58, 私と七倉本家
七倉銀行という名前を聞いたことがおありでしょうか。明治時代に合併されて名前を変えた銀行ですから、今はもうないのですけれどね。もっとも、県内地銀の前身のひとつですし、その地銀の今の頭取が本家の叔父様でいらっしゃいますから、今でも無縁ではありません。
七倉財閥はどうでしょう。もちろん、昭和の中期には使われなくなった呼び名ですが、今でも七倉グループという名前で残っています。地方の中堅財閥のひとつでしたから、財閥解体には無関係でした。
それでは、七倉製作所というお名前はいかがでしょうか。地元の中堅企業ではありますが、思いのほか歴史のある企業です。鍵のような小物を作っていますから、手にとってようく調べてみてください。
七倉不動産は、地元ではけっこうな知名度ですからお聞きになったことがあるかもしれません。久良川町の一帯は七倉不動産が管理する土地が多いですから。もしかすると、七倉特別警備という企業に心当たりがおありでしょうか。
大抵のかたは、ここまで申しあげると心当たりがあるような反応を返されます。そうでない方も、実は街中を歩いていて注意していると、何度か目にするはずです。
私は七倉楓。
県内の名門一族・七倉家の末裔のひとりです。
しかし、時々聞かれるのですが私に商売の才能などはありません。そもそも、誤解されがちなのですが、七倉家の面々はみな商売上手とはいえないひとばかりです。祖先から受け継いだ資産と知識を元手にしているから成り立っている商売です。
それと、私は大企業を経営している本家筋のみなさまとはほとんど無縁です。
ですが、私は物心ついた頃には、ことあるごとに七倉本家を尋ね、七倉家を束ねるかたがたのお世話になっていました。つまり、七倉グループ本社の会長様、社長様……それから、七倉家を真に支えている異能の力を持つひとたち。
私はふつうのひとには使えない鍵開けの能力を使うことができました。七倉の血を引き、七倉の名とともにある能力です。私は、七倉菖子さんという上品なおばあさまに能力について手ほどきを受けました。
菖子さんは、七倉本家を支える15代目の能力者でした。
話を私のことに戻します。私の生家は何百年も前に今の「本家」から枝分かれした、七倉家の中でもとても古い系統なのだそうです。なつ姫様が現れるよりもずっと前……かつて、七倉家で今「本家」と呼ばれている家とはべつに、もうひとつ「本家」に肩を並べるほど強い能力者を輩出した家がありました。その子孫が私です。
遠い分家の出自でした。
いえ、分家という言葉も適切ではないでしょう。私の父も祖父も、いわゆる「本家」との繋がりを意識することはありませんでした。むしろ、私の母などはいまだに「本家」のことを鬱陶しく思っているようです。
それは、昔からことあるごとに私を本家に預けるように連絡があったからです。七倉家では、その一族の中から能力者が出ると、本家か、それに近い分家に子供を預けて能力についての知識を授けます。
ただ、私はあまりにも遠い家系の生まれでしたから、もはや七倉家のそんなしきたりなど忘れ去られていました。七倉家が大きな企業を経営していることは知っていましたが、私の父はその「七倉家」と自分の「七倉家」は無関係だと思っていました。
ですから、私の母は偶然にも自分の娘が能力者だったせいで、ことあるごとに本家から呼び出されたり、自分の娘を血縁も分からない遠い親戚に預けなければならないことに、かなり不満をもっていたようです。それでも、舅である祖父に促されて、しぶしぶバスを乗り継いで久良川本町まで通っていました。私の家は久良川本町から離れた久良川の下流域にありましたから、その行き来は母にとって苦痛だったようです。
ただ、私を七倉本家に預けると、その見返りとして、私の預金通帳には頻繁に七倉家名義で入金がありました。それは「謝礼金」という名目で、振り込まれる額は決して少なくない額でした。私がピアノや英会話といった塾通いをするために必要なお金を差し引いたうえに、近所づきあいの少ない一家がちょっとした贅沢をしても、まだ余るような金額です。
それでも、七倉本家に対する不信感から母の足が遠くなることがありました。すると、家にそっとタクシー券が送られてきました。それでも足を運ばなくなると、今度は七倉本家から送り迎えの車が出るようになりました。これにはさすがの母も驚いて、車を断り、幼い私の手を引いてバスに乗りました。
相変わらず久良川本町までは時間のかかる道のりでしたが、その頃からバス路線が増えました。乗り継ぎが必要なくなったので、母にとっては随分と楽になったようです。
……もっとも、それはどうやら偶然の出来事ではなかったようですが。
お正月には、七倉本家を訪ねて挨拶をするだけで、会長様と菖子さんからそれぞれ十万円ものお年玉を頂けました。さらに、私の誕生日にもまた十万円の振り込みがありました。私が進学するたびに「進学祝」や「支度金」を受けとりました。七倉姓の市議会議員や県議会議員からはお祝いの電報が届きました。いちど祖父が入院したときには「見舞金」までも支払われました。
母は恐ろしくなるほど多くの援助を不気味に思いながらも、生活を楽にしてくれる大金を甘んじて受けとりました。ただ、遠縁の親戚から送られてくる大金があまりにも奇妙だったために、金銭感覚がおかしくなるということもありませんでした。
今でも母は、ごくふつうの娘にしか見えない私が、不思議な能力を持っていることを信じていません。物静かな娘に大金を支払う七倉本家には、相変わらず畏れのような感情を抱いたままでした。
もっとも、高校生になった私はもはやひとりで久良川本町まで行くことができましたから、母は時々本家にお礼を述べに行くだけで、久良川本町との面倒な行き来をすることはほとんどなくなりました。久良川高校に進学した私にとって、七倉邸に顔を出すことは日常の一部になっていました。
お金の話ばかりで意地汚いですが、数年前には、もうひとつ大きな「祝い金」が七倉一族に振る舞われました。私が10歳のころに本家に生まれた長女――七倉菜摘が、鍵開けの能力者だと分かったときのことです。
七倉菜摘は、七倉本家に約400年ぶりに現れた、長女でありながら異能の力をもつ子供でした。菜摘の生まれた日のことは私も覚えています。菜摘の誕生日は七倉家全体で大騒ぎになった日になりましたが、菜摘が儀式を受ける日もまたたいへんな一日になりました。
その日は、ある連休の日曜日でした。
私は朝早くに本家からの電話を受けとると、母に一言だけ断って、久良川本町行きのバスに乗り込みました。幼い頃から本家に通った私にとっては慣れた道のりです。
中学生になった私は部活には入っていませんでしたから、本家に行く回数は小さい頃とほとんど変わりありませんでした。この頃になると、母は私が本家で何をしているかを聞こうとはしませんでしたし、ある種の日課として認めるようになっていました。
春の暖かな日でした。
私は七倉バス停で降りると、道端に咲いている花を楽しみながら狭い路地を歩きました。久良川の総社に寄っていこうかとも思いましたが、まっすぐに屋敷に行くことにしました。
もう何百回と通った屋敷ですが、あまり気安くするわけにも参りません。私はかなりの遠縁でしたから、本家の方はもちろん、いわゆる分家の方にお会いしても礼儀をわきまえるように気をつけました。
その日も、家政婦さんの次に私を出迎えたのは菜摘でした。
菜摘は4歳になる前でしたが、七倉家のみんなが期待するとおり、すくすくと成長していました。菜摘の母親によく似た、ふるい武家のお姫様のような容姿です。お嬢様には違いありませんでしたが、お屋敷の奥にこもっているのではなく、世界の外側に興味をもっているみたいです。
菜摘は、つやつやの髪を肩に掛からないほどに伸ばしてあげていましたが、私の髪を見るともっと伸ばしたいと言って聞きませんでした。私の髪は腰の下まであるので、菜摘にはまだ早いでしょうと言ってなだめていました。
その日は、七倉家の主立った面々が本家に勢揃いしていました。七倉グループの中でも中核とされる企業で、そのなかでも常務より上の重役のかたがた。本家筋のすべての家族、たくさんの能力者を輩出する分家のひとたち、それから血縁の近さとは関係なく七倉の力をもっている能力者全員です。
私は菜摘に手を引っ張られながら、分家のかたがたの邪魔にならないように、会長様と社長様――菜摘のお祖父様とお父様――に挨拶を済ませました。
すると、会長様と社長様はにこやかな顔で、私に菖子さんのところへ行くように言いました。菖子さんのもとへ縁側の和室に行くと、会長夫人がいらっしゃいましたので挨拶をすると、会長夫人は頷いて席を外されました。社長夫人は別宅にいらっしゃるようでした。
「今日、菜摘が能力者かどうか試します。楓ちゃんは分かっているわよね」
私は頷きました。私自身は受けたことはありませんが、七倉家に生まれた娘は物心つく頃に本家の倉に閉じ込め、能力の有無を試します。私が本家に通うようになってから、私よりも年下の子供が、何人か倉に閉じ込められるのを見てきました。
しかし、私が能力者として本家に来てからというものの、次の能力者は現れたことがありませんでした。つまり、七倉家にはもう10年以上も能力者が生まれていませんでした。このようなことは、七倉家の長い歴史のなかでもそうはないことでした。
私は菜摘が七倉のしきたりに従い、七倉本家の倉に閉じ込められるのを見届けるうちのひとりでした。次第に分家の皆さんは縁側や和室に座り始めました。茶菓子が振る舞われます。長い時間がかかるかもしれないため、皆がくつろげるように取り計らわれました。
菖子さんは私を引き連れて、菜摘の手を取って、庭の池を越えたところにある大きな倉まで歩きました。母屋から最も近く、扉の様子がすぐに分かる倉でした。
菜摘が不安そうに見上げます。私は菜摘がこれから怖い思いをすることを心配して、暗い気持ちになりました。けれども、もし菜摘が能力者だということが分かれば、私にとっては初めての年下の能力者です。私はそうなってほしいと思っていました。菜摘も私の気持ちを分かっているかのように、私と菖子さんに連れられるまま倉の前まで歩きました。
菖子さんは触れただけで南京錠と倉の鍵を開けました。
そして、幼い菜摘を倉の奥まで連れて行きました。
倉の中は居心地の悪い空間ではありません。この本家の倉は子供達の試練のために使われることが多いため、ものをあまり多く置いていないためです。置いてあるのは、宝箱や金庫のたぐいでした。スイッチまで手が届けば電気も点けられますし、ちょっとした遊び場にでもなりそうなくらいです。
「私がいいと言うまで、ここにいなければなりませんよ」
菖子さんは菜摘にやさしく言いました。よく躾けられている女の子は、これだけで何分間かは倉の中でじっとしています。ひょっとすると、七倉家の人間は倉に一種の本能的な安心感を抱くのかもしれません。
でも、わたしたちが出て行き、扉が閉められると、当然ですがどの子供も泣き叫びます。
私たちは菜摘が扉に駆け寄るのを分かっていながら、鍵穴には触れないように、倉と南京錠の鍵をかけました。
「しょうこおばあさま……かえでおねえさま……」
中から菜摘の声がします。とても心細そうな声です。
あんなに小さな子を薄暗い倉に閉じ込めることに、私は強い不安に襲われました。七倉家の子供は、ほかの家の子供よりも倉を怖いとは思いません。それでも、暗闇には何分も耐えられるわけがありませんでした。あまりにも激しく泣き続ける場合には、儀式を途中で止めることもあります。
どうか菜摘が泣かず、鍵を開けようとしますように……。
私は声には出さずに祈りました。
錠を下ろしてしばらく経つと、中から菜摘のすすり泣く声が聞こえました。菜摘は大声で泣く子供ではありませんでした。もっと大きな声で泣けば良いのに、我慢ができてしまうのです。
私は後ろ髪を引かれる思いでしたが、倉の前を離れました。
それから、10分、20分と時間が経っていきます。菜摘はどうしているのでしょうか。春先の晴れた昼間です。大人ならあまり恐怖を感じませんが、菜摘の目からすれば永久に閉じ込められるように見えているかもしれません。
30分、1時間と経つにつれて、家の中はいくぶんか弛緩した雰囲気になってきました。しかし、菖子さんや会長様、会長夫人、社長様は相変わらず倉の様子を気にしていました。
「叔母上、もう良いのではないですか」
会長様がおっしゃりました。孫娘のことを心配されていらっしゃいます。
しかし、菖子さんは首を振って、お茶をすすりました。
「私は半日閉じ込められたからねぇ……」
湯呑みを置いて、菖子さんはおっしゃりました。遠い目をして、菖子さんは80年以上前のことを思い出されているようでした。それは会長様も生まれる前のことでしたから、その話を持ち出されると、もう会長様も何もおっしゃることができませんでした。
仏壇の傍らに飾られている前会長・財閥総帥の遺影が、会長様を厳しく見つめています。菖子さんよりも年上の能力者のかたが、菖子さんの儀式の時の思い出話をされました。
私は菖子さんからすこし離れたところに座っていました。本を持ってきてはいましたが、あまり集中できませんでした。台所に行って何かお手伝いをしようかとも思いましたが、菖子さんに止められました。
2時間ほどが経った頃でした。
空の遠くで春雷のようなものが轟いたような気がしました。私はふと朝に天気予報を見てこなかったことを思い出しました。電話を受けてすぐに出てきたからです。菜摘の儀式のことを聞いていましたから、平常心ではなかったのかもしれません。
わたしはおばあさま方のひとりに尋ねました。
「あの、今日は雨は降りませんか」
おばあさま方は首を横に振りました。当然です。日本晴れでした。とても雨など降るようには思えません。
でも――その瞬間、空気が震えました。
私は「あ」と声を出してしまいました。みんなの視線が私に集まり、私はすこしばつの悪い思いをしました。
けれども、菖子さんと何人かのおばあさまだけは、私の反応がどういう意味を持つのかを理解していました。
万座の中心にいた菖子さんが私に声を掛けました。
「楓ちゃん、あなたが迎えてあげなさい」
私は驚いて、菖子さんとそのすぐ隣にいらっしゃる、七倉家の主要な能力者のおばあさま方を見ましたが、どの方も頷かれるだけでした。
「分かりました」
私は皆さんの視線を浴びながら、倉に近づきました。金属がひび割れる音がします。空気が張り詰めるような感覚に襲われました。扉に手を触れるまでもありませんでした。
南京錠が割れていました。新品の、七倉製作所特注の複雑な仕様のものです。
倉の扉がわずかに開きました。その隙間から、恐る恐るといった様子で小さな体が出てきました。菜摘は私を見つけると、赤くなった目で見上げました。
私は菜摘の頭を撫でて、菜摘を思い切り抱きしめました。
「おめでとう、あなたと私は同じよ……」
菜摘は私に抱きしめられると、はにかみました。
「16代目だ!」
誰かが大声で言いました。
「本家のご長女が鍵を開けられたぞ!」
私の背後で何人かが立ち上がるのが分かりました。足音が激しくなります。電話を掛けるものが何人もいます。菜摘を拝むひともいました。ひれ伏すひともいました。重役のおじ様のひとりが扇子を掲げ「万歳!」と声をあげました。
「おめでとうございます!」
会長様と社長様は次々に祝いの言葉をかけられました。
「謹んでお祝い申しあげます!」
菖子さんにも皆が祝辞を述べました。