63, 楓さんの来訪
そういえば、相坂さんはこの時期、北国の避暑地に行っているらしくて、時々僕のケータイには緑いっぱいの画像が送られてきた。どうやら撮影の仕事みたいだ。ちょっと前にも僕のクラスメートの双嶋くんの暴走を招いたくらい、相坂さんは可愛いから、撮影もきっとうまくいっているんじゃないかな。お祖母ちゃんの家は父や叔伯父の仕事のためにインターネット回線もつながっているし、田舎にいながらにして生活は都会とほとんど変わらなかった。
ただ。
僕が久良川本町に移ってから何日かして、祖父母の家に何人か来客があった。そのうちのひとりが、僕もよく知っているクラスメートの女の子、七倉さんだった。
七倉さんは久良川本町の南側に位置する七倉地区に暮らしている。北側に位置している祖父母の家からはすこし離れているのだけど、バスを使えば10分もかからない距離だし、車を使えばもっと早く来ることもできる。七倉さんはこのあたりで異能の力を持っているひとの家に、いろいろな挨拶や用事があるみたいで、その途中にこの家にも来ることがあったんだ。
今朝も、畑と林の間を縫うように伸びる小道に、ふたりのお客さんが歩いてくるのを見つけて、僕は小さく手を挙げた。ふたりは遠目からでもとても目を引く。歩いている姿勢がとても良くて、なんだかこの世界の住人とは思えない。
白くて涼しげな服を着ているのが七倉さんで、なぜか頭には麦わら帽子をかぶっていた。その傍らにいるのが京子さんで、京子さんは相変わらず暑苦しそうなスーツを着ていた。
「おはようございます、司くん」
「司様、おはようございます」
僕は七倉さんが来たことを祖母に言って、家に上がってもらった。七倉さんのことはこの辺りに暮らしているひとならみんなが知っている。
でも、七倉さんは祖母と会ったことは実はなかったみたいなんだ。祖母は自分が不思議な能力を持っていることを秘密にしていたし、もしかしたら七倉家と昔なにかあったのかもしれない。これは僕の勝手な想像だったんだけれど、それが案外間違いでもないことが分かったのはつい先日のことだった。
この日、七倉さんが来てくれたのも、ちょっとだけとはいえ祖母にも関わりがあることだったんだ。
七倉さんと京香さんを居間に通して、僕は点けていたテレビの音量を落とした。ちょうど今週開幕の高校野球の特集をやっているところだった。
「楓さんがいらしたとお聞きしました」
七倉さんは机を挟んだ向こう側に、行儀良く正座して言った。京香さんはそのすぐ後ろに控えて座っている。お祖母ちゃんがわざわざ麦茶を出してくれた。
「電話をいただいた後、私も郵便受けを調べましたが、たしかに楓さんのお手紙がありました。司くんのものも見せていただけますか?」
「いいよ」
僕は机の上に置いてあった封筒を七倉さんに手渡した。
昨日、この家にもうひとりの来客があった。
夕方、日は傾きかけた程度でまだまだ眩しいけれど、蝉の声がすこしだけ小さくなってゆくように感じられた時間になって、この家の玄関扉を叩いたひとがいた。
夏の盛りだから、来客が来たことは網戸の向こうから見える姿と音ですぐに分かった。居間にいた祖母と僕はテレビから目を離して、玄関先に出た。
「こんにちは」
祖母の後をついて玄関に出た。
玄関先に立っていたひとは、足元まで伸びるほどの長い髪をもった女の人だった。
僕は、今までこんな女の人を見たことがないと思った。髪は漆黒で、顔は恐ろしいくらいに綺麗だった。化粧は口紅だけだと思う。着物を身につけているけれども、まるでそれが自然な衣装に見える。たとえば京都の舞妓さんのイメージとはまるで重なり合わなかった。藍の地色に、白く浮き上がった菖蒲の柄。足下は草履だった。
まるで祖父母が幼い頃のような出で立ちだった。それにしてもその女の人は着物を着慣れているに違いなかった。ただ、顔をよく見ると見覚えがあるような気がした。どこか七倉さんににている。
お祖母ちゃんがのんびりした調子で尋ねた。
「どちら様ですか」
「司秋江様でいらっしゃいますか。私は七倉楓と申します。十五代の不肖の弟子です」
それでやっと、僕はずっと前、七倉さんに見せてもらった1枚の写真のことを思い出した。それは七倉さんの遠縁のお姉さんの写真だった。それと、いま目の前に立っている女の人の姿を重ね合わせるのには時間がかかった。
僕が驚愕しながらじっと見ていたかもしれない。楓さんは澄んだ瞳を僕に向けて、にっこりと微笑んでから静かな声で話しかけてきた。
「こんにちは、司聡太さんですね。はじめまして。楓です。菜摘からお聞きになっていたらいいのですけれど……」
「し、知っています」
僕はそれだけ言うので精一杯だった。
だって、まるで楓さんは竹取物語のかぐや姫のように思えたんだ。この世の人ではなくて、物語と伝説の中だけに生きる人のように見えた。和服が似合っていて、あまりにも似合いすぎていてむしろ洋服を着ていた写真が不自然のように思えた。
そして……、どこか「普通のひと」とは雰囲気が違うことに僕は気づいていた。
それは、僕があらかじめ楓さんが七倉さんの尊敬するとても立派な能力者だということを知っていたからかもしれない。いま、僕は七倉さんがときおり能力者としての顔を見せることを知っているけれど、楓さんは身に纏う雰囲気がもう違っていた。
七倉さんが尊敬する理由が、僕にはすぐに分かった。
この人は、別格だ。
でも、お祖母ちゃんはそんな僕の気持ちを知ってか知らずか、いつものようにのんびりした調子で言った。
「菖蒲の柄だねえ」
「はい」
楓さんが細い声で答えた。
「聡太に用事なのかい」
「いえ……亡き聡一郎さんにご挨拶を差し上げたくて参りました」
「そうかい、あがっていいよ」
「ありがとうございます」
楓さんは草履を脱いで家に上がった。足袋を履いているせいか、歩いても音がしない。そのせいで僕は楓さんのことを幽霊かと思ってしまうほどだ。
祖母は楓さんにお茶を出した。僕はどうしたらいいのか分からなくて、とりあえず仏間のある和室の片隅に座っていた。
楓さんは手を合わせてから僕に言った。
「聡一郎さんにはずっと前にお世話になりました。菜摘がまだ幼かった頃です」
「そうなんですか」
「とても素晴らしい方でした」
祖母が出してくれた茶菓子に口を付けてから、あまり多くのことを話さずに、祖母にお礼だけを述べた。
「もういいのかい」
「はい、急に申し訳ありませんでした」
楓さんは三つ指をついて頭を下げた。
ほんの10分くらいのことだったはずだけど、その短い時間だけでも、僕は楓さんが普通のひとでないことはよく分かった。けれども、祖母は楓さんのことについてあまり多く話さなかった。
ただ、僕は楓さんが帰った後の仏間に、真っ白な封筒が置かれていることに気がついた。
それは、楓さんから僕に宛てられた手紙だった。