72, 七倉さんとの別行動
七倉さんはすっきりとした表情をしていて、いつもよりも浮ついているみたいだったけれども、僕はなにかが足りないような気がしたけれど、それはすぐに分かった。
「あ、そういえば京香さんは?」
「そうでした。呼びましょうか、一応」
「一応?」
僕の質問には答えず、七倉さんがドアを叩いた。上品なノックの仕方……のような気がしたけれど、七倉さんの家はたしか純和風家屋だったので慣れていないようにも見えた。
京香さんは、中から声が聞こえてからすこし間を置いて現れた。
ただし上半身だけ。
「お嬢様、いかがなされましたか」
心なしか京香さんの目が優しく見えた。それに、京香さんは扉から上半身だけを出した格好で、ドアの縁に手でしがみついたまま、それ以上廊下に出ようとはしなかった。それはふさん京香さんが七倉さんにとる態度からすると、とても失礼な気がしたけれど、もともとふたりは親戚同士なので僕も七倉さんも気にしなかった。
「いま、司くんと館の中を見て回ろうかと思っていたところです」
京香さんはぎこちなく笑った。
「それは良いことではありませんか。是非見て回ると良いでしょう。前回はお時間がございませんでしたから」
「いえ、それで京香さんも一緒に見て回れば楽しいと思ったんです」
京香さんは僕のほうを見て、手招きをした。断る理由もないので近づいてみた。
「私は恋ヶ奥や式島と話をして参るつもりでおりますので、せっかくですから司様はお嬢様とおふたりで行ってらっしゃいませ」
僕は首をかしげた。七倉さんがこの館について詳しくないというのなら、京香さんも一緒に見て回ればいいんじゃないかと思ったんだ。でも、京香さんは扉から出した手でまた僕を手招きして、近づいた僕を部屋の中に引っ張り込みながら耳元で囁いた。
「お嬢様との仲を深める良い機会でもありますし」
僕はそれで気づいた。京香さんはドレス姿だった。もっとも、ドレスなんて言っても僕は結婚式場でしか見たことがなかったので、どう形容していいのか分からない。白い絹がわずかに水色に染まったもの。涼しげだけれど、京香さんが肩を出すような格好をしたのを見るのは初めてで、僕は衣装をじっくり見るよりも単に驚いた。
結局、僕はかなり怯んだけれど、それでも小声で抗議した。
「なんで京香さんにそんな心配をされなきゃならないんですか!」
「では私もお手伝いいたしましょうか」
「……やっぱりいいです」
京香さんの拘束が解けた。ドレスからのぞいた腕は白くて細かったけれど、もぎとられるかと思うほど強い力だった。でも、京香さんはそんな強引な行動をした直後だとは思えないくらいに爽やかな笑みをした。
「そう言って頂けると思いました。ではお嬢様、私は東京本社の者と打ち合わせをして参りますので、しばらく失礼いたします」
「はい、分かりました」
勢いよくドアが閉められた。
困った。
僕はできる限り七倉さんとふたりきりでは行動したくなかった。と、いうよりも、京香さんの能力にかなりの信頼を置いていたんだ。それにはかなり現実的な理由がある。
ここには、楓さんに招待されて来ているんだ。
僕はその事実を忘れていなかった。この館にいる間は、あの七倉さんの尊敬するお姉さんが僕たちのことを見ている。何か不思議な力を使って、僕と七倉さんに何か謎のようなものを出題してくるかもしれなかった。
それは、僕と七倉さんが1学期に解いた、10年越しの手紙で経験したことでもあった。楓さんは、七倉さんの「鍵開けの能力」の先生みたいなひとだった。小さい頃、七倉さんに能力の使い方を教えてくれたのが楓さんだ。
その七倉さんと楓さんとは10年ぶりの再会になる。七倉さんの能力が10年間でどうなったのか試そうとしていることは、簡単に想像できた。
だから僕は初めからこの旅行には何かがあると思っていたんだ。
ここまでのところ、この館は怪しさたっぷりだと言うしかない。世間と隔絶したような離島に連れてこられた。こちらの陣営は七倉さんと僕、京香さんの3人で、相手は楓さんと恋ヶ奥さん、式島さん、それからまだ出会っていないけれども楓さんの友達の4人……相手のほうが多い。
しかも、僕は能力者ではないけれども、相手はきっと全員不思議な能力を使いこなす異能の使い手なんだろう。恋ヶ奥さんと式島さんは東京から派遣されたみたいだけど、楓さんの側近で、こんな離島までわざわざ来るということはまず間違いなく京香さんに負けないくらいに優秀なひとだ。
だから僕はますます警戒しないといけなかった。もちろん、なんの能力もない凡人である僕に、楓さんが無理難題を押しつけてくることはないと思う。けれども、七倉さんが僕のせいで恥をかくことだけは避けたかったんだ。
ただ、ナイフとフォークの使い方くらい練習させてほしかった!
こんな豪奢な洋館に招待されたんじゃ、能力がどうこう言う前にテーブルマナーで七倉さんの株を下げてしまうこと必至だった。そんなこと考えてもいなかったよ……。
僕が後悔混じりの決意をしていると、七倉さんが立ち止まった。
「京香さんと一緒のほうが良かったでしょうか……」
「え、なんで?」
「いえ、私はおもしろいお話ができないので」
僕は七倉さんと一緒にいるだけで楽しくて仕方なかったので、七倉さんの言葉の意味はよく分からなかった。けれども、考え直してみるとたしかに説明不足のような気がした。
「あれは七倉さんと館の中を見て回りたくなかったわけじゃなくて、京香さんも館の中を知らないと思ったんだよ。この前に来たときは時間が無かったみたいだし」
七倉さんは少し考えてから首をかしげた。
「それは推察でしょうか?」
「推察? そうかな」
どちらかといえば当然のことを言っただけような気もするし、なんとなく七倉さんと考えていることが食い違っているような気もしたけれど、七倉さんが納得すればいいので僕は頷いた。
「京香さんは恥ずかしいみたいなんです」
「恥ずかしい?」
「はい、あんあふうな格好をするといつもそうです。ほら、京香さんはいつもスーツでしょう?」
「うん、スーツしか見たことがないよ」
「休日だとすこしだけ変わりますけれどね。でも、いつもあんな調子です。ドレスなんて絶対に着ようとしません。そういうわけですから、」
『なんで私がこんなものを着なくてはならないのですかっ!』
声の出所がどこかは分からないけれど、僕には京香さんの叫び声がよく聞こえた。叫び声と言うよりも悲鳴に近かった。あれは本当に嫌がっている声だ。
七倉さんは困ったように眉尻を下げて言った。
「こういうわけです」
「うん、すごく分かりやすい……」
そういうわけで僕は七倉さんとふたりで館の中を歩いた。とても広い屋敷だった。窓が少ないせいでそう感じるのかもしれない。さっき僕たちが歩いてきた大廊下を軸にして、いくつもの枝のような廊下と部屋が並んでいた。そのいくつかは鍵が掛けられていたけれど、鍵が開いていて中を覗ける部屋もあった。
僕たちが泊まっているのと同じような部屋もあれば、物置のような部屋もある。ワインセラーもあった。もっとも、七倉さんは飲まないし飲めないから、いったい誰のためにある部屋なのかは分からなかった。
いくつか小さめの部屋もあった。僕の家のリビングよりも狭いので、なんとなく親近感を感じる部屋だった。古いテーブルと、姿見だけのある簡素な造りだった。
「僕はこういう部屋のほうが良かったなあ」
「メイド室ではないでしょうか。取り替えてもらいましょうか。私は隣のお部屋のほうが好みです。ベッドがかわいらしいですし」
当たり前だけど僕は断った。七倉さんまで狭い部屋に移ってきたら、楓さんや京香さんに何を言われるか分かったものじゃない。