62, 祖父母の家
朝に電話があって、僕はすこし早めに布団を出た。家のすぐ隣の林からはひっきりなしに蝉の鳴き声が聞こえてくる。家の裏手の山も、向かいの山も、朝日に照らされて木々が青々としている。
8月になって、僕は久良川本町の北に位置する祖父母の家に来ていた。
ふだん、この家には祖母がひとりで住んでいる。近くには祖父や祖母の親戚や、ずっと昔からつきあいのある友達が暮らしていて、畑仕事をしたりお茶を飲んだり、近くに住んでいる僕の父親がたまに様子を見に帰れば父親の世話をする……なんてふうに日々を過ごしていた。
僕はこの夏、8月に入って何日かすると祖母の家に行くことにしたんだ。
それは、自宅にいても特に何かすることもない高校1年生の夏休みだったからという理由もあったし、僕にとって春に亡くなった祖父の家でまだ僕が知らない祖父の即席を探ってみたいと理由もあった。
盆が近づけば毎年そうであるように従兄弟たちも久良川に来るはずだから、その時期になると祖父のことは脇に追いやられてしまいそうだったんだ。僕の父や叔伯父たちは祖父の遺言のことを知っているけれど、従兄弟たちは僕がかかわっている事件のことは何も知らない。
僕は旅行用の大きな鞄に衣類や本、ノートパソコンや携帯ゲーム機を詰めて、それから忘れないようにクリアフォルダーに入った祖父のノートを持った。もちろん、内容は手帳に書き写してあるんだけれど、祖父の家に行くのだから持って行きたくなったんだ。
祖母はひとりで家に来た僕を歓迎してくれた。
僕は祖母に挨拶をしてから仏間に足を運んで線香を立てた。それから僕は手を合わせて報告した。祖父の遺言から始まったたくさんの出来事にますます驚いていること。百か日から今日までにあった出来事。祖父のとてもふるい友達――動物を使役する一族・東使さんの末裔と出会ったこと。東使さんのお祖父さんが、僕の祖父のことを覚えていたということ。
祖母は、僕の父親がふだん好きこのんで食べているような食事を僕にも出してくれた。母親とは味が違うけれど、祖母はとても料理が上手だった。夕方に風呂をあがると、祖母は祖父の書斎を見せてくれた。書斎といっても、祖父の家は豪邸ではなかったから和室の片隅にいくつかの本棚と収納、机があるだけだった。
高校で読んだ本もあった。七倉家の、ふるい歴史が書かれた本がある。けれども、それよりももっとたくさんあったのは、高校には置いていない本や、刊行されていない秘密の資料だった。
ずっと気がつかなかった。
それは単なる郷土史の合間に挟まっていて、はっきり言って興味がなければじっくりと目にすることすらないような、単なる紙束と冊子の集まりのようにしか見えなかった。あるものはほんの形をとっていたけれど、またあるものはただの紙切れだった。
ただ、その戸棚にはガラスの扉がついていて、日に焼けないように部屋の角に置かれていた。
祖母がその戸棚を開けたので、僕はおもむろにそのいくつかを手に取った。
「読めるようになったかい、聡太」
「……少しだけ、でも、まだまだ全然わからないよ」
いくつかは僕が持っているノートと同じような内容があった。祖父の友人との関係のこと、異能の力のこと。どうやら、祖父が遺したノートはこの書類に書かれている内容をまとめたものらしかった。
「ここも、お祖父ちゃんが死んじゃったときに調べたんだよね」
祖母は首を横に振った。
「お祖父ちゃんは机にノートを置いていたからね」
つまり、家中をひっかき回したといっても、祖母も健在だったから祖父が遺言を遺している可能性のある場所だけを総ざらいして……、結局、祖父の遺言は昔からそこにあるのだと祖母が知っていたようなものだったんだ。
ひとまず僕は祖父の戸棚に紙束を戻した。そうすると、祖母は大事そうにそっと戸棚を締めた。
そして僕は気がついたんだ。
「いま、鍵を掛けた?」
よくよく戸棚をみると、そこには小さな鍵穴があった。もちろん、祖母は開けるときにも締めるときにも鍵を使ったわけじゃない。ただ、その戸棚には取っ手の下部に鍵穴があいていた。ガラス張りの戸棚は、鍵が掛けられるようになっていた。
僕は戸棚を引っ張ってみたけれど、もう戸棚は開かなかった。
祖母は顔をしわくちゃにして笑った。
「聡太は不思議な子だねえ。あの子たちはひとりも気づかなかったのに、どうして聡太だけはこんなに簡単に分かるんだろうねえ」
たしかに、僕は不思議だった。祖父と祖母のあいだには3人の子供がいた。子供は3兄弟で、2人目が僕の父親。それから、3人の子供にはそれぞれ孫がいた。僕は祖父からみて4番目の孫にあたる。
でも、異能の力のことを知った子供も、祖母の「鍵掛け」の能力を受け継いだ子供も、なかなか現れなかった。祖父が亡くなってた後になって、ようやく気がついたのが――司聡一郎の不肖の孫・司聡太――つまり僕だったんだ。
夜になると祖母は家の雨戸を閉めて回る。床に就く前には、玄関と勝手口の扉をいちど押し引きして確認する。
そういえば、祖父母の家に来たときは夜間に外に出ることはあまりなかった。遠くに見える町の明かりは都会のそれだったけれど、近所はコンビニすらない田舎だ。小さな電灯しかない田園の中を、夜に外出する必要なんてほとんどない。
夕方は祖父が畑に出たり散歩に出たりしていて、祖母は台所にいることが多かった。祖母は戸締まりを確認した後、祖父の帰りを待っていた。玄関の扉を閉めるのはいつも祖父だった。僕が小さい頃から祖父母の家に来ると目にしていた光景だ。
いまは、祖父の代わりが息子や孫になった。祖母は相変わらずしっかりと雨戸を閉めて、玄関だけは甘く閉めた。息子や孫が何時に帰ってきてもいいように。
ほんの何気ない毎日の習慣だった。でも、本当はこの町に暮らす不思議な能力を使うお祖母ちゃんと、お祖父ちゃんの昔からの約束事だったんだ。
僕は夕食の時にお祖母ちゃんに言った。
「お祖母ちゃんのお兄さんのひ孫が高校の先輩なんだ。お祖母ちゃんの能力のこと褒めていたよ。倉橋の家に昔から伝わる立派な力だって」
僕はお祖母ちゃんをちょっと喜ばせるつもりだったけれど、意外にもお祖母ちゃんは口を尖らせた。
「兄さんのところは相変わらず力が使えんのかいっ!」
僕はそれが面白くて大笑いした。祖母は情けない、情けないと繰り返した。曾祖父は立派な能力者だったのに、倉橋の男はお気楽なんだからとぼやいていた。
「嫁に行った私が褒められてどうするのさ」
「でもお祖母ちゃんって、ずっと力を使ってきて、今でも力が使えるんでしょ。すごいことだよ」
「お祖父ちゃんはそう言ってくれて嬉しかったよ。でも、本家がそれを言ってどうするのかね」
眼鏡の倉橋先輩が苦笑しそうだけれど、お祖母ちゃんの言うことはそのとおりだった。