下げて、七倉さんに鍵を手渡した。
「入り江に簡易更衣室を設置いたしております。ご自由にお使いください」
「あ、ありがとうございます……」