65, 新幹線での会話
七倉さんの隣の席だった。
京香さんが祖母に頼んだ次の日には、僕はもう車上の人になっていた。久良川町から東京までの道のりはとても遠い。京香さんが運転する車でも朝早く出て夜遅くに着いてしまうくらいの距離があった。
「私が運転してもよいのですが、新幹線を使いましょう。ただ座っているだけというのがもっとも辛いでしょうから」
京香さんはそう言って、次の日の朝、七倉さんを後部座席に乗せて、あの七倉さんが嫌いな黒塗りの車で祖父母の家の近くまで迎えに来てくれた。ちなみに、祖父母の家の周辺は道が細いので、七倉さんの家の車では入ることができなかった。
七倉さんはとてもにこにこしていた。黒塗りの車でもぜんぜん怒っていなかった。
新幹線の駅は都心にある。京香さんの車で30分とすこし。七倉さんの車で駅前につけると、代わりの運転手が駅前で待機していて、僕たちが降りるとすぐに京香さんから車の鍵を受け取って、黒塗りの車を回収していった。
改札を切符もなしに通り抜けるのはなぜか緊張した。切符がないというのは、京香さんが切符なしでもいいように買っていたのかもしれないし、まさかとは思うけれど、僕が知らない契約があるのかもしれない。
「今日は特別に普通席です」
その特別の意味は、ふだんはグリーン席だということらしい。
普通席に窓側から七倉さん、僕、京香さんの順に詰め込まれて、僕たちは数時間の車窓を楽しむことになった。座席は広かった。車内では静かにするものだと思っていたけれど、京香さんはあまり遠慮せずに僕に話しかけてきた。車内が空いていたせいもあるかもしれない。僕も七倉さんに話しかけていた。
「そういえば、七倉さんは……その東京の別邸には行ったことがあるの?」
「はい。この前、6月に楓さんとお会いしたときに初めて行きました。いいところです。ただ、離島なので不便ですが、陸地までもそう離れてはいませんから船に乗る時間も短くて済みます。司くんは船酔いしませんか?」
「うーん、船なんて滅多に乗らないから……」
思い出してみようとするけれど、僕が前に船に乗ったのは何年も前にどこかの遊覧船に乗ったきりだ。観光でもない限りは船に乗る必要もないし。
「ごく短時間だから平気ですよ。天気が荒れない限りは乗り心地も悪くありません。ご心配なされないことです。心理的な不安のほうが体調を崩す原因になります。島に着けばきっとお気に入られます。久良川よりも南に位置しておりますが、都市部から離れていますから暑さはあまり感じられません。別邸は和洋の両方がございますから、あまり暑いようでしたら冷房の効く洋館に移られれば良いでしょう」
僕は京香さんの無表情だけど親切な説明を聞いてから、ふと腑に落ちないものを感じて京香さんに聞き返した。
「でも、あの手紙の内容だと楓さんが僕たちを別邸に招待するように読めましたけど、楓さんは東京の別邸に住んでいるんですか?」
「いえ、何度もいらっしゃっていることは間違いありませんが、別邸には普段は使用人しか住んでおりません。むろん、楓様も本土に住まわれておられます」
京香さんは意味ありげに僕を一瞥した。
「向こうは海も綺麗ですよ。沖縄のように透き通った海とまではいきませんが、それでも浅いところなら海の底が見えるくらいです。私、東京の近くだから透明の海だなんて信じられなかったんです。でも、行ってみたら本当に透明なんです。入り江の砂浜は真っ白で、お魚と一緒に泳げますけれど、船や鮫は入って来られないから安心です」
「水着は既に別邸に運んでおります。もし気に入られないようでしたら都内で調達させます」
水着。僕は唐突に七倉さんの水着姿を想像して顔が熱くなるのを感じた。
いや、七倉さんは海が綺麗だということを話しているだけだし、京香さんも用意があると行っているだけだから、使うと決まったわけじゃない。
よく考えたら七倉さんも京香さんもほとんど手ぶらみたいな格好で、水着に限らず手荷物は全部別に運んでもらっているみたいだ。だから、たくさんある荷物の中の一部が、水着だっただけなんだ。使うと決まったわけじゃない。
僕は七倉さんの水着姿をなるべく想像しないように努力しながら、両側で繰り広げられる京香さんと七倉さんの会話を聞き流していた。
でも、京香さんは強引に僕を会話に参加させた。耳元で小さく、
「貸し切りのようなものですから、存分にお楽しみくださいませ」
「僕はまだ何も言ってませんよ!」
京香さんはとても楽しそうな笑顔で言った。笑顔といっても全然にこやかではないんだけど。
「遠慮なさらずとも構いません。司様のぶんの水着については用意させていただいております。御母堂に説明して司様の水着を用意していただくことも考えましたが、どうせ新しいものをご用意すると思われましたので、つい」
「ついってなんですかっ」
僕は慌てて口をつぐんで七倉さんの様子をうかがった。けれども、七倉さんはいつの間にか眠っていた。朝からはしゃいでいると思っていたら、マイペースなことにもう寝てる。その目を閉じた寝顔がこちらを向いていて、僕は慌てて京香さんのほうに向き直った。
京香さんは分かっていて僕をからかっているのだった。
「司様は競泳用と学校教育用の水着しか着用されたことがないと思いましたので、せっかくですから高級品をと思い。いえいえ、代金についてはご心配なさらず。遠慮には及びません」
「遠慮しているわけではないですよ!」
僕は精一杯抗議した。でも、京香さんは全然こたえていなかった。それもそうだ。僕がいくら言ったところで京香さんがやめることはないし、買うものだってとっくに買って別邸に送られている。
僕は抗議方法を変えることにした。
「だいたい、どうして僕が七倉さんと泳がないといけないんですかっ」
「お嬢様とお遊びになるのはご不満ですか」
「……不満ではないですけど」
「ならば良いではありませんか」
「良くありませんよっ」
「どうして良くないのでしょうか」
僕は口の中でもごもごと言い訳した。女の子と、しかも七倉家の長女である七倉さんが僕みたいなのと水着姿で戯れているなんて、常識的に良くないことじゃないか。それがどうして良くないかなんて上手く説明できないけれど……
「しかし、お嬢様の水着姿はご覧になりたいのでしょう?」
「そりゃ、見たいか見たくないかで言ったら見たいです」
「お嬢様のプロポーションは相当なものです。水着姿はさぞ美しいことでしょう。ちなみに、お送りした水着はスクール水着ではなくいわゆるビキニですので」
僕の妄想の中で七倉さんが水着姿になった。そりゃあ、七倉さんが水着姿になったら綺麗に決まってる。七倉さんは髪が長いし、肌は滑らかだし、出るとこはすごく出ているし、海水浴場に行ったら絶対にナンパされるに決まっている。
ううん、やっぱり七倉さんが水着姿なんてあってはいけない。
「なんでそんなもの送っちゃったんですか、七倉さんはお嬢様でしょう!」
「だから砂浜は貸し切りだと申し上げたではないですか」
頭が痛くなってきた。