07, 相坂しとらの話し方
翌日、七倉さんと約束したとおり、僕は放課後になると図書室へと足を向けた。
今日も昨日と同じように郷土史の棚から一冊だけ引き抜いて、読み込むことにした。七倉さんもそのうち来るだろう。
けれども、七倉さんはなかなか来なかった。
待っているうちに、僕は七倉さんのお姉さん……楓さんについて考え始めた。
楓さんは10年前、この高校に在籍していた。けれども、もし七倉さんのために何かを残すとすれば、その手段はそれほど多くはないはずだ。
ふつうなら10年もの間、何かを残すことは難しい。でも、七倉さんと同じ能力を持っていたとしたら、10年の時を越えることができるかもしれない。
七倉さんはどこまで調べたのだろう。七倉さんが僕に、楓さんの手がかりを捜してほしいと言ったのは、それがうまく行っていないからなんだろうな――。
僕はそんなことを考えていて、はじめ、彼女が僕の席に近づいてきたことに全く気がつかいていなかった。
けれども、やけに不機嫌そうな表情で彼女が席の前に立ち止まったとき、僕はようやく彼女が僕に用があるのだと分かった。見覚えのある顔だった。彼女も、僕や七倉さんと同じクラスだということは覚えていた。ただ、名前も名字も覚えていなかった。
なにせ、僕は女子の名前といえば七倉さんとあと何人かしか覚えていない。べつに女子が苦手というわけではないけれど。それなのに、僕は彼女がいかにも不満そうな顔をしていることに、暗澹たる気持ちになった。
つまり、誰かに頼まれていやいや僕に話しかけたということが丸わかりだったんだ。
彼女は、僕よりも背が低くて、七倉さんよりもずっと短く髪を切っていた。けれども、その容姿は女の子のなかでも圧倒的に目を引くと思う。全体的に華奢で、目も口元もすっきりとしている。
ただ、彼女には眉間に皺ひとつ寄っていないのに、とても近寄りがたい雰囲気がした。なんだか僕が何か悪いことをしていて、それを責められているような気分にさせられる子だった。これじゃ、どこのグループにも属すのは大変だろうと思う。実際、休み時間になるとできる女子の輪の中に見たことはなかった。
でも、僕もこんな態度をとられるくらいなら反論したい。今まで初対面の女子に怒らせるようなことをしたことはないはずだ。
そして、彼女はたっぷり僕の機嫌を損ねさせてからようやく口を開いた。
「司聡太」
彼女の声はとても澄んでいた。
「わたしは相坂しとら」
「うん」
「わたしはクラスメートなのです」
「うん、知ってるよ」
「……」
黙られると僕はとても困る。相坂さんの自己紹介は最低限の情報で、全く無駄のない言葉だった。悠久の歴史の中で積み上げられた、日本語の誇る丁寧表現だとか敬語表現だとかその他諸々をまるごと排除して、ニコリともせずに言ってのける自己紹介だった。
どこのスタイルだろう。なんとなく英語を直訳したような表現のような気がする。ただし、これがイギリスやアメリカの挨拶だと言ったら国際紛争に発展しそうだけど。
「用事があるのです」
そうでもなければ話をする機会もなかったと思う。
「でも、わたしには用事があるはずもないのです」
大丈夫だろうか、この子。
僕はだんだんと頭が痛くなってきた。用事があるのに用事がないというのはどういうことなんだろう。
それに、小刻みに会話を区切ってくるのは意味があることなのかな。あまり多くの単語を組み立てられない子なんだろうか……なんてことを考えているときだった。
「あなたの私が出会ったのは運命であるはずがないのです。宿命であるはずも、過去の因縁であるはずもないのです。けれども貴方は私に呼び止められなければならない。ついてこなければならない」
相坂しとらが理解に苦しむようなことを口走って、僕の手を取った。
「あなたは私に連行されなければならない」
僕は混乱した。
疑問は様々ある。どうして相坂さんが僕の手を引いて図書室を出ようとするのか。なぜ僕が図書室で本を読んでいた生徒の視線を集めなければならないのか。そもそも相坂さんと僕にこれまで接点なんてあっただろうか、などなど。
そして、そんな状況下で抵抗するでもなく引っ張られている僕は何をやっているんだろうかと。
「せ、せめて用件だけでも聞かせてくれないかな! あとついでに手も離してくれると嬉しいんだけど!」
「断固拒否」
見かけよりも握力がある相坂さんに連行されて、僕は別棟へと歩かされてゆく。七倉さんとの約束があるのにわけがわからない。
僕が分かっているのは、廊下を歩くひとみんなが僕のことを興味津々な様子で見ていることと、相坂さんが後ろ姿を見ているだけでも惚れてしまいそうなくらいに可愛いということだけだ。
そうだった、僕はどちらかというと惚れっぽい性格なんだよなあ。最近はなるべく意識していないようにしていたんだけど――なんてことを考えてしまうくらい、相坂さんの手は柔らかくて、けれども小さかったんだ。
こうして手を繋いで2人きりでどこに行くのだろう。
理由も言わずに「ついてこなければならない」とだけ言って、まるでこうすることが義務みたいな言い方をして僕を連れ出す理由なんて、いくつも考えられないじゃないか。
僕は思わず胸の鼓動を確かめてしまった。
きっといま、僕の顔は赤みを帯びていて、笑いをこらえているようなヘンな表情になっているのだと思う。まさか、相坂さんみたいな小柄で可愛らしい女の子が……!
そんな妄想を頭の中で浮かべたせいで、僕は相坂さんが立ち止まったことに気づかなかった。思わず相坂さんの後頭部に鼻先をぶつけてしまうところだったけれども、どうにか相坂のつむじを目の前にして止まることができた。
柑橘の、どこか甘みのあってしつこくない香りがする。
それだけで、僕は今までの奇行も全て許してしまいそうになってしまうのだけれど、さすがにそれは耐えた。色仕掛けにやられる男なんて最低じゃないか。
冷静になると、僕は周囲を確認する。
「なんだ、教室じゃないか」
僕がなんとなく時間を気にしてしまったのは、以前、七倉さんが教室の扉が締まっているはずの時間帯に鍵を開けてしまったからだった。けれども、今日はそれほど時間が遅いと言うことではなくて、まだ4時を過ぎたあたりだった。蛍光灯が点いているから、中には誰かがいることが分かる。
だから、相坂さんがその端正な顔を俯かせながらこちらに振り返って、おずおずと僕に何かを言う……なんてことは全く期待できなくなってしまったんだ。相坂さんは僕を教室に連れてくるだけのために、こんな手段をとったらしい。
僕はそのことが分かってしまって落胆してしまうのだけど、相坂さんに教室に連れて行かれる理由を思いつかない。
でも、その疑問も相坂さんが扉を開けるとすぐに氷解した。
「七倉さん――?」
「しとらさん、わざわざありがとうございました。司くんを連れてきてくださったおかげで、とても助かりました」
でも、僕には七倉さんが僕と相坂さんを代わる代わる見て、少しだけその表情を陰らせたように見えた。それはほとんど気がつかないはずの、ほんの小さな表情の変化だったから、どうして気がついたのか自分でも不思議なくらいだった。
ひょっとしたら、少しだけ不機嫌なのかもしれない。どうしてなんだろう。
対する相坂さんは明らかに機嫌が悪くて、握りこんでいる僕の手が痛くなるくらいだった。
「しとらと呼んではならないのです」
相変わらず、相坂さんはとても変な話し方だ。
「相坂と呼ばなければならないのです」
「じゃあ相坂さん、とりあえず手を離してくれないかな……」
これは相坂さんに無視された。というよりも、相坂さんはどうもさっきから僕の話を聞いてくれないみたいだ。だって相坂さんは僕をこの教室に連れてくるためだけに話しかけてきただけで、もともと僕とは会話したこともないんだから。
七倉さんは少し考えてから、いつもとは違って角の立つような言い方をした。違和感がする。
「申し訳ありません。でも、しとらさんが苗字を呼ぶことを強制することはたやすいことでしょうけど、しとらさんはしとらさんなのですから、相坂さんと呼ぶのもしとらさんと呼ぶのも同じことでしょう。だから、呼ばなければならないという、相坂さんの意向に応えるのは難しいことです」
たしかに、相坂さんのことをしとらさんと呼んでも同じことだし、女の子同士ならそのほうが自然なのかもしれない。けれど、本人が名字で呼んでほしいと言っているのに、どうして七倉さんはこんな意地悪なことを言うのだろう。
相坂さんは溜息をつきながら言った。
「わたしには、ほとんど初対面の方に、名前で呼ばれる趣味がないと言わざるをえないのです……」
ついでに僕も溜息をついた。
「それなら、僕はほとんど初対面の女の子に手を握られる覚えはないよ……」
それから相坂さんは教室の扉を開けて出て行こうとした。ただし、そうすると僕がバランスを崩すことになる。相坂さんはずっと何か忘れていると思う。僕の存在がどういう位置づけなのか心配になってしまうくらいだ。
「とにかく私は帰らなければならないのです。つきあいきれないのです」
そう言って出て行こうとするから僕の腕が変な方向に引っ張られた。相変わらず、僕の手は相坂さんの手と繋がったままだった。
「ちょっと待って、司くんだけは置いていってください!」
七倉さんが叫んだ。ありがたい。そのおかげで相坂さんの足が止まる。どうやら僕の関節は、変な方向に曲がらずに済んだみたいだ。
でも、呼び止められた相坂さんはといえば、今になってやっと気がついたみたいな表情をしている。自分の手元を持ち上げて見てから、みるみる赤くなって叫び声をあげた。
「言われなくても置いていかなければならないに決まっているのですっ。司聡太はいいかげん手を離さなければならないのですっ!」
それでようやく手を離してくれた。相坂さんが逃げ出すように教室から出て行って、僕はようやく一息つけた。今の今まで僕と相坂さんは本当に文字通り手を繋いでいて、僕の手のひらにはまだ相坂さんの小さな手の柔らかさが残っていた。
呆然とする僕を前にして、七倉さんは溜息をついた。今までに見たこともないほど落胆したような表情をしている。ひょっとしたら、そろそろ僕という人間の底の浅さに気がついて愛想を尽かされつつあるのだろうか?
でも、七倉さんはすぐに気を取り直したみたいだ。
「約束を違えて申し訳ありません。相坂さんの能力についてヒントになればと思って、こんな回りくどいことをしましたけれど、失敗でした」
僕は今置かれている状況を整理する。もっとも、あの妙な喋り方をする相坂さんに強制連行された先が教室で、そこに七倉さんがいたことで、一連の行動にはきちんとした意味があることがすぐに分かった。
「図書室で待っていてほしいって言ったのは、待ち合わせるためじゃなくて、僕を相坂さんに連れて来させるためだったんだ」
「そうです。相坂さんと司くんとは接点がありませんから、きっかけを作る意味でこんな手を使ったんです。……でも、私は策略家としての才能はないみたいです。大失敗でした」
「そうかな? おかげでなんとなく普通のひととは違うことは分かったけれど」
「いえ、そうではありません。こちらの都合です」
七倉さんはひどく後悔していて、やっぱり正直がいちばんですとかなんとか言っていた。
僕も、七倉さんは策を弄するよりは正攻法がいいと思う。地頭がいいから何をやっても物になるタイプではあるんだけど。
「それにしても、どうして僕は相坂さんと手なんか繋がなきゃいけなかったんだろう。七倉さんが呼んでいるのならそう伝えればいいだけなのに」
「そうですよ! どうしてあんなふうに手を繋ぐ必要があるのか分かりません!」
僕は軽く言ったつもりだったのに、七倉さんは僕の百倍くらい怒っていた。
「ど、どうしたの七倉さん」
「あ、いえ……。そ、それでですね、相坂さんと手を繋がなければならなかったのは、相坂さんが手を繋がないといけないと言ったからだと思います。もっとも、私としては手を繋ぐではなくて、手首を掴まれるとか背中を押されると言ったほうがいいと思いますが……。ただ、手を繋ぐほうが直接的ですから都合が良かったんでしょうね」
「あまりよく分からないんだけど……」
七倉さんは席を勧めてくれた。たぶん能力に関わる話だろう。僕は勧められるままに七倉さんの席のそばに座った。
「相坂しとらさん、私たちのクラスメートですが――彼女は能力者です。それは間違いありません。私も入学してからしばらくして気がつくくらいには、分かりやすい能力の持ち主でしたから」
「そんなに分かりやすいの? たしかに相坂さんはなんとなく他の女の子とは違うように思えるけど」
「司くんは相坂さんとは接点がありませんでしたから。相坂さんはほとんど人づきあいのない方ですし、女子のなかでもかなり特殊な存在でした。だからこそ私も気がついたのですが……」
七倉さんは遠回しな言い方をしているけれど、要するに相坂さんはとっつきにくい女の子だった。見た目はすごく可愛いのに、クラスメートと関わり合いになろうとしない。それは、遠目から相坂さんを見かけるだけの僕にも分かるくらいだった。
「もっとも、能力を持っているひとなら、他人と関わり合いにならないようにするのは、ままある傾向なんです。能力をうまく生かせば、自身の才覚だけで生きていくことは充分できますから」
それは大変そうな処世術だと思ったけれど、七倉さんの能力を知る今なら、僕は相坂さんの態度を批判する気にはならなかった。
実際、七倉さんは七倉家を支えられるほどの能力を持っていると思う。どんな鍵でも開けることができる能力は、現代でも何人もの家族を養える能力だ。
もし、相坂さんも七倉さんと同じくらいの能力を持っていたとしたら、その能力は自分だけでなくて周囲にも影響を与えてしまうはずだ。それなら、あんなふうに他人を遠ざけるような発言をしているのも責められない。
「ところで、相坂さんの能力は分かっているの?」
「はい、それもすぐに分かりました。相坂さんの能力はあの話し方にあります」
「たしかに、いかにも何かありそうな言い回しをしていたよね」
「まだ司くんは相坂さんとほとんどお話ししていませんから、こんなことを言っても奇妙に聞こえるだけかもしれませんが、相坂さんの話し方は、ある意味ではとても素直なんです。ただ、そうであるがゆえに放ってはおけませんでした」
素直ってどういうことなんだろう。僕には相坂さんの不思議な話し方しか思い浮かばない。